第18話 そして流れ込む嵐の海に、③

 母の口から、その名前をこんな風に聞きたくなんてなかった。

 おどろ、おどろと渦巻く波間に、その人の存在を落としたくなかった。

 一歩後ずさった足が下駄箱に当たって、理歩を追い詰める。

「その人なの? その人が、あんたに変な事を教えてるの?」

「奈江子、ちょっと落ち着いて」

 理歩に迫る母を、祖母がなだめようとしてくれる。

 しかし、それが更に母を頑なにさせた。

「……母さん。母さんはその人のことを知ってるんでしょう。一体どこの誰なの?」

「どこの誰って……砂乃子ちゃんはうちのご近所さんで、理歩の大切なお友達なのよ。とてもいい子だし、あなたが思っているような、怪しい人ではないのよ?」

「近所?」

 低められた声が、ぽつりとつぶやく。

「この近所の人なの? もしかしてそれって、ちょっと前に母さんが話してた、この先に越してきたっていう、若い女のこと?」

 あそこ以外、この辺りには家も少ないし。

 祖母はなにも返さなかったが、驚いた顔が全てを物語っていた。

 その時、母が下駄箱の上にあるものに気が付く。

 この辺りの家の名簿が載った、回覧板。

 母はそれを乱暴に取って、じっとにらみつけた。

「『卯月、砂乃子』…………確か、あの家が『卯月』だって、母さん言ってたよね」

 ひゅっ。

 冷たい息を呑みこんで、理歩はふるえあがった。

 お母さん。

 そう呼びかける前に、母に腕を取られる。

 強く引っ張られ、玄関を飛び出せば、前を行く母は真っ直ぐに坂の上を目指していた。

「奈江子?!」

「お、母さ、お母さん! どこ行くの?!」

 祖母の制止も、理歩の戸惑いも払いのけて、母は坂を上っていく。

 どん詰まりの家はすぐに見えてきて、理歩は顔を白くした。

 前庭を横切り、玄関口へ立つ。

 あの古めかしい呼び鈴を鳴らしたかと思えば、母は勝手にドアノブヘ手を伸ばした。

「卯月さん、御在宅ですか?」

 薄暗い室内に、声が響く。

 反応は、すぐにあった。

 廊下奥の工房の方から、足音と返事が返ってくる。

「はーい。居りますー。ちょっと待ってくださ、い」

 明かりの方へやってくる、作務衣姿の細い体。

 顔には、可愛らしいウサギのお面。

「あの……?」

 砂乃子が、面の奥から理歩たち親子を交互に見て、不思議そうに声を上げた。

 初めて見る理歩の母と、その穏やかではない波長に戸惑ったみたいだった。

 理歩は、砂乃子さんと、呼びかけたかった。

 でも声はのどにからんで、音にならずに消えていく。

 そんな理歩の様子をすくい取ったのだろう、砂乃子が気づかわしげな波を送ってくれた。

「あなたが、卯月砂乃子さん」

 確信を持った様子で、母が砂乃子をねめつける。

 砂乃子はその強さにひくりと肩を引いた。

「はい、卯月は、私です。もしかして、理歩ちゃんのお母様でしょうか?」

「ええ、この子の母親です。今日は少し、お話があってうかがわせていただきました」

 母が、にぎりしめていた烏天狗面を突き付ける。

「あなたですよね? この子にこんなものを教えたのは」

「お母さん!」

 布を裂くような悲鳴だった。

 理歩は母にすがりついて、ぶんぶんと首を振った。

「お母さん、お母さん。待って、やめて! 砂乃子さんは関係ない、全部私がやったことだから。砂乃子さんはなにも悪くない!」

「あんたは黙ってなさいッ」

 理歩を振り払って、母が砂乃子に詰め寄る。

「貴女がこんなものを教えたせいで、うちの子がおかしな行動をとるようになったんです。一体、そうしてくれるんですか?」

「え……?」

 砂乃子の柔らかな心が、可哀想なくらいおびえる。

 母の剣幕に圧迫されて、嫌な音を立てる。

 理歩はたまらなかった。

 これ以上はと、死に物狂いで母の手を引っ張った。

 それでも、母は止まらない。

「他所の家の子供にちょっかいかけて、こんな変なもの教えこんで、一体何様のつもり? お陰でこっちはこの子の学校に変な言いがかりつけられて、いい迷惑したのよ」

「え、えと……その、それは、すみませ」

 話が見えないのだろう。

 それでも母を宥めるために、砂乃子が言葉を挟もうとする。

 そんな砂乃子を、鋭利な波が襲う。

 やめて、やめて、それ以上は、

「そんな変なもの着けて、いい大人が恥ずかしいとは思わないの? 気持ちが悪い。こんな日中にふらふらしているし、真っ当な職に就いているのかも分からない。はっきり言うけど、」

 砂乃子の海が、凍り付く。

 母が、最後の線を踏みにじった。

「おかしいわよ、あなた」

「やめて!」

 理歩は、叫んだ。

 二人の間に割り入って、母の体を押しやる。

 背後に砂乃子を庇い、母をにらみつけた。

 体が燃える。 火がついたみたいだ。

 どこか冷えた頭で、そう思った。

「もうやめて、これ以上砂乃子さんを悪く言わないで! どうしてよ、お母さん。どうして、私の言う事を聞いてくれないの? どうして、私の事を無視するの?」

 母が、驚いたように理歩を見下ろしている。

 その視線すら意識の他で、理歩は歯を食いしばった。

「理歩ちゃん」

 緊張したささやきと共に、砂乃子が理歩に手を伸ばす。

 けれどその優しい触れ合いも、理歩を止められなかった。

 波が、制御を失う。

 そびえるように天辺へ昇りつめ、母の前へ立ちふさがった。

「さっきから言ってるじゃない。砂乃子さんは、なんにも悪くない。お面の作り方をねだったのも、学校で着けるのを決めたのも、私だよ。砂乃子さんは悪くないのに、砂乃子さんの事を知りもしないのに、どうしてそんなひどいことを言うの?」

 止めて。 誰か、止めて。

 そんな声も、かき消される。

 理歩の怒りに、燃えつくされる。

「砂乃子さんは……砂乃子さんは、私の大切な人なの。この人を傷つけるのなら、お母さんだって許さない!」

 なんで理歩がこんなになるのかを、母はきっと理解していない。

 でも母は、理歩の一線に触れてしまった。

 もう、押し止めることはできない。

 目の奥が熱い。

 ゆるむ視界に、言葉を失った母の姿。

 理歩は最後のタガを外した。

「砂乃子さんに、私の大切な人に、酷いことを言うなら、私はッ」

 瞬間、全ての大波をぶちまけて断じていた。

「お母さんにだって、容赦しない」

「理歩ちゃん!」

 背後から、細い腕に囚われる。

 引き止める響きの呼びかけが、ほんの少し、理歩の熱を冷ます。

 ふーふーと肩で息をして、理歩は母をもう一度見た。

「帰って」

 断固とした思いで、言い渡した。

 母はじりっと身を引いて、息を潜める。

「帰って。砂乃子さんの家から出て行って。それから、ちゃんと考えてよ。自分で言ったことが、どんなにひどかったのか、考えて」

 開け放たれたままの玄関の向こうを指さして、理歩は視線を強めた。

 その時、

「何かありましたか」

 場にそぐわない冷静な声が、母の向こうから飛び込んできた。

「……陣」

 背の高い体が、玄関をふさぐ。

 ラフなTシャツにデニム姿。

 陣吉が、立ち尽くした三人を見下ろしていた。

「誰、あなた」

 固く母が問いかけると、陣吉はさっと真面目な顔つきになって、頭を下げた。

「ここの家主の友人です。初めまして、伏間と申します。あなたは?」

「……下の家の者です」

「音内さんですか? ご身内で?」

「ええ。うちの子が、この方と顔見知りで」

「存じています。僕も下の音内さんにはよくしていただいていまして。その子とも、仲良くさせてもらってるんです」

「母とも、お知合いなんですか?」

「はい。ということは、理歩ちゃんのお母様ですか?」

「……ええ」

「そうでしたか。お会いできて光栄です。いつか、ご挨拶ができればと思っておりましたから。以後、よろしくお願いいたします。…………ところで、」

 ぐるっと視線を巡らせて、陣吉は穏やかに微笑んだ。

「何か、お話し中でしたか?」

 邪魔をしたのなら申し訳ないと、丁寧な言い方で断る。

 その整然とした空気に、理歩たちもすっと熱が冷えた。

 母はばつが悪そうに目を落とし、「いえ、」と言葉をにごす。

 理歩は砂乃子に抱き着かれたまま、浅く息をした。

「立ち話もなんです。よろしければ、座敷の方へ行かれませんか? 砂乃子、今時間あるんだろ。上がってもらえば」

「いいえ!」

 ごく普通に対応しようとする陣吉を押し止めて、母は首を振った。

「そこまでしていただくほどの事では、ありませんから。私はこれで、お暇させていただきます」

 平坦に波を押さえた様子で、母は言い切った。

 そうしてちらっと理歩を見て、

「帰るわよ」

と、うながす。

 理歩はさっと視線をそららして、小さく首を振った。

「お母さんだけ、帰って」

 今は、一緒にはいられない。

 そう思いながらつぶやいた。

 もうそちらを見なかったから、母がどんな顔をしていたのかは見なかったけれど。

 波は、一瞬ざっとそよいで、収まったようだった。

 そのまま母は黙って踵を返し、陣吉の横を通り過ぎて行った。

 窒息しそうだった嵐から解放され、理歩は座り込む。

 過呼吸みたいに息が乱れて、体を丸めた。

「理歩ちゃん」

 框から降りてきた砂乃子が、背中をさすってくれた。

 いつもなら、その優しさを嬉しく思うのに、今の理歩は罪悪感で押しつぶされそうになった。

「砂乃子さん、ごめん。私のせいで、怖い思いさせちゃった」

「そんな……いいのよ。私なんて、本当、大丈夫だから」

 波を感じれば、それがまるっきり本当ではないということくらい、理歩にだってわかる。

 それでもそうやって言葉にしてくれる砂乃子に、理歩はますますうなだれた。

 すると、

「とにかく、こんな所でうずくまってても仕方ねぇだろ」

 ぐいっと理歩を抱え上げて、陣吉が玄関に上がり込んできた。

「陣?!」

「砂乃子、茶でも用意しろ。奥、空いてるか? そこで続き、話そうぜ」

 驚く理歩を無視して廊下を歩き、陣吉は明るい工房へ理歩を運んだ。

 後から砂乃子が三人分のお茶を用意してやって来て、小上がりのところへ並んで座る。

 二人に挟まれた理歩は、肩を落として手の中の器を見下ろした。

「で? なんだったんだよ、さっきの騒動は」

 いつも通りの調子で、陣吉が切り込んでくる。

 説明するのも億劫で、理歩は黙っていた。

「陣が来るちょっと前に、いらしたの。それで、お面の事で、なにかとても怒ってらしたみたいで」

「面? お前らの?」

「ええ。なんでも学校で言いがかりをつけられたとか」

「砂乃子さんが悪い訳じゃないよ」

 咄嗟に、口をついて出ていた。

 見下ろす水面が波紋を立てて、理歩は身ぶるいする。

「砂乃子さんは何も悪くない。全部私が悪いの。私が、全部」

「おいおい、待て待て。そればっかじゃ分かんねーよ。ゆっくりでいいから、ちゃんと説明しろ」

 理歩の茶器を取り上げて、陣吉が言う。

 もう一体何から話せば良いのか分からずに、理歩は手をにぎりしめた。

 そうしてしばらくしてから、ぽつぽつと思いつくまま、今日おこった全てを二人に聞かせ始めた。

 理歩が学校でお面をつけるようになったこと。

 それからの保健室通い。

 円居先生の話。

 懇談会。

 突然の母への暴露。

 それに生きた心地がしなかったこと。

 静まり返った車中。

 母の剣幕。

 砂乃子への敵意。

 話し終えた理歩は、ひどい、あんまりだと、顔をおおった。

 もう何に怒りを向ければいいのか、そもそも今ここに在る感情が怒りなのか、悲しみなのか、その他なのか。

 それすらも分からずに、自分の海におぼれていった。

 陣吉と砂乃子は、じっと話を聞いていてくれた。

 話の最中、一度も理歩をさえぎらずに。

 二人の波がずっと穏やかだったから、理歩も感情のおもむくままに話すことができていた。

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