第8話 一匹は二匹になって、初めての海を知った。④
明くる日から、理歩の保健室通いは始まった。
登下校も、授業時間も、小休みも、いつも通り、何ひとつ変わらない。
ただ、給食の終わった昼休みだけは、友人たちの居る空間から離れ、保健室で静かに過ごすようになった。
もちろん、手製の張り子面を被って、である。
人から離れているのは、正直息がしやすい。
別に友人たちが嫌いなわけじゃない。
けれど、理歩にとって好意も嫌悪も受信機が受け取る波でしかない分、ずっと受け取っているのは息が詰まる。
誰もが砂乃子のように軽やかな波をまとっているわけではない。
それを分かっているから、友人たちに同じものを求めるつもりも無い。
全部理歩の都合でしかないのは、よく分かっているのだ。
保健室に通うようになった最初の頃こそ、友人たちは理歩の様子を見に来てくれていた。
いつものようにふざけ合って、おしゃべりをして、授業に戻る。
けれど、日を追うごとにそれも無くなり、普通の休み時間の会話も、段々理歩だけが置いていかれるようになっていった。
何となくそうなるだろうということも、予想がついていたが、理歩はそれをただ一歩引いたところで眺めて、どうにかしようとも思わなかった。
距離を取ったのは理歩の方で、そうなるのは当然だと、頭のどこかで判断出来ていたから。
友人たちは、大切だ。
でも、理歩は息がしやすい所から出て行くのが面倒になってしまっていた。
そうして、お互いのペースがずれていく。
こうなれば、離れるのがお互いのためだろう。
大事だと思うから、離れていくのを責める気力もおこらない。
それに、理歩には砂乃子がいる。
あの人さえいれば、他の誰に見捨てられても、何も怖くない。
ゆっくりと理歩の世界は、砂乃子を中心に回りだしていた。
それが正しいのか、間違っているのを、外側から指摘する人は誰も居ない。
こうして理歩は満ち足りたまま、一人の静かな世界にひたっていったのだった。
「最近、お友達とはどう?」
ことりと紙カップのお茶を差し出しながら、円居先生が声をかけてきた。
目穴の奥から次のお面の構図を描いていた理歩は、はっと顔を上げる。
「友達ですか? 変わりませんよ。相変わらずです」
理歩はほがらかに返した。
嘘をついているつもりはない。
友人たちは理歩をのけ者にしているわけではないし、理歩も相変わらず友人たちが大切だ。
ただ、ペースがずれて距離ができているだけ。
いじめや喧嘩なんて大げさに言うほどの何かが、あるわけじゃない。
けれど、円居先生はほんのりと寂しそうにして、「そうなの?」と眉を下げてきた。
「音内さん、以前はもっと、お友達とよくしゃべっていたでしょう。保健室にも、ちょっと前までよく来てくれてたのに、最近はあんまりその姿を見ないから……」
語尾に、『何にかあって困ってるんじゃない?』という言葉が続いたのを、理歩は正確に察知する。
そろそろ、そういった声をかけられるだろうというのは予測していた。
近頃先生が話したそうにしているのを、受信機が受け取っていたからだ。
本音を言えば、その相手をするのが、面倒ではあった。
面倒だったが、保健室以外ではお面の世界に入れないし、理歩は仕方なく先生が仕掛けてくるのを持っていたのである。
顔が見えないのをいいことに、理歩はすっと顔色を失くした。
あまりしたくない会話の相手をするとき、表情にまで気を配るのは疲れるのだ。
「保健室まで来るのは、皆も大変ですから。と言っても、普通の休み時間には話してるし」
なにも困ったことはないですと、声色だけ明るく返事をする。
円居先生は「本当?」と、まだ疑わしげに首を傾げた。
理歩の言葉を素直に受け取る気のない様子に、気づかれないよう、ふうとため息をこぼす。
どうしてだろうなぁ。 そう、心の内につぶやいた。
どうして自分と砂乃子の世界の外は、こんなにやりにくいのだろう。
先生は、純粋に厚意で理歩を気づかってくれている。
でも、その心は理歩の想いを正しくくみ取ってはいない。
だから、こんなズレた思いやりしか向けることができない。
理歩は、今を何も不自由に思っていない。
とめどない波間から離れて、静かなところで心を休めることができている。
家は好きではないけれど、砂乃子という、帰り着きたい大切な人もいる。
何一つ困ることなく、こうして息ができているのに。
どうしてそんな不必要な波を向けてくるの。
私を、波間におぼれさせようとするの。
「…………まぁ、ちょっと距離ができてるのは、本当ですけどね」
先生が食いつきやすいようにやんわりと困ってみせると、案の定先生はぱっと空気をそよがせて身を乗り出してきた。
「やっぱり、そうなのね? 音内さんは、大丈夫? もし困っているなら、先生が力になるから」
なんでも言ってと、嬉しそうな微笑みが哀しい。
先生、私、何も困ってないかないよ。 先生が心をくれなくても、大丈夫なんだよ――――そう、素直に言ってしまいたい。
だとしても、自分の見たいように理歩を見ている円居先生は、さっきみたいに疑って、理歩の言葉をそのまま受け取ってなんてくれない。
そうやって二人の間のズレは大きくなっていって、いつかどうしようも無くなる日が来るのかもしれない。
でも、理歩はそれすらどうでもいいと思うようになっていた。
波と波のズレを何とかしたいと、思ってはいる。
けれど、それはとても難しくて労力がいるのを、理歩は知ってしまっていた。
そうやってズレを合わせようと頑張っても、すぐにまた波長が別れてしまうということも。
「うーん、でも、今はまだ、すごく辛いなんてことはないから……」
だからその時が来たら、きっと先生に相談しますと、理歩は波を円居先生に返した。
先生が送ってくれた波と同じだけの、波長の合った波を込めて。
円居先生はそれになんとなく不満そうにしながらも、「分かったわ」と受け入れてくれた。
暗い面の内側で、理歩はそっと目を閉じる。
そうすれば何もかもが遮断されて、まぶたの裏に、会いたいあの人の姿が浮かんだ。
大切にしたい人だと思うのに、その中でも息がしやすいほど通じ合える人は、どうしてこんなに少ないのだろう。
理歩はそれが歯がゆくて、やるせなくて、仕方なかった。
その日の学校からの帰り道、ずっとそのことを考えて歩いた。
早く砂乃子に会いたい。
恋しさでいっぱいになりながら、理歩は家を目指した。
家に着いたら自転車に乗って、砂乃子の家に行こう。
急ぐ心でふわふわと歩いていたから、家のあるマンションの入り口にいた人影へ、すぐに気が付かなかった。
「理歩」
呼ばれた声に、びくりと肩がはねる。
そっと正面を見ると、やせた細い影が立っていた。
仕事へ向かうらしい母の奈江子が、こちらを見ている。
「お、お母さん。珍しいね、帰りに会うなんて」
へらりと顔をくずしながら、理歩は奈江子に近づいた。
そばへ寄ると、ねっとりと重くて、はりつめたような波が理歩の受信機を刺激する。
奈江子は疲れて不機嫌そうに鞄をかけ直し、顔をしかめた。
「仕事が押してて、これからすぐ夜勤なのよ。だから今日はあんた、一人で夕食食べて、片付けもしておきなさいね」
「え、また? 最近多いね」
「人の入れ替えで、手が足りないのよ。今月いっぱいは多分忙しいから、そのつもりでいなさいね」
「……うん、分かっ、あ!」
「? なに?」
背中を向けて行きかけた奈江子が、理歩の声に振り返る。
「あ、いや、その、学期末。面談あるから、それを」
今日のホームルームで渡された用紙を引っ張り出して渡そうとすると、
「ああ。そういえばあったわね。いいわ、帰ってから見るから」
机の上にでも置いておいて。
奈江子は素っ気なく言い捨てて、歩き出してしまった。
「あ、」
頑張ってね、とまでは、理歩も続けられなかった。
終始眉を寄せたままで奈江子は立ち去っていき、理歩はその後姿をずっと見送る。
今日も、また笑ってるとこ見なかったな。
目を伏せた理歩は、ずんと重たいような体を引きずって家に戻り、玄関扉を閉めた。
カーテンが閉まって薄暗い室内をぼーっと見遣り、上り口に腰を落とす。
ここには今、誰もいない。
けれどこの家の空気は、理歩を窒息させるようだった。
さっきまでいた母親の気配が、遠い日の思い出が、どろどろと渦巻いて受信機を圧迫する。
ここは嫌だ。
嫌だと嫌いたくないのに、そう思うのをやめられない。
大切なはずの母親すら遠ざけてしまいたいような気がして、理歩は体を丸めた。
大事なのに。
自分の為に働いて、料理も洗濯も頑張ってくれてるのに。
どうしてこんなにもそばに居るのが苦しい。
息がしたい。
ゆっくりと、意識することなく、深く深く肺を動かしたい。
会いたい――――砂乃子さん。
「ごめんね、お母さん……」
優しく笑ってくれるあの人を思い浮かべてしまったことを、理歩は母に謝った。
なんて自分は残酷なんだろう。
そう、身勝手な心を責めることをやめられなくて、涙が出た。
しんとして気配もない家の中で、ぽとぽとと泣いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。