第4話 小さな水鉢の中で閉じこもっていたかった。④


 下準備から始めましょうと言う砂乃子さんに従って、まずは新聞と半紙を細かく千切り始める。

 千切った紙が山のようになったら、粘土で土台を作る作業に移る。

 砂乃子さんはたぬきの面を作るのだという。

 固い粘土を二人でこねながら、色々な話をした。

「理歩さんはどうして、お面に興味を持ったんですか?」

「え? 誰だって興味持たないかな? お祭りでもないのにお面被ってる人がいたら」

「ええ、そうですけど…… 作りたいと言われたのは、初めてだったので」

「う~ん、なんて言っていいか難しいんだけど、たぶん、砂乃子さんが被ってたからかな」

「私が被っていたから?」

「うん。砂乃子さんのことさ、最初はすごい変な人だ! って思ったよ。でもなんていうか」

 言って伝わるかな? 変に思われないかな? ちょっと思いとどまる。

 でも、この人は聞いてくれる。

 その自信がどこかにあったから、踏み込んだ。

「この人は私と同じような人だって、思ったんだ。多分、直感ってやつ」

「同じ……?」

「『すごく人の感情に敏感で、感情をそこにあるみたいに受け取れる人』」

 砂乃子さんは、はっと息をのんだようだった。粘土をこねる手が止まる。

「ごめん、違った?」

 不快にさせたいわけではなかった。

 でも、同じ人だと思うと、遠慮ができなかった。

 私も同じだよって、言って欲しかったから。

 理歩は内心ドキドキと音が止まらないのを押し殺して待った。

 砂乃子さんの沈黙は、長かったと思う。

「……理歩さんは、人が感情を表すのを見て、どんなふうに思いますか?」

 とても慎重に、砂乃子さんは聞いてきた。距離をはかられてる、そう感じた。

 この質問が、試金石しきんせきだ。

「海の波みたいって、思うよ。気持ちいい感情は、さざ波みたい。柔らかく寄せては引いていくみたいな感じ。足元をさらわれるみたいで、くすぐったい」

「強い、感情は?」

「怒ったり、憎んだり? 嵐の大波や、勢いのある水飛沫みずしぶきが当たるみたい。そういうのは本当に痛いし、重たい感じがする」

 砂乃子さんは黙ってしまった。理歩は猫の鼻を作る手を止めて、砂乃子さんを見た。

 この距離では、穴の奥の目が良く見えない。

 伝わらなかったかな。

 そう思った途端、理歩はへにゃりと眉を下げた。

 きっとこの人なら分かると思って話したのに、受け止められなかったのかな?

 そんな、と高まっていた期待が失望に染まるのが分かる。

 つき離されたみたいな気がして、砂乃子さんとの間に、急速に距離を感じた。

 けれど、

「……とても物理的なんですね、理歩さんの『受信機』は」

 何もかも承知したというように砂乃子さんがうなづいて、理歩ははっとした。

 もしかして。

「私はね、音のように聞こえるんですよ」

 砂乃子さんは耳を指さして言った。

「理歩さんみたいに、感情の種類で反応するわけではないようなんです。感情がぶつかりあうとき、音が聞こえる。こんな言い方は変だと思いますが、人が二人いて、お互いの意思疎通が調和しているとき、無音になるんです。とても、居心地のいい、静けさを感じる。でも感情が行違っていた時、」

 砂乃子さんはぎゅっと手をにぎって、何かをやり過ごすみたいにしてから続けた。

「すれ違う感情が、固い鉱物をこすりつけ合うようなイメージで、ギギギッとひどい音を立てるんです。それが、私の『受信機』」

 感情が、あふれたみたいだった。

 手を伸ばしたい、理歩はそう思った。

 ああ、やっと見つけた、と。

 私の、この、他人の見えないものを感じ取る感覚を、『受信機』と呼んで認識してくれる人。

 私の、同類。 やっと、見つけた。

「砂乃子さん、は、どう、思ってるの?」

 この、人の近くへ寄れば、否応なく全てを拾ってしまう『受信機』を。


『受信機』。


 確かに言い得て妙だった。

 拾う対象を選べず、なんでも受け取ってしまう、壊れた機械。

 私の手に余る、私の中の器官。

「……私が、面を被っている理由を、まだ話してませんでしたね」

 砂乃子さんは平坦な声で言う。

「待って、」

 色のない声に、理歩は焦った。

 嫌なら言わなくていいの。

 そう言いたくて、首を振って、でも。

 砂乃子さんは、理歩がしたよりよっぽどゆっくりと首を横に振って、姿勢を正した。

「私と同じあなたになら、言いたい。嫌なんて、思いませんよ」

 粘土の油がついた手で、砂乃子さんは被っている鳥のお面を触る。

「これはね、『受信機』の力を弱くするための細工なんです。これを被れば、あなたもきっと分かる。これを被っているから、私は『受信機』の力を押さえて普通に過ごせるんです」

「普通に?」

 そう、と首を振った砂乃子さんは、汚れた手も構わず、理歩にさっきのウサギの面をもう一度着けさせた。

 面を被ると、自分の息がこもる。

 遮断されていると、感じずにはいれない。

 視界も狭まって、小さな穴から見える小さな世界に、一人の女性が見えた。

「さ、のこ、さん?」

 理歩は驚いて砂乃子さんを見つめた。

 砂乃子さんは、面を外していた。

 初めて、その顔を理歩は見た。

 すっとして、意志の強そうな瞳が印象的だった。

 肌は白く、すこし頬がこけている。

 この人が、砂乃子さん。

 真っ直ぐに細い茎をのばす、野花のような人だと思った。

 呆気に取られている理歩を見つめながら、砂乃子さんは少し笑った。

「そうしていると、受け取れるものが少ないでしょう。視界は小さくて、相手の顔も、空気感も、周りの人間の反応も、入ってくる情報が制限される」

 問題は五感なのだ。 砂乃子さんはぽつりと落とした。

 味覚は、人との関わり合いの中で、それほど役目は果たさない。

 触覚・嗅覚は、余程の事でなければ、不快なことはない。

 聴力を制限するには、音楽でも聴いていればいい。

 その中でも一番厄介なのは、視力なのだ。

 視覚というのは、一番多く情報を脳に送る。

 でも、その働きを制限するのは難しい。

 ずっと目を閉じていることはできないからだ。

 見たくない、情報を得たくないと願っても、普通に生活しているためには、目はしっかりと開いていなければ危険だし、必要最低限の情報さえ取り落とす。

 完全に閉じては、なかなか生きていけない。

「砂乃子さんは目が、一番厄介な『受信機』の入口だって、思ったんだね」

 ようやく落ち着いてきて、理歩はたずねた。

 砂乃子さんが重々しくうなづく。

「理歩さん。理歩さんは、私が面を被っているのは、私が自分の顔を隠したくて、そうしているのだと、そう思ってらしたでしょう?」

「はい」

「確かに顔を隠せるというのは、一種の安心感を与えてくれます。こちらが発する情報を、遮断できるということですから。でも、違います。それだけじゃない。私が面を被るのは、」

「……『受信機』が受けとる、周りの情報を遮断するため」

 砂乃子さんは観念したような顔で、もう一度首を振った。

 理歩は、全身の力が抜けたような気がした。

 力が抜けて、へたりこむ。

 そうして何だか哀しいような、寂しいような感情がせめぎ合って、面の下で目元を歪めた。

 分かってしまったからだ。

 これは、このお面というものは、手に負えない『受信機』という器官に振り回されて、それでも何とか付き合おうと、付き合っていこうとしてきた、この人が最後にすがった手段なのだ。

 お面という寄る辺に出会うまで、この人はどれだけ『受信機』の与えるひどい音のきしみに苦しんできたんだろう。 耐えてきたんだろう。

 今まで、理歩がそうしてきたみたいに。

 理歩は涙が出そうになった。

 初めて、誰かの頑張りのために泣きたくなった。よくやってきたよって、抱きしめてあげたくなった。

「砂、乃子さん」

 名を呼びながら、面を取る。

 砂乃子さんは意思が調和しているときは、平気だと言った。

 心地よい無音になると。

 理歩が解釈した通りなら、きっと今、自分たちの間には、同じ音の波形が流れている。

 ぴったりと同調するように、完璧に。

 面を取り払って飛び込んできた砂乃子さんの情報は、やっぱり彼女を、すっとたたずむ野花のようにイメージさせた。

「お面無しでは、初めまして、ですね」

 ぎこちなく笑うか細い人を、理歩はぎゅっと手を取って見つめた。

 乾いた粘土が、にぎり合った手の中でざりざりと鳴る。

 理歩は水槽から飛び出して、大きな海に沈んでいくような感覚を覚えていた。

 大量の水が押し寄せて、優しい浮遊感の中に全身が遊んでいる感覚。

 自分がいるべき場所へたどり着いたような、そんな心地。

 とても、息がしやすい。

「砂乃子さん。私、今、とっても、息がしやすい、よ。今までは陸に上がった魚みたいに、空気が上手く吸えなかったけど、でも、今は」

 ここは、あなたとの世界は。

「私も、とっても、世界が静かです。音が、にごりなく流れて、とても、」

 きれい。

 涙と笑いが一緒にあふれて、理歩は不格好に相好をくずした。

 砂乃子さんも、同じ。

 二人、手を取り合って、額をすり寄せる。

 こんな所にいたんだ。

 こんな所で、頑張ってたんだね。

 そんな想いが、嬉しくて。

 ガラスから射し込む初夏の陽に、ほこりがちりちりときらめく。

 光の中、同じ器官を抱えた二人は、そうしてお互いを感じ合っていた。

 二人だけの世界に、束の間、ゆったりと沈んでいったのだった。



 土台の粘土を仕上げ、紙を張り付けて。

 あとは日陰で一日乾燥させるところまで終えて、二人は今日の作業をおしまいにした。

 裏面の紙貼りは翌日に持ち越し、工房を後にする。

 一日でできることをやり終えた二人は、砂乃子の家の縁側にそろって座っていた。

 祖母には夕食までに帰ると言って出てきている。

 理歩は、赤くなる西の空をながめてきいた。

「ねぇ、砂乃子さん。もう私たち、友達?」

 緑茶を飲み干して、ちょっと考える仕草をする砂乃子さん。

 その顔には、もうお面はない。

「理歩さんがそう思ってくれてるなら、多分そうですよ」

「じゃあ、お願いしてもいい?」

「なんでもどうぞ?」

「砂乃子さんが嫌じゃなかったら、敬語はなしにしてほしいな。名前も理歩でいいよ」

「う~ん、どうしましょうか」

 砂乃子さんは、ちょっとためらうように困った顔をする。

 え? そんなにダメだったのかな、と理歩は残念な気持ちで目線を下げる。

「やっぱりダメだった? 嫌、かな……?」

 砂乃子さんの嫌なことはしたくない。

 もっと近づきたかったけど、これはまだ急ぎすぎたかな。

 しょぼんとした理歩がお願いを引きかけたとき、

「ううん、嫌じゃないよ。でも、名前。私は、理歩ちゃんの方が呼びやすいな」

 それでもいい? 砂乃子が笑って、理歩はぱっと顔を上げた。

 もちろん、いい。

 はね回りたいような気持ちで、理歩は縁側から立ち上がった。

「明日、学校終わったら、お面、見に来るから! ちゃんと待っててね」

 ごちそうさま、ばいばい。

 手を振って、砂乃子に笑いかける。

 砂乃子も、素顔の笑みで見送ってくれた。

 それを確認して、理歩は思うさま駆け出していく。

 学校の友達と別れた後のような、『受信機』を使いすぎて気疲れした疲労感は一切ない。

 明日も会いたい、またあの海に潜りたい。

 本当に心の底から望むような気持ちで、理歩は全速力で家路を駆け降りたのだった。

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