第19話 そして流れ込む嵐の海に、④
「つまり、お前が面をして過ごしてたのを心配した先生方が、お前に報告なく母親に話を持って行ったって訳か。それが、母親の怒りに触れちまった、と」
ことりと器を置いて、陣吉が静かにまとめる。
理歩はびくりと肩を引いて、声を失った。
言われてみれば、全て理歩の招いた結果だ。
理歩が学校でお面を着けたりしなければ。
もっとはっきり、円居先生の心配を否定していれば。
理歩が母親を押し止めていれば、こんな有様にはならなかったのに。
砂乃子を、傷つけることも無かったのに。
「ごめんなさい…………全部私のせいだ。本当に、ごめんなさい」
とめどない後悔を、謝罪にする。
それしかもう、理歩には砂乃子への償いの仕方が分からない。
砂乃子を不快な波にさらしただけではない。
二人の大切なものを否定する言葉まで、聞かせてしまった。
大切だったのに。 自分のせいで、汚してしまった。
すると。
「違うわ、理歩ちゃん」
お面の奥で、はっきりとした否定が木霊する。
はっと、澱んでいた意識がゆらいだ。
「理歩ちゃん、それは違う」
今度は籠らない声が、理歩の海へ波を寄せる。
顔を上げる。
面のひもをほどいて、素顔を見せた砂乃子と、目が合った。
理歩ちゃん。
柔らかくて、芯のある呼びかけが、理歩の目を開く。
「理歩ちゃん、あなたはなにも悪くない。あなたは、誰にも悪意があったわけじゃない。『面を被っていたい』って、やりたいことをやろうとしたときも、誰かが困るなら、それを汲んであげる心だってあなたにはあった」
鏡のような瞳。
そこに吸い込まれる。
映り込む自分の姿を見て、理歩の波はおののき始めた。
「あなたは、あなたが自分を責めるほど、身勝手なことも、誰かをひどく困らせることもしてこなかった。だから、そんな風に自分を悪者にして、無闇に謝罪を繰り返すような必要はないの」
あなたは分かっているんでしょう、と言葉は続く。
砂乃子が理歩の苦悩をひも解いていく。
物事がこういう結果に至ってしまったことは、誰か一人の落ち度ではない。
理歩が受信機で受け取って来た、いくつもの波のずれ。
それが重なり合って、心の通い路から遠く離れてしまったことが、おおよその原因だと。
心の通い路。
それは、きれいに重なり合った波形が描き出す、異音のない静かな道筋。
理歩が砂乃子と出会ってたどり着いた、あの穏やかな心の至り所。
「道を見失ってしまったことは、誰か一人の責任ではないの。関わってきた、全員に関係がある。そもそも今回のことは、誰かに明確な悪意があったわけではないのでしょう。むしろ、優しい想いこそが、道を迷わせてしまった」
先生の熱意、理歩の洞察、母親の責任感。
複雑になってしまった想いが、事をこじれさせてしまった。
だから。
「誰か一人を悪因として非難することは、できないのよ。そのために、全てを見てきたあなたが責任を負おうとするのも間違っている。だってあなたはずっと、波が通い合うことを、望んできたはずだった」
波間に、一陣の風が寄せた。
全身が、凍り付く。
砂乃子の目が、理歩を容赦なく照らしている。
はっきりと暴かれたものに、理歩は息を忘れた。
これが、砂乃子の鏡。
陣吉が教えてくれた、長年砂乃子を苦しめてきた、彼女の鏡面。
「わ、たし」
理歩は恐れた。
砂乃子が、自分の全部を見てしまう。
理歩自身が砂乃子に隠したいものまで、見通してしまうような気がして、恐ろしかった。
見ないで。
あなたには、嫌われたくない。
理歩は初めて、砂乃子を拒絶しようとした。
堪らなく慕わしく思うから、手を振りほどこうとした。
しかし。
「お前らは、一人にしたら勝手に全部背負い込んで、自滅しようとしやがる。これだから、目が離せねぇんだ」
後ろから手が伸びてきて、理歩をすっぽり捕まえた。
理歩は混乱して振り返った。
「じ、ん」
「理歩。砂乃子はお前を責めたい訳じゃない。それくらいは分かるだろ?」
静かな面持ちで、陣吉が理歩の海に働きかける。
恐れに細かく沸き立つ波が、鎮められていく。
「怖がらなくていい。お前が見せたくないものがあっても、砂乃子はそこまで触れたりしない。それに、どんなことがあっても、お前を嫌いになってならないさ。なぁ、そうだろ」
差し向けられた問いに、砂乃子が微かに首を振る。
本当? 理歩は砂乃子をじっと見つめた。
本当に、この人は私から離れて行かないだろうか。
自分の周りで起こるズレを見ないふりをしてきた、こんな卑怯な自分を嫌わない?
砂乃子は変わらず、理歩の視線に答え続けた。
何もかもを見通す目は、理歩を真摯に映す。
嫌悪も失望も無く、理歩を見てくれる。
「お前は、もう少し砂乃子を信用してやれ。こいつはそう簡単に、懐に入れた奴を見放したりしない」
理歩の額を手でおおって、陣吉が笑った。
そうして少し真面目くさった顔をして、続けた。
「理歩、お前や砂乃子は、受け身すぎるんだ。多くの奴らが心の受け取り方をつい忘れちまうからって、それに気づいてるお前らが、受け取り役ばっかり担うことはねぇ。他人を受け取り続けるばっかりのお前らは、もう少し周りの奴らに働きかけるってことを知らなきゃならねぇよ。生まれた時から全てがそろってる人間なんて、この世にはいないんだ。人間は自分ってやつに向き合って、その姿を少しでもつかんだら、そこに足りない物を知ろうとすることが必要だ」
砂乃子や理歩という種類の人間を、ずっとそばで見てきた陣吉だから。
だからその指摘は深みを持って、二人の受信機をゆらした。
「お前は、ズレちまって遠くなった、先生や母親に、本当はここに居るんだと、発信するべきなんだよ。そうしなきゃ……相手に気が付いてもらうことばっかりを望んでちゃ、できた溝は埋まらねぇ」
理歩は、ずっと起きてしまうズレを悲しんでばかりいた。
ズレを無理矢理に合わせようとすることが、歪な形を生むということを知っていたから、自分から動くことをしてこなかった。
自分という人間の立ち位置をわきまえて、一線から出ることを忘れてしまっていた。
けれど、陣吉はそんな理歩の背中を、しっかりと支えて言う。
「お前が、俺らに教えてくれただろ。押し付けるばかりで、相手に理解を強いるのは、違う。きっと、その反対もそうだ。受け取るばかりでいて、相手に気が付いてもらおうとするのも、酷なことなんだ」
ひゅうとのどが鳴る。陣吉の微笑みが、視界ににじんだ。
「理歩、何も怖がることはねぇよ。ズレを完璧に合わせようなんて、そんな高等なことをやり切れる人間は、きっといない。ただ、努めればいいんだ。理解してもらおう、同じだけ、理解しよう。そうやって、誠実であればいいんだ」
目の前の、砂乃子を見た。
砂乃子は笑っていた。
照れくさそうに、目を細めていた。
後ろから、何かを取り出してみせる。
母に歪められてしまった、理歩のお面だった。
そっとそれを手渡され、理歩は陣吉の腕から抜け出して手を伸ばした。
歪になってしまった、理歩のお面、理歩の静かな海。
否定されて、普通ではないと認めてもらえなかった、理歩の息ができる水槽。
ぽとぽとと雫が頬を伝って、藍色の絵具を溶かした。
理歩はただ、もうこれ以上誰かのすれ違いを見ていたくないだけだった。
そうして傷つくのから、逃れたいだけだった。
でも、そうやって逃げたのがもしズレをひどくさせていたのなら。
それならば理歩は、自分は、
「陣、砂乃子さん」
面を胸に抱きしめて、言葉を噛みしめる。
二つの波が理歩の意思に応えて、ゆるやかに動き出した。
「わたし、お母さんに、言わなきゃ。私がどうしていたいのかを、言わなくちゃ」
陣吉と砂乃子がそうしたように、混じり合わない波を重ね合わせて、少しでも同調できるように向かい合わないといけない。
傷つくのを全部怖がって、相手を置き去りにしてはいけない。
大切だからと言い訳して、遠くに逃げてはいけない。
「私は、お母さんを、迎えに行かなくちゃ」
砂乃子が、手を広げる。
理歩は体当たりするみたいにそこへ飛び込んだ。
理歩が起こした波を、砂乃子が迎え入れる。
波形は受信機に飲まれ、優しい静寂が理歩を包んだ。
砂乃子が、理歩の耳元へ唇を寄せる。
「全部、今から変えてしまおうとしなくていいのよ、理歩ちゃん。あなたは、先に行くと今、決めた。その意志さえあれば、それ以上何も自分に強いることはない。ゆっくりでも進んでいく先にきっと、あなたはお面を必要とせずに心から笑えるようになる」
ささやかれる後押しに目をつむり、理歩は陣吉に向き合った。
「陣、ありがとう。私、お母さんのところに行ってくる。ちゃんと、私を知ってもらわないといけないから」
「そうか」
陣吉は短く言って、うなづいてくれた。
ただ、理歩はためらいながら続けた。
「でも、でもね? 私は、多分まだ、このお面なしでは進んでいけない。これがあるときだけ、周りの何にも惑わされずに、自分を出せるの。自由でいられるの」
まだ自分は、陣吉のような強さはない。
だからもう少し、この面と一緒に居ることを許してほしい。
そう願って受信機を差し出した。
陣吉はそれに、長い波形の波で答えた。
「いいよ。お前の道のりだ。お前のペースで行けばいい。…………受信機ってやつがあるお前らみたいのはきっと、人をきちっと見れる、そういう人間なんだ。俺には深い所では分かってやれないけれど、それでも多分、お前たちは人間と交わるべき生き物だと思う」
人間は、大半が自分の本当を知っていると思っていて、でも本当は分かってないまま足掻いてる。
理歩たちは、そう言った人たちに自分を見つける『気づき』を与えるんだと思う。
だからもっと人の中で沢山傷ついて、傷つけられて、そうやって生きていくべきだと、陣吉は言った。
「それは苦しむことも多い生き方かもしれねぇけど、そこには必ず、お前らが言うきれいなものも沢山あるはずだ。だから、全部諦めようとするな。苦しかったら、その時はそばに行ってやるから」
理歩と砂乃子、両方に伝えるように頬をゆるめて、
「お前らは、きっとお前らが思っている以上に人が好きで、人の中で生きていくのが上手いよ」
力強く、美しい宙をくれた。
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