第14話 水鉢の一匹は、二匹の海を願った。②
一人楽しげに話し終えた祖母は、漬物の片づけをしなくちゃと、いそいそとまた台所に立って行った。
ついでに近所にも持って行くからと、先ほど玄関が閉まった音もした。
祖母の話に笑って相槌を打っていた陣吉と砂乃子は、祖母が居なくなった途端、すっと顔色を失くした。
そのまま重たい沈黙が落ちて、理歩はぎゅっと肩をすくめる。
息苦しい。
上目づかいで、机を挟んだ二人をうかがう。
腕を組んで視線を逸らしている陣吉は、しかめっ面で頑なな波を発している。
砂乃子は砂乃子で、白い顔をしたまま波を限りなく平坦にして、この時間を耐えているようだった。
何か言うべきだろうか。
理歩は焦って頭を回した。砂乃子がどこまで話を聞いていたのかは分からないが、陣吉と通じているのを知られたのは、良くない気がする。
上手くは言えないが、理歩にその気がなくても、砂乃子を裏切っているような見方もできると思うのだ。
それはまずい。
陣吉にも砂乃子のそばに居るよう託されたのに、砂乃子との心に距離ができてはいけない。
そもそも、理歩がそれを望まない。
砂乃子に自分が砂乃子を裏切ったと思われたくない。
あの! と声を上げかけて、「相変わらずなのかよ、お前」
押し殺した低いつぶやきに、陣吉を見た。
眉を寄せてすがめた目で、陣吉が砂乃子をにらみつけている。
硬質な言葉が、砂乃子を威嚇するようだった。
陣、と制止する理歩を無視して、陣吉は続ける。
「まだ、逃げるのは止めねぇのかよ。俺があれだけ言っても、お前は、」
「アンタには、分からない」
ぴしゃりとした強さで、砂乃子が続きを打ち切る。
その勢いに砂乃子自身も驚いたのか、追い詰められた表情で理歩の方を確認してきた。
「あ…… ごめんね、理歩ちゃん」
砂乃子の波が、陣吉と理歩の間で戸惑っている。
理歩は必死に首を横に振って、砂乃子をなだめようとした。
「大丈夫だよ、砂乃子さん…………陣」
砂乃子を強くねめつける陣吉を、声でとがめる。
それでも陣吉はそれをやめなくて、理歩は途方に暮れた。
「陣、砂乃子さんのこと、待つんでしょ? なんでそんなにするのよ」
「…………」
困り切って言うと、陣吉はようやく鼻を鳴らして視線を逸らしてくれた。
けれど、また耐えがたい沈黙が落ちてきて、理歩は心のやり場に迷ってしまう。
このままではよくない。
それは分かるのに、じゃあどうすればいいのかははっきりと分からない。
こんな風に直接向き合っては、お互いを削って後悔を残すだけだ。
だからといってこのまま別れるのも、きっと二人の溝を深める。
じゃあ、どうしよう。
理歩はふと手元を見下ろして、――――目を見開いた。
畳の上に転がる、理歩のお面。
その黒く切り取られた目穴に、視線が吸い込まれていく。
これだ。 理歩は勢いよく顔を上げた。
「砂乃子さん! 今日、お面は?」
突然声を開けた理歩に目を丸くして、砂乃子が胸を押さえる。
「え? お面?」
「そう、お面! 今日はしてこなかったの?」
「う、ううん、してきた。料理中は取ってたの」
「どこに置いてある? 水屋?」
「え? ええ」
そうか、良かった。理歩は立ち上がって廊下に出た。
出るときに「ちょっと待ってて!」と二人に言い置いて、台所に走り込む。
きょろきょろと目的のそれを探し、椅子の上にあったものを引っ掴んで、急ぎ居間に駆け戻った。
「陣、これ着けて! 砂乃子さんは、小さいから私のを」
ぐいと、台所にあった猿のお面を押し付ければ、陣吉は苦い顔でそれを見る。
「なんで俺がこんなもん着けなきゃなんねーんだよ」
「嫌なの?」
「こんなもんで顔隠して、自分だけ相手に顔色読ませないような卑怯、したくねぇ」
「だったら、砂乃子さんも着けるから、お互い様だよ。だから、ね?」
お願い、と理歩は真剣に頼んだ。
陣吉の言い分もよく分かる。
陣吉は、誰の感情へも真っ直ぐに向き合いたいのだ。
それが出来るだけ、強い所がある。
でも今の弱った砂乃子には、その強さが毒だ。
ちゃんと向き合っては話すには、緩衝材が要る。
だから、理歩はお面を持ち出した。
じっと見つめる理歩に、難しい顔をしていた陣吉もついに折れてくれた。
少し面白くない顔のまま、器用に面をつけてひもを結ぶ。
それを確認して、理歩は砂乃子に向きなおった。
砂乃子は驚いた様子で二人を見ていて、理歩はそんな彼女にゆっくりと近づく。
「砂乃子さん、これ」
自分の犬のお面を手に取って、砂乃子に手渡す。
砂乃子は途方に暮れたように理歩と面を見比べた。
「理歩ちゃん……」
「砂乃子さん、ごめんね、変な事頼んで。困るよね? 分かってるんだ」
理歩は細い手を取って、視線を落とす、
「私は、二人の間の事を、勝手にどうこう言えないから。だから……だけど、せめて、これくらいはさせて、ほしい」
砂乃子の波が、はっと一瞬固まる。
それから陣吉の方を見て、「……何を言ったの?」と声をふるわせた。
陣吉は押し黙ったまま、砂乃子の視線を受けて立つ。
理歩は焦って、「違うの」と砂乃子に呼びかけた。
「私が聞いたの。砂乃子さんの事を一人にしたくなかったから、だから」
でも、やっぱり砂乃子の意思を無視して聞いたのは、自分の身勝手だ。
ごめんなさいと、理歩は頭を下げた。
砂乃子は、波を不規則にゆらした。
理歩のことを責めるつもりもないが、陣吉を責めるのもやめられない。
そんな風に葛藤したみたいだった。
「……理歩ちゃん、分かった。怒ったりしないから、顔を上げて?」
細い声で呟いて、砂乃子は目を閉じた。
ぎゅっと世界を追い出して、そのまま、そっと面を被って顔を上げる。
それは、何も知らない誰かが見れば、とても奇妙な光景だったかもしれない。
お面をつけて、完全に顔を隠した二人の男女。
でも、理歩には見えていた。
逆巻いて同調しない二つの波。
けれどお面があることで、その勢いが弱まっていく。
激しい波長のずれが、調整される。
「……やっとこっち見たな」
お面の奥で、陣吉が言う。
砂乃子は、しっかりと前を向いていた。
「『これ』で俺が顔隠してたら、逃げなくて済むのかよ」
ぎゅっと机の下で、砂乃子が手握る。
けれど、今度は引かなかった。
「……ずっと、あなたの言葉が痛かったわ。『人の間で生きろ』って、私にはもう到底出来そうも無い事を、何度も言われ続けてきたから」
「知ってるさ。だから逃げてたもんな、いままでずっと」
「そう、ね」
理歩は、二人から離れるべきか迷った。
もぞりと体を動かして、二人の波に波紋を寄せる。
それに気が付いた砂乃子が、お面の穴から理歩を見た。
その目は理歩を捕まえて、そこにいることを願うようだった。
陣吉も微かに一つ、うなずきをくれる。
二人の許しが出た。
理歩はほっと肩から力を抜いて、二人に合図を返した。
「砂乃子」
重々しく陣吉が名前を呼んで、二人の気をひく。
「俺は、譲らねぇぞ。お前が俺から離れるのを、許す気はねぇ」
陣吉が、波を大きく揺らす。
「お前が理解されたい『何か』を、俺は理解できない。それは分ってる。でも、誰にも理解されないのを儚んで、お前が生きるのを諦めるのだけは納得しねぇ」
陣吉は理歩をあごで示して、砂乃子に畳みかける。
「もうお前には、お前の内側に入れてもいい奴が居るんだろう? 分かってくれる存在が、できたんだろ? だったら、」
もう一人ではないんだからと、陣吉が振り絞る。
波がせめいでいる。
理歩のようでありたかったと、うらやむ陣吉の想いがぶつかり合う。
「俺たちの居るところから…………俺から、逃げるんじゃ、ねぇよ」
あの日のような激しさは見る影も無く、陣吉の波はそう言い残して引いて行った。
意識が、削るように砂乃子に向かうよりも、陣吉自身の内面へ向かっているのだ。
お面があるせいで砂乃子を強く意識しないから、自分の気持ちに集中してしまう。
その分、陣吉の外への強さも弱くなる。
理歩は、そっと砂乃子をうかがった。
犬のお面は、陣吉をずっと見つめている。
だから目穴の奥を汲み取れなくて、理歩は受信に集中した。
砂乃子のこれから起こす波を、ちゃんと見定めるために。
平坦に抑えられていた波は、溜息と共に息を吹き返した。
「そうね。もう私は、一人じゃない。理解者が居る。もう生きるのを怖がる必要は、ないのかもしれない」
語尾をふるわせたのは、砂乃子のためらいだったのだと思う。
「でも、アンタは、ちゃんと分かっていないわ。私が『あの日』、ああしようと決めたのは」
「お前が死にたいのを、俺が認めないから。それがお前を追い詰めたんだろ?」
それも知ってると、自分をえぐるように陣吉は言葉を吐いた。
理歩は、陣吉の方へ腰を浮かしかけた。
でもそうする前に、すぐそばでとても悲しい波音が打ち寄せるのを聴いてしまった。
「ううん、アンタは、分かってない」
胸を押さえた砂乃子が、息をかすれさせる。
その白い首筋にきらりと光る筋を、理歩は見つけた。
「陣。私が、あの日、『ああすること』を選んだのはね? アンタを信じてたからよ」
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