第6話 一匹は二匹になって、初めての海を知った。②
祖母の家から坂を下って、川沿いを歩き、向こう岸へ渡ると、商店街が見えてくる。
「砂乃子さん、料理するの? すっごい上手そう」
「それが、てんで下手くそなのよねぇ。一番得意なのは、トマトを切っただけサラダ」
「それ、ただのトマトだよ!」
道のりは、二人で楽しく話をした。
理歩にとって砂乃子との会話ほど楽なものはない。
砂乃子が理歩に向けてくれるものは全て、正直で、丁寧で、花が降り注ぐみたいに軽やかだ。
それらの中に込められた感情は、透き通っていて一切圧力がない。
『受信機』が反応しないくらい、質量がないのだ。
確かに感情の波なのに、そよ風のような波だ。
こんなにお互い踏み込んで話をするのに、『受信機』が反応しない人なんて、今まで出会ったことも無かった。
そうして、考えた。
この人は海だけれど、水みたいな抵抗感はない。
だから砂乃子の海は、息ができる『宇宙』みたいな海なんだろう。
そう、結論付けていた。
砂乃子といると、体が浮き上がるみたいで、どこまでも行けそうな自由さを感じる。
それが、いつかテレビで見た宇宙遊泳の様によく似ているのだ。
宇宙服無して、漂っているような開放感。
いつまでも、この人と一緒にいたい。
『受信機』の苦悩から解放された自由を感じていたい。
理歩はいつしか、そう強く願うようになっていた。
ああ、やっぱりこの人は『特別』だ、と。
商店街に入った二人は、八百屋や精肉店を回って食材を買って回った。
砂乃子はこの辺りでは有名人らしく、当たり前だが、つけているお面がその原因だった。でも、行き交うう人みんな、「砂乃子ちゃん、今日は狸かい」「うちの子もそのお面、興味津々なんだよ」と、好意的に声をかけてくれて、理歩は嬉しかった。
そうなんです、素敵でしょ? 砂乃子さんのお面。
砂乃子自身はもっと素敵だと言うのは自分だけの秘密にしたくて、そこは心の中でにんまりして自慢するに止める。
砂乃子の買い物袋が一杯になった頃、二人は商店街を引き返して家路を戻ることにした。
「いっぱい買ったね」
「一週間はもたせるからね、いつもたくさん買うの。持たせちゃってごめんね?」
「いいんだよ、全然軽いし」
「ありがとう。理歩ちゃんは頼りになるなぁ」
夏の時期ともなると、昼間は人通りも少なめだ。
避けなくてもスイスイ歩いていける道を、じゃれ合いながら歩く。
買い物に立ち寄った店の店主たちに手を振り、買い物前までの最悪な気分を忘れて、砂乃子と笑い合っていた時だった。
「……やだ、あの人よ」
声と、その声がまとう感情に、理歩の『受信機』が鋭く反応する。
毛がそよぐ。 熱が冷え、足の方へ落ちてゆく。
軽かった足どりが歩みを遅くして、耳が声に集中した。
どくり。
「今日は子供と一緒なのね。親族でもいたのかしら」
『どろり』
「一人暮らしって話でしょう?」
『ちくり』
「近所の子なんじゃない? あんな怪しい人とつき合わせる親もどうかと思うけどねぇ」
『ぐじゅり、ぐじゅり』
「やぁね、今日もあの変なお面。自分がどんな風に見られるかとか、気にしないのかしら」
『じく。じく、じく、じく』
「他所から越してきたくらいだから、元居た所にも居づらくなったんじゃないの。だって、あんな、」
『どろ――――やめろ、それ以上は言うな。
手の中の袋を握りしめて、理歩は青い顔で全身を強張らせた。
聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない――――止めて。
「理歩ちゃん」
声が、理歩の硬直を優しく溶かす。
面の奥の目をゆるませて、砂乃子がそっと手を引いていた。
「行こう? 理歩ちゃん。もうお昼だし、このままだと熱中症になってしまうよ」
「あ、」
砂乃子が歩き出す。
手をひかれた理歩も、よたりと後に続いていく。
重苦しいものが、遠くなる。
商店街を抜けても、二人は手をつないで前後に歩いた。
そうして誰もいない川縁の道まで来たとき、理歩はふるえるように息を吸った。
「……あんなこと、言われてたの? いままで、砂乃子さん。あんな、ひどい、」
砂乃子は立ち止まらない。 答えてもくれない。
でも拒否しているわけではなくって、どうしようか考えている風だった。
「世の中には、たくさんの人が居るから。理歩ちゃんみたいに、このお面を好きになってくれる人も、逆に嫌だなって思う人もいる。嫌だなって思う人たちにだって、自分の感情を素直に言う権利がある」
振り返った砂乃子は、理歩を気づかうような目をしていた。
「でも、理歩ちゃんはお面の事好いてくれてたから、余計、辛かったよね」
ごめんね。
どうして、砂乃子が謝るんだ。
理歩はその瞬間、どうしようもない感情が暴れ出しそうになるのを感じた。
その熱が言葉になって飛び出すのを、止められなかった。
「けど!」
駄目だ。 こんな強さで、伝えるのは。 だけど。
だけど、それが、
「それが、なんにも悪いことしてない砂乃子さんを、馬鹿にしていい理由にはならない!」
砂乃子さんは怪しくもないし、遠巻きに悪口を言われるような人じゃない。
なのに、なのに。
焼けつくような熱が、頭をゆでる。
その時。
『でも』
冷たい囁きだった。
荒い息を、吸ったり吐いたりする。
波が、段々と落ち着いて下へと下がってくる。
そんな理歩の頭の中で、その言葉は冷え冷えと思考を突き刺してきた。
言葉が、熱くなった頭を急速に冷やしていく。
怒りに染まっていた心が、絶望感に代わる。
そうだ。
「でも、でも、」
初めて砂乃子に出会った時のことを思い出す。 そうだ、私も。
「私も、最初、変な人って、思ったから」
砂乃子を見て、近づきたくないなんて思ったから。
「私も、同じだ……」
私も、さっきの人たちと同じ。
同じだから、怒る資格なんてない。
ざっと、重苦しい罪悪感が、目の前を暗くした。
「私も、だから、こんなこと、言う資格、」
ない。
「ごめんなさい」
うなだれて、理歩は砂乃子に詫びた。
最初はあんなに腹立たしい感情で満ち満ちていたのに。
今の理歩は、砂乃子を汚そうとした人間と自分が同じだと気付いて、自分への嫌悪感でいっぱいだった。
ああ、私、こんなだったんだ。
砂乃子さんに相応しい人間じゃなかったんだ。
砂乃子のそばに居られることを、当然だと思っていた。
でも自分は、砂乃子を最初、偏見で見てしまった。
そんな理歩を近くに置いてくれたのは、単純に砂乃子が優しかっただけだ。
砂乃子が許してくれたから、一緒にいられただけ。
ひどい。
こんな自分、砂乃子には相応しくない。
私は。
「理歩ちゃん」
顔が、あった。 砂乃子の、素顔。
理歩は驚いて、一気に思考を止めた。 だってここは、外なのに。
いつ他の人が来るかも分からないのに、なんで。
「理歩ちゃん、ねぇ聴いて?」
砂乃子はとっても自然な微笑みで、理歩を見ていた。
そこに嫌悪なんて欠けらも無くって、ただ理歩だけを見つめていた。
「理歩ちゃんはとっても公平ね。自分のしたこともちゃんと覚えていて、自分の落ち度もちゃんと理解して、他の人だけを責めたりしない。とっても賢くて、誠実」
砂乃子の言葉が、響いてくる。
積極的に『受信機』に情報を拾ってほしがるみたいに。
ここに在るものをようく感じてと伝えるように。
そうやって砂乃子が理歩の『受信機』に直接触れようとするのは初めての事で、『受信機』は理歩が意識しないうちに、喜びふるえて砂乃子の情報を吸収する。
「それはとっても大切なことよ。誰だって、自分を省みずに人を非難することをしてはいけない。他者と向き合うときは、自分自身とも向き合わなくては…………そうしなくては、ただ傷つけ合うだけの伝えかたしか、できなくなる」
それを、『受信機』を持つあなたなら、よく分かるはず。
砂乃子の声が、表情が、声が、空気が、理歩に浸透する。
熱を冷まし、凍りついた思考を溶かて、動けない心をほぐしてくれる。
「ありがとう、理歩ちゃん。私、嬉しかったわ。誰が代わりに怒ってくれる。それだけで十分…… 嫌な音を打ち消してしまうくらい、きれいな音が聴けた」
人が人を本当に想うとき、私の耳は、とてもきれいな音を拾うのよ。
そう、もう一つの秘密を明かすみたいに、砂乃子は理歩の手を取って教えてくれた。
「私の事、とても想ってくれたのね。ありがとう」
私今、とっても幸せ。
星が、またたいた。
宇宙の海に、幾億もの、星が。
光は砂乃子を彩って、星座のように輝いた。
美しい、イメージだった。
理歩は、鮮明な光景に呼吸を止めた。
これが砂乃子の言う、きれいなモノ?
穏やかな感情がくれる、さざ波のような海ではない。
それよりももっと上等で、特別だと分かる、
理歩は、圧倒的な何かを目の当たりにしたように、打ちふるえた。
「砂乃子さん、私も感じたよ。砂乃子さんがくれる情報が、暗い空で光る星みたい」
砂乃子がパッと目を見開く。
それから愛おしそうに細めて、微笑んだ。
「すごい。理歩ちゃんには、そんな風にイメージが広がるのね」
「うん、とても、とても、きれいだよ」
砂乃子さんが、私のために言葉をくれたから。
「私たち、お互いを、大切に想えてる?」
問いかけると、砂乃子は照れたようにして、それでも「うん」と首を振ってくれた。
「私たちの『受信機』は嘘をつけないから。きっとそうね」
立ち上がった砂乃子が、満面の笑みで笑う。
ああ、やっぱり星空みたい。
理歩だけに見える、『特別』な星。
面をつけ直してもう一度伸ばしてくれた砂乃子の手を、強く握り返す。
この人が居れば、いい。
この人だけいれば、私はこんなに美しい世界で生きていける。
きっとこれ以上なんてない。
そんな幸福感が全身を満たして、理歩は泣き出しそうだった。
嬉しくってしょうがなくて、涙が出そうだった。
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