第7話 一匹は二匹になって、初めての海を知った。③

 決行は、翌週の月曜。

 砂乃子と買い物に行った週末、理歩は三枚目のお面を完成させた。

 つんと澄ましたような、狐の半面。

 赤と白に塗ったその出来は上々。 自分でも納得の逸品だ。

 それをカバンの中に隠し持って、理歩は通っている中学へ登校した。

 ここまでくれば、理歩の思惑は理解していただけると思う。

 お面の出番は、長い昼休みだった。

 人気のないトイレで、理歩は結い上げた髪の上に狐面のひもを結んだ。

 鏡には、半分のお面に目元を隠した自分が居る。

 周囲と遮断されて視界が狭まり、入ってくる情報が少なくなる。

 『受信機』は、ノイズを拾わなくなる。

「大丈夫。変に見られても、悪口言われても、大丈夫」

 だって、私には砂乃子さんが居る。

 理歩は決心していた。

 自分も砂乃子のように『受信機』を押さえつけて、生きやすい世界を手に入れるのだ。

 何もかもを受信して、波が荒れ狂う世界から脱するのだ。

 気合を入れて、トイレの入り口に立った。

 指先を、ためらいがふるわせた。

 けれどそれをにぎりつぶして、扉を押し開く。

 廊下へ出た途端、同級生たちが通り過ぎていく。

 みんな、グループになって話している。

 会話があふれて、耳が色んな音を拾った。

 理歩が通り過ぎると、会話が一瞬途切れるようだった。

 理歩は慎重に歩いた。

 情報が遮断された世界はなんだかおぼつかなくって、びくびくとしたおびえが上がって来る。

 それでも周りに気づかれないよう、なんでもない風を装って、真っ直ぐに自分のクラスに向かった。

 みんなが、理歩の顔を見ているようだった。

 でも、すぐに同級生たちの顔は小さな丸い視界を過って、感情を読み取る前に消え去って行く。

 理歩はお面の効力を存分に感じていた。

 クラスの入口に立つと、一瞬しんと静まって、数人が理歩を見た。

 理歩はそのまま自分の机へ近づき、すとんと腰を下ろした。

 いつも昼休みは自分の机で本を読むか、友達としゃべるかだ。

 今日は作戦の実行日だったから、自分から友人たちに声をかけるのはやめておくつもりだった。 でも、

「り、理歩?」

 友人の一人が、おっかなびっくりで声をかけてきてくれた。

「理歩、だよね? なぁに? そのお面」

「うん、そうだよ。ごめん、驚かした?」

「そりゃ驚いたけど……どうしたの、それ?」

「作ったんだ、自分で」

「作った?! 自分で?」

 そんなやり取りを皮切りに、親しい女子たちが集まって来た。

 中に数人、男子がいたのはちょっとびっくりしたが、物珍しさにつられたらしい。

「作ったって? どうやって?」

「これ紙? しっかりしてるなぁ~」

「ちょっと、外してみせてよ!」

「なんで、そんなのつけてるの?」

 どわっと人に囲まれて、理歩はたじろいだ。

 こんなに人に話しかけられたら、いつもなら波にもみくちゃにされて、なにも言えなくなっているところだ。

 顔だって赤面して、うつむいてしまっていただろう。

 でも、今日は平気。

 理歩は世界から切り離されて、混雑から一歩引いたところにいる。

 確かに人があふれて情報は多いが、一人一人を分析できるほどの個々の情報を『受信機』が拾えていない。 小さなノイズにしかならないのだ。

 理歩は何だか、未知の力がわき上がってくるような気がしていた。

「みんな、待って。いっぺんに話されても返せないよ。一人一人答えるから」

 いつもだったら頭が分析でいっぱいで、こんな堂々とした態度なんてとれるもんじゃない。

 なんだか、自分が違う生き物になったみたいだ。

 理歩は小さな世界を、余裕を持ってながめていた。

 その時。

「そこのお前、それは何だ?」

 ざわめきに、強い声が飛び込んできた。

 それは、若い男の体育教師のものだった。

 さっと、教室をおおっていた熱が引いていく。

 生徒たちは一斉に黙って、先生に道をゆずった。

 近づいてくる先生は、陣吉ほどではないが、彼に似た強い圧迫感を放っていた。

 それでも理歩は、落ち着いて先生を迎え入れる。

 お面の小さな世界に、先生も小さくしか見えなかったからだ。

「来なさい、ちょっと話がある」

 理歩は職員室に連行された。

 部屋に入ると、他の教師たちが物珍しげに理歩をのぞきこんでくるのが分かる。

 先生だって、興味津々なのだ。

 体育教師は自分のイスに座り、理歩にも座るよううながした。

「あー、三組の……」

「音内です」

 理歩は、ぴんと背を伸ばして答えた。

「あー…… そのぉ、お面? を、取りなさい」

 先生は気難しげな顔で腕を組んで言う。

 理歩は、申し訳ないがそれはできないと首を振った。

 年上の先生に、こんな風に抵抗できたのは初めてのことだった。

「着けていたいんです。外したくありません」

 理歩の強気に呆気に取られて、先生は目をぱちくりした。

 それからちょっと怖い顔をして、目穴の中をにらんでくる。

「だが、学校に余計なものを持って来ちゃいけない。そういう決まりだ」

「余計なモノって、どんなものですか?」

「授業に関係ないものだ」

「でも、家から持ってきた本とかは授業に関係ないけど、読んでる子はいますよ」

「あれは、ゲームやおもちゃとは違うだろう」

「じゃあ、私の『作品』はおもちゃですか?」

「さ、『作品』?」

「そうです。絵を描いたり、小説を書いたりするのと同じ。私のこれだって、私が作った『作品』ですよ」

 それ、作ったのかい? 近くで聴いていた社会のおじいちゃん先生が面白そうにたずねてくる。

 理歩がうなづくと、「へぇ!」と感嘆してみせた。

「能のお面みたいだ。上手いこと作ったなぁ」

「……先生、ちょっと黙っててください」

 体育教師が眉間をもんで制した。

「とにかく、『作品』だからって、授業に関係ない物は持って来ちゃだめだ。そういうのは、家で飾るか、被りたいなら、被るかすれば……」

「じゃあ、学校で作ったら、被ってもいいですか?」

「はぁ?」

 理歩の提案に、先生はすっとんきょうな声を上げる。

「だって、学校の美術の授業で作ったら、学校での『作品』ですよね? だったら、学校で使ってもいいでしょう?」

 授業で描いた絵は教室にかざるし、作った制作物で遊んだりもする。

 そうすれば文句ないでしょう? と、理歩は半ば無理矢理切り込んだ。

「が、学校で作ってもダメだ。授業の邪魔になる」

「でも、授業中はしてません。休み時間だけです」

「しなくても、困ったりしないだろう?」

「私は、してたいんです。してた方が気が楽なんです」

 ね? お願いします、先生。

 理歩は切実な思いで頼み込んだ。 すると、

「じゃあ、していい場所を限定してはどうですか?」

 背後から飛び込んできた声に、理歩は振り返った。

 最初に白い白衣が飛び込んできて、すっと上げた視界に、優しげな女性の笑みが切り抜かれる。

 保険医の、円居まどい先生だった。

「円居先生、限定するとは?」

 体育教師がきくと、先生は目の周りを指で囲って見せた。

「休み時間に、音内さんがお面を被っていい場所を決めておくんです。そうすれば先生が心配してるみたいに、学校の風紀が乱れることもないでしょう?」

「でも円居先生、どこをその場所にするんです?」

「保健室はどうでしょう。それなら、私が責任をもって音内さんを監督しますよ」

 頭の上で交わされる大人たちの会話に、理歩は思考がくるくるした。

 つまり、円居先生は理歩のお面を許してくれていて、けれど、これから学校でお面をしたかったら、保健室でしかしちゃいけないってこと?

 理歩が考えをまとめているうちに、体育教師が低くうなった。

「それなら……」と、複雑そうな声で同意するのが聴こえてきて、理歩は振り返る。

「だって、音内さん。やっぱり学校でそれは目立つから、この案で納得してくれないかな?」

 円居先生が後ろから、理歩の出方をうかがってきた。

 理歩はちょっと面白くない気持ちで、考え込んだ。

 確かに、学校でお面をつけるのを先生たちが良く思わないのは、何となく理解できる。 

 もしこの案が先生たちのできる一番の譲歩なら、仕方ないのかもしれない。

 別に、クラスにいたい訳でもないし。

 理歩はこくんと首を振って、円居先生を振り返った。

「分かりました、それでいいです。お昼休みは、先生の所にお邪魔することにします」

 よろしくお願いします。

 ようやく素直に同意した理歩に、先生たちはほっとしたみたいだった。

 なごやかな雰囲気に包まれた職員室で、ぽんと肩を叩かれる。

「じゃあ、いつでも、好きな時に来ていいからね」

 円居先生が優しいほほえみと、柔らかい声で言った。

 それに、『受信機』が『何か』を拾いかける。

 でも鈍くなった器官ははっきりとしたものを拾いきれなくて、うなづいた理歩は、それ以上考えることをやめていた。

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