第5話 一匹は二匹になって、初めての海を知った。①

「理歩は最近、よくうちに来るねぇ」

 そんなに卯月さんと仲が良くなったんだねぇ。

 祖母が嬉しそうに歌舞伎揚げを渡してくれる。

 理歩はそれを遠慮なくバリバリと頬張り、うんと笑みを返した。

 あれから理歩は、足しげく砂乃子の家に通っている。

 その通りすがりに、祖母の家にも顔を出すのだ。

 そんな日々は、二週間を超していた。

 最初に作った半面は、もう色付けも終えて完成させている。

「初めてにしては上出来よ。とっても可愛らしいわ」

 砂乃子はそう言ってくれたけれど、理歩は猫面の出来に不満が残った。

 確かに猫だと分かる作りだが、それは色を塗って猫らしくしているからで、原型は猫というより犬寄りだ。

 しかし、これが理歩のやる気に火を着けた。

 何としても素敵なお面を作ってやる。

 奮い立って創作に打ち込んだ。

 そうして作っているお面は、通算三枚目。

 今のは、鳥のお面だ。

 週末、いつものように母に置き去りにされた朝。

 祖母と一緒に家事を手伝い、理歩は砂乃子の家へ向かう約束の時間をそわそわと待っていた。

 そろそろ夏本番と言ってもいいこの時期は、縁側の金魚の水槽も藻が生えやすくなる。

 金魚たちをバケツに移し、昼時を心待ちにしながら玄関先で彼らの家を掃除していた理歩。

 きれいになったガラスの箱を「よし」とながめた時、

「よぉう、チビ。また会ったな?」

 ひょぅ。 変な具合に、のどが鳴った。

 背後から、影が落ちている。 大きな影だ。

 そして、その影が発した声を、理歩は知っていた。

 ギギギ、油の切れた機械みたいに振り向いて、また、ひぃう。 奇妙にのどが鳴る。

 あの男がいた。 砂乃子の家で、ざらざらとした空気を発していた男。

 野犬のような男。

「な、なんで……」

 もう二度と会いたくないと思っていたのに、どうして声をかけてきたんだ。

 あえぐ様に言う理歩に、男はやっぱり不敵な笑みで「用があんだよ、ツラ貸せ」と尊大に腕を組んだ。

「ばあさん、ばあさーん!」

 男が祖母の家に向かって声を張る。

 すると畑の方にいた祖母が、とたとたとやって来て、

「はいはい……あらー、陣ちゃんじゃないの」

「おばあちゃん?!」

 理歩は驚き過ぎて目をむいた。

 顔見知りなのか、この男と? まさか!

 そんな理歩を嘲笑うようにして、男は祖母と親しげに話し始めた。

「あちーな。ばあさん、体へーきか? 畑仕事も大概にしとけよ」

「まだまだ元気よぅ、平気平気。陣ちゃんも外仕事でしょう? 無理してない?」

「あのくらいで音を上げるような鍛え方はしてねーよ、でも、ありがとな」

 祖母と話す男の空気感は、やんちゃだが、一本筋の通った好青年といった感じだった。

 自分と相対した時とあんまりにも落差がありすぎて、理歩はくらくらする。

 え、え? と目を白黒させている間に、陣ちゃんと呼ばれていた男が、ぐいっと理歩の腕を取った。

「ばあさん、わりぃんだけど、ちょっとこいつと話したいんだよ。軒先、借りていいか?」

 なぬ? 理歩は信じられないと男を見上げた。

 男の顔は、胡散臭いほど爽やかに笑っている。

「まあまあ、理歩は陣ちゃんとも仲良くなったのねぇ」

 目を細める祖母に、理歩はぶんぶんと首を横に振る。 違う、違うよおばあちゃん!

 しかし、孫の交友を喜ぶ祖母に、理歩の無言の訴えは届かなかった。

 腕を取られたまま男に縁側へ連行され、「ゆっくりしていってねぇ」とご丁寧にお茶まで出して、ご近所さん家へ遊びに行った祖母を見送る羽目になる。

 唖然。

 庭へ立ち尽くした理歩を、男はニヤニヤとながめてきた。

「まぁ、まずは自己紹介といこうぜ、ドチビ。俺は、伏間ふしま 陣吉じんきち。字面は別に気にすることもねぇだろ。お前は?」

「……知らない人に名乗る名はありません、お引き取り下さい」

「よし、一緒に砂乃子ん家行って、友達になったって肩組むか!」

「音内! 理歩です! よろしくお願いします!」

 陣吉に満面の笑みで引きずられそうになるのを、全力で踏ん張って叫んだ。

 さいてー! さいてーだ!

 こんな奴と友達になったなんて、砂乃子さんに勘違いされたくない。

 なんて卑怯な手口なんだ。

 理歩がギャーギャーと騒ぐと、陣吉は理歩を放り出し、ドスンと縁側へ腰を下ろした。

「ふん、初めから素直にやってりゃいいんだ。年上への礼儀は大切にしろよ、チビ」

「名前聞いたでしょ?! 名前で呼んでよ!」

「呼ぶとまでは言ってねぇよ」

 お前なんか『チビ』で十分だ。

 陣吉は鼻につく感じで笑い飛ばしてきた。

 やっぱりサイテーだ、この男! 理歩は憤りが頭を突き抜けそうだった。

「どうやっておばあちゃんを懐柔したの?」

「おお、チビのくせに難しい言葉知ってんじゃねーか、えらい、えらい」

「馬鹿にしてないで真面目に答えて!」

「きゃんきゃん噛みつくなよ、『ポチ』にランクアップするぞ」

 なんてことはない、砂乃子の家に通っている間に顔見知りになったのだと、陣吉は麦茶片手に鼻を鳴らした。

「あなた、そんなに砂乃子さん家に通ってるの? 砂乃子さんのなんなの?」

「そういうアイツのプライベートな事は砂乃子当人に聞け、またマナー違反だ」

 砂乃子が知られたくない相手だったら、どうするんだ?

 そう返されて、理歩はうぐっと詰まった。そんな難しい事、考えつきもしなかった。

 確かに砂乃子さんが黙っておきたい関係なら、ここで許可なく質問するのは、彼女を困らせるかもしれない。

 でも、そんなことを言うってことは、なんだか問題がある関係ってこと……?

 そんな風にぐるぐると考えていると、じっと理歩を観察していた陣吉が、

「お前、随分砂乃子と仲良くなったんだな」

と、低い声で問いかけてきた。

「もう大分、アイツん家に通ってんだろ。アイツがそんなに人を寄せ付けるなんて、初めて見たぜ。二人でこそこそ、何やってんだ?」

 探られてる。 波が、静かだ。

 でもこれは嫌な感じの静けさってやつだ。

『動』の感情をできるだけ抑えて、こっちの反応をちょっとでも拾おうと待ち構えている――――沈んだら飲み込まれて、戻ってこられなくなる種類の海。

 理歩は最大限に警戒して陣吉をにらみ返した。

「あなたには関係ないでしょ? 私たちの事だもの、放っておいて」

「関係はねーな、お前等のことだから」

 だが、面白はくねぇ。

 陣吉は歯をむき出しにしてにやぁっと口を三日月みたいにした。

「俺は今、最高に不機嫌だ。アイツが特に気にかける奴ができたってのが、な。はぐらかすなよ、俺も仲間に入れろ。『仲よく』しようぜ?」

 『仲よく』なんて、思ってもないくせに。

 けれど大人の、それも男性の『すごみ』に、理歩はのどが干上がったみたいになった。

 不機嫌だなんて直接言われたことも初めてで、うろたえてしまう。

 でも、何となく思った。

 この野犬みたいな人を、砂乃子さんは、きっと。

「……砂乃子さんみたいな人は、あなたみたいな人、苦手だと思う。あなたみたいな、ずっと……黙っていても、人を圧迫するみたいな人」

 そこにいるだけで周りの人間に波を発し続けて、どうしようもなく目を引く。

 無視させないタイプの人間。

 理歩や砂乃子のように強力な『受信機』を持つ人間には、受ける情報量が多すぎて、許容オーバーになってしまうだろう人。

 現に今、理歩は陣吉の発する波で、こんなにも息が詰まりそう。

 この人を砂乃子さんに近づけちゃいけない。

 理歩は確信しながら、

「だって、砂乃子さんは、とっても耳がいい人だから」

 あなたには分からないと思うけれど、と優越感で見下ろすように言った。

 私だけが、砂乃子さんを理解してる。

 だから近づかないでよ、私たちの場所に。

 そう、続けようとした時。

 がっと、大きな手が、理歩の腕を掴んで引き寄せた。

「……アイツ、話したのか?」

 雷雲が、渦巻くような声だった。

 立ち上がった陣吉が、理歩を視線で突き刺してくる。

 ひどく真剣な顔で、声を押し殺したようにして。

「アイツは、お前には許したのか?」

 津波だ。 そう思った。

 見上げるほどの大津波が、目の前に広がっている。

 この男から、迫ってくる。

 怖い。

 理歩は縫い付けられたみたいに動けなくなった。

 カチカチと奥歯がかみ合って、ふるえた唇から無意識に言葉がこぼれ落ちる。

「つ、なみ、」

 陣吉はそのつぶやきに、小さく反応した。 「波……?」

 そうして、怯える理歩にやり過ぎたとでも思ったのか、舌打ちをして手を離した。

 大波が、引いていく。

 理歩は呆然としてへたりこんだ。

「砂乃子は、お前に『音』の話をしたんだな?」

 降ってくる静かな声に、顔をあげる。

 立ち上がった陣吉を見上げ、目をみはった。

 その表情をどう表現するのかを、理歩は知らなかった。

 それくらい複雑で、難解で、理歩の今までの世界にはない情報だったからだ。

 ただ、『受信機』の情報の断片を素直に受け取るなら、それは――――『うらやましい』

「すみませーん」

 ハッと、二人はいきなり飛び込んできた声に振り返った。

「卯月ですー。音内さーん」

 声は砂乃子のものだった。

 砂乃子が呼んでいる。 行かなくては。

 腰を上げかけて、肩をつかまれた。

「今日ここで話したことはアイツには内緒だ。お前だって、俺と話したなんてアイツに知られたくないんだろう?」

 その年なら、言っていい事と悪い事の判断、できるよな?

 にたり。

 おどすみたいに笑う顔にびくっと体をふるわせて、理歩は駆け出した。

『受信機』が、悲鳴を上げている。

 一刻も早く、この津波が押し寄せるような威圧感から逃れたかった。

「砂乃子さん!」

 庭を曲がって玄関に回ると、いつも通り紺の作務衣に、この間作ったばかりの狸の半面を被った砂乃子がいた。

 下半分からのぞく口元が笑って、理歩を迎えいれる。

 いつも通りの透き通ってするんと通り過ぎていく空気に、ほっと息をついた。

「理歩ちゃん、もう来てたんだね」

「うん、おばあちゃんに用事?」

「この前野菜をもらったから、お返しにちょっとおすそ分けをね。ご在宅かな?」

「さっきご近所さんとこに遊びに行っちゃったんだ。私が受け取るよ」

 それは助かる。

 段ボール箱に入れてある手土産を寄こして、砂乃子が「さて」と肩の荷物を背負い直した。

 理歩がどこか行くのだろうかと視線で問うと、砂乃子は町の方を指さして、

「買い出しに行くの。もうそろそろ冷蔵庫ピンチなのよ」

 照れたように肩をすくめた。

「だから、先に理歩ちゃんに会って、家で待っててって言おうと思ってたんだけど」

「だったら、私もついて行っていい?」

「え? いいけど…… ホントにただの買い物よ?」

 理歩は「あれっ」と違和感を受信した。

 分析する。

 砂乃の様子は理歩を拒絶しているわけではない。

 でもちょっと、理歩がついて来ることに…………心配? しているようなのだ。

 本当にただの買い物なら、危険なわけでもないのに。

 そんな砂乃子の様子に気が付きながらも、理歩は「うん、いい、行きたい!」と押し切った。

 砂乃子の空気が恋しかったから。

 陣吉とのあの不快なやり取りを浄化してほしかったから。

 じゃあ一緒に行きましょう、と理歩を甘やかしてくれた砂乃子と連れ立って、理歩は昼前の街に繰り出した。

 坂道を降りる途中、ちらりと家を振り返る。

 塀の陰に、人影が立っているのが見えた。

 ポケットに手をつっこんで仁王立ちした影は、二人が見えなくなるまで、いつまでもその後姿を見送っていた。

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