第13話 水鉢の一匹は、二匹の海を願った。①
理歩は悩んでいた。
七月の保健室は、クーラーが利いていてとても過ごしやすい。
そんな部屋で、つい昨日できたばかりの犬のお面を被って、理歩は机に頬杖をついていた。
目下、理歩を悩ませているのは、砂乃子と陣吉の事だ。
あれから、陣吉は砂乃子の家には近寄っていない。
少し距離を置いて、お互い頭を冷やすつもりなのだと言う。
砂乃子も砂乃子で、ここ数日ずっと元気がない。
理歩が来れば分かりやすく明るく振舞ったりして感情を隠そうとする。
そんなことをしなくても、受信機のある理歩にはお見通しなのだが――――でも、そうしないでいられないのだろうと言うことも、理歩は察していた。
砂乃子は優しいから、理歩を悲しませるような自分の姿を、見せつけたりできないのだ。
だから、理歩も何も言わずにそっとそばに居るだけにしている。
もし、砂乃子が一人になりたいと思ったら離れるし、あの時のように感情をさらけ出したくなったら、ちゃんと聞いてあげられるように。
理歩は受信機を調整して、準備している。
「音内さん?」
麦茶の乗ったお盆を持って、円居先生が声をかけてきた。
狭い穴に顔を映して、理歩は「はい」と返事をする。
「なんだかさっきから首をひねっているけど、悩み事かな?」
コップの片方を理歩の前に置いて、円居先生が聞いてくる。
そんなに分かりやすく悩んでいたのだろうか。
お面もあるのに恥ずかしいなと、理歩はもぞりと体を揺らした。
「いえ…… ちょっと、大切な人たちのことを考えてて」
言ってから、面の下で頬が熱くなった。
『大切な人』なんて、普段言いなれない表現に、気恥ずかしさが襲う。
でも、間違った使い方はしていない。
理歩にとって砂乃子と陣吉は、もうとても大切な存在だ。
「へぇ? お友達?」
「うーん、同い年の子たちではないんです。と、とにかく、大事な人たちで……」
「そうなんだ。その人たちのことで悩んでるんだね?」
それって、聞いてもいい話?
押しつけがましくなく、円居先生が聞いてくる。
理歩はちょっと考えてから、こくんとうなづいた。
先生になら、話してもいいかもしれない。
二人には直接関係ない人物だし、話してみて、新しく思い浮かぶこともあるかも。
理歩は砂乃子と陣吉の素性と、自分との関係は伏せて、今悩んでいることを先生に語ってみせた。
自分にとって大事なとある二人の人が居て、その二人が、今はどうしようもなくすれ違って一緒にいられないでいる事。
理歩はその二人の両方を大事に思うから、無闇に間を取り持つこともできないでいる事。
でも、本当は昔みたいに笑って一緒にいられるようにしてあげたいと思っていること。
円居先生はうんうんと首を振りながら、理歩の話を聞いてくれていた。
「つまり音内さんは、その二人に昔みたいに仲よくしてほしいんだね? でも、お節介で二人の想いを無視した行動はとりたくない。合ってるかな?」
端的にまとめると、そうだ。
言葉で切り取ったせいで、切り捨てられた感情があるようなのが気になるが、理歩はとりあえず肯定しておいた。
「そっか、難しい問題だなぁ」
「具体的な何かをやろうとは思っていないんです。二人の気持ちを置き去りにするようなことは嫌だし……今は、待つのが最善なのかなぁって思ってて」
でも、もし理歩がすぐに考え付かないようなもっといい方法があるなら、考えるのもやめたくない。
だから、こうしてない頭をひねって悩んでいるのである。
もっと自分が大人で経験豊富だったら、今以上に上手くできるのかもと考えると、かなり悔しい。
けれど理歩は今の理歩でしかなくって、上手い策など思いつけそうもない。
「やっぱり、余計なことをしない方がいいですよね」
「うーん、そうかな?」
ため息交じりにつぶやくと、先生が軽い調子でそう投げ込んできた。
「待ってるだけって、音内さんも辛いでしょう? そんなに、相手の事ばかり考えなくてもいいんじゃない?」
え、と理歩は顔を上げた。
円居先生は、変わらない笑みでそれにと続ける。
「すれ違ってて、それを苦しく思ってるなら、その人たちだって、変わらなきゃ。音内さんをこんな風に悩ませてばかりいるなんて、その人たちも身勝手でしょう」
はっきりとした言葉に、理歩は戸惑った。
お面で鈍いはずの受信機が、波長のずれを受信する。
それが居心地が悪くて、視線を落とした。
「で、でも、私は良いんです。私は、迷惑だなんて、思わないから」
「音内さん」
ゆったりと呼ばれて、そっと顔を上げる。
「そんなに、あなたばっかりが我慢することないのよ? 相手の人たちの仲が良くないのをいやだと思うなら、その通りはっきり言ってしまえばいいの。自分のことを押し込めて、相手の事ばかり思わなくていいの」
「あ、」
いやだ。 直感的にひらめいていた。
いやだ、先生の言葉は、いやだ。
受信機が、振動する。
確かに、本音をぶつけ合うことは、必要なのかもしれない。
陣吉だって、そうして砂乃子と向き合う覚悟を決めていた。
でも、先生の言葉は違う。
先生の言葉は理歩に味方するあまり、二人を悪者にしてしまっている。
だから、二人を傷つけてもいいとさえ思っている。
夕日に浮かんだ、陣吉の姿が目の奥ににじむ。
先生の言葉には、陣吉のように、自分を丸ごと差し出すような覚悟も自覚もない。
自分だけ離れたところにいるから、そんな風にきれいごとみたいな無責任なことを言える。
言われた方の痛みにも、無関心でいられる。
理歩はそれ以上先生の波が届く範囲にいられなくって、勢いよく立ち上がった。
「音内さん?」
「すみません、先生。次の授業の準備しないといけないんだったの、忘れてた」
教室に戻ります。
そう口早に言い捨てて、保健室を飛び出した。
先生が背後で呼ぶ声が背中にからんだけれど、理歩は振り切って廊下を走った。
お面をするようになって、ずっと感情がすれ違うのを受信してこなかったのに。
久しぶりに食い違う想いを目の当たりにして、理歩は哀しかった。
自分の見込み違いで砂乃子たちまで汚してしまって、申し訳なさに込み上げるモノが耐えられなかった。
静かな世界が恋しくて、放課と同時に理歩はお面をつけて学校を飛び出した。
一刻も早く円居先生のいるところから離れたい。
その一心で家まで速足で歩き、面を外して自転車に飛び乗った。
夏の暑さに汗をたらしながら黙々と足を動かしていると、いつの間にか祖母の家の近くまでたどり着いている。
もう少しで家に着くが、こんなへしゃげた気持ちで祖母の相手ができるはずもない。
困った理歩は、道沿いの草の茂った斜面に腰を落ちつけることにした。
自転車を置いて、面をつける。
閉じた世界に、心が凪いだ。
斜めに生えたクヌギのそばへ足を丸めて座ると、重たい息がこぼれ出る。
内側では、まだ受信機があの居心地の悪い波を覚えていて、嫌な具合に振動していた。
失敗だったなぁ。 理歩は体を丸めてそう思った。
砂乃子たちを身勝手だと言った円居先生を、嫌な人だとは思わない。
でも、先生も理歩と同じくらい砂乃子たちを大切に思う前提で考えてくれるだろうと考えたのは、理歩の間違いだった。
先生は砂乃子たちの苦悩をちゃんと見たわけでもないし、二人に深く関わったわけでもない。
よく知っている理歩の事を一番に考える見方をするのも、今思い返せば理解できる。
自分が砂乃子たちをよく知っているから。
だから、他の人も同じように砂乃子たちを大切に考えてくれるだろうというのは、理歩の思い違いだ。
その思い違いのせいで、先生に失礼な態度もとってしまった。
自分の不甲斐なさに嫌気がさして、ううっと頭を抱える。
すると、
「なーに、やってんだお前」
聞き慣れた呆れ声に、ばっと顔を上げた。
きょろきょろと小さい目穴からその人を探して、
「陣!」
久しぶりに顔を見せた男の名を呼んだ。
「んなとこでなにうなってんだよ。しかも面付きで。あからさまに怪しすぎるぞ」
妖怪かよと伸ばされた手に、おずおずと手を重ねる。
そのまま容易く引っ張りあげられて、道の方へ降り立った。
「で、なに考え込んでたんだよ?」
祖母の家の方へ体を向けながら陣吉にのぞき込まれ、理歩は面を取った。
「ちょっとね。というか、陣は砂乃子さんとこに行くの?」
もう落ち着くのは終わったの?
自転車を立てらせて探るように返すと、陣吉は持っていたビニール袋を揺らし、半眼になってみせた。
「今日はお前のばーさん家に用だよ。生憎、こっちも傷心が癒えてないもんでね。まだ奴には会いに行けねぇよ」
「……そう」
何となくその答えが寂しくて、理歩は目線を落とした。
そうして話していると祖母の家が見えてきて、陣吉が塀の呼び鈴を鳴らす。
祖母が返事をして、ぷつりとすぐに切れる音。
「私が呼ぶのに」
「一応な、礼儀だ」
「陣って、礼儀にうるさいねぇ」
「俺のポリシーだからな。礼儀を頭に置いとけねぇ奴は、人として駄目だ」
「ふーん」
理歩が相槌を打ったと同時に、玄関がからころと開いた。
「まぁま、陣ちゃん! 梨歩も、暑かったでしょう? 上がって上がって」
祖母にうながされるまま、二人は縁側の方へ庭から上がる。
ちゃぶ台を挟んで座っていると祖母が冷えたお茶を持ってきてくれて、二人で一息ついた。
「陣ちゃんは、久しぶりねぇ。最近見ないから、砂乃子ちゃんと喧嘩でもしたのかと思ったよ」
おばあちゃん、鋭い。
理歩は困り顔で笑いを返す陣吉を横目に、茶をすすった。
陣吉は脇のビニール袋を開いて、箱を取り出す。
「ばーさん、コレ。本業の方で取材に行ってたんだ。土産だよ」
「あらぁ、悪いわねぇ」
「菓子だから、今食ってくれていいぜ」
じゃぁそうしようかねぇと、茶器を取りに祖母が台所に立つ。
理歩はそれを持ち構えて、陣吉の方へ身を乗り出した。
「で、砂乃子さんに会ったら、どうするつもりなの?」
今は距離を取っていても、陣吉だって、いつかは砂乃子に会う心積もりがあるのだろう。
あんなふうに喧嘩別れして、また顔を合わせる勝算はあるのかと、眉を寄せて問い詰める。
「どうするって、変わんねぇよ。あいつが閉じこもってるとこから出てくるのを、待つだけだ。それしか、今できることはねぇんだ。しょうがねぇ」
「前回あんだけ派手に怒らせといて? 確実に現状は悪化してるよ?」
「お前が俺を焚きつけたのが悪いんだろーが」
「あ! 人のせいにした! 焚きつけたりしてないじゃん! 陣の自爆だったじゃん」
「うるせー、俺だっていい加減我慢したわ。だからって、もう無理やりが最善じゃないのは身に染みてんだよ。だから『待ち』だ。お前だって、あいつに無理強いさせたくねーんだろ?」
「そりゃ、そうだけど……」
だったら話はこれまでだと、陣吉はそっぽを向く。
理歩はやりきれない思いで、乗り出していた体を戻した。
確かに砂乃子は今、一度追い詰められて不安定になっている。
この頃ずっとそばで見ていた理歩には、それがよく分かっている。
でも、だからと言って陣吉が砂乃子と距離を置き続けるのを見ているのは、理歩だって辛いのだ。
ままならないなぁ。 理歩はまだ使い慣れない言葉で心を表してみた。
その時。
「あら、砂乃子ちゃん。まだ中に入ってなかったの?」
閉じられた襖の向こうで、祖母が声を上げる。
それに、理歩と陣吉は、二人して目を見開いた。
勢いよく声の方を見やって、息を詰める。
「陣ちゃん、理歩。今丁度ね、砂乃子ちゃんが来てくれててね。一緒にお漬物を漬けてたの」
朗らかに言う祖母の声に、理歩は焦って陣吉とふすまを交互に見た。
ゆっくりと開く戸と、固まった陣吉。
笑いながら顔を見せた祖母の向こうには、素顔の砂乃子が立っていた。
「陣ちゃんのお菓子と一緒に、お漬物もどうぞ」
そんな。
あんまりなタイミングに、理歩は眩暈がするようだった。
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