第20話 一匹は、泳ぎだす。終

 丸く切り取られた視界に、祖母の庭。

 夕暮れが近づく西の空を目で追いながら、理歩は縁側に座っていた。

「お母さん」

 少し間隔をあけて腰を下ろしている母を、ゆっくりと呼ぶ。

 受信機に流れ込む波は曲線を忘れて、息が詰まるようだ。

 けれど、理歩はもう後には引かなかった。

「お母さん、さっきはごめん。私、自分勝手にひどいこと言った。ごめんなさい」

 あの後、祖母の家の玄関でずっと理歩の帰りを待っていた母を見つけて、理歩は悔やんだ。

 どうしてと、失意に飲まれるようだった。

 どうして上手くできないのだろう。

 どうして誰も傷つけずにいられないのだろう。

 そんな風に思って、苦かった。

 でも、自分を送り出してくれた二人の言葉を思い出し、目を背けたいものへと向き合う覚悟を決める。

 何も言わない母を導いて二人、縁側に並んだのだ。

「お母さんは、私が変な事をしてたのを、許せないかもしれない。それは、私も迷惑かけてわるかったなって、思うよ。でも、お面も、それを教えてくれた砂乃子さんも、私の大切なものなんだよ。だから、それを傷つけられたら、とても、苦しい」

 波を拾え。

 けれど、無理矢理自分を同調させるな。

 交り合わない波形が、できる限り互いを傷つけない場所を、片方だけではなく、互いに探り合うのだ。

 そのために、自分の波を真摯に形にして相手に示す。

 傷つけられることも恐れずに、隠していたものをさらけ出す。

 それが距離を取ることと対になる、誰かを大切にしようとする心の、もう一つの在り方。

「このお面を変だって、お母さんは嫌がるかもしれないけど、私に取っては大切なものなんだよ。ちゃんと分かってって、そんな風には言えないけど、それは私の本心なんだよ」

 歪んでしまった、烏天狗面。

 ぶつかり合う母の海を隔ててくれる、理歩の小さな水槽。

 かさついた手触りをなぞりながら、もう少しと、願う。

 もう少し、弱い自分を守って。

 そうして、母と向かい合うことを、助けてほしい。

 あと、少しだけ。

「あのね、お母さん。私、ずっとお母さんに言いたいことがあったんだ」

 視界の外で、頑なな気配はピクリとも動かない。

 理歩の波をはねつけるばかりで、混じり合わない。

 でも、理歩は一歩を踏み出した。

 怖さを抱えて、それでも先に進むことにした。

「いつも、私のために、ありがとう。大変なのに、何も言わずに仕事をしてくれて。忙しくって休みたいと思うのに、家事をしてくれて。今日、私のために来てくれて。それで、私を心配して、」

 怒ってくれて、ありがとう。

 西日が、少しずつ濃くなっていく。

 理歩はそれをじっと見つめた。

 母の怒りは、全てが理歩のためではなかったとは思う。

 様々な苛立ちが母を急き立て、あんな言葉を吐かせてしまった。

 でも理歩は、その中にほんの小さな波を見つけていた。

 理歩を守らなければと思う、母の決意。

 結果として砂乃子を傷つけたことを、理歩は完全に許すことはできない。

 けれど、理歩はそんな母の想いを無視して、非難するばかりもできなかった。

 息苦しい自分の家。

 刺々しい母の海。

 ずっと、苦しかった。

 母が遠かった。

 でも、それでも、理歩が母の居る家に帰り続けた理由。

 そこ以外に、帰る場所が無かったからだけではない。

 頑なな母の海のその奥底に確かにあった、心。

『理歩のため』。

 偽りなく想ってくれる、ゆらがない一筋の波形。

 それを知っていたから、理歩は母をずっと嫌えなかった。

 苦しくても、そばに居ようと思っていた。

 理歩を送り出す時、陣吉が言ってくれた。


『傷つけるって、全部を怖がるなよ。『傷つけるくらいなら、自分が傷つくくらいのことは、どうってことない』って甘ったるい事を、母親だからって許したりするな。誰かを自分勝手に傷つけといて、怒りや反発でやり返されることがないなんて、そんなフェアじゃないことあるわけねーんだ。きっとお前の母親は、自分の子供で、自分が居なきゃ生きてけない弱いお前に、甘えちまってる。それを許してきたのは、他でもないお前だ。もう中学だろ。お前くらいなら、反抗期で暴れ回ってても正常だよ。それで一緒に居られなくなっても、お前にはばーさんも、砂乃子も、俺もいる。いつでも頼ってこい。いくらでも、味方になってやるから』


 理歩には、母を責め切るほどの熱量はない。

 理歩の海を迎え入れてくれる人たちに、出会えたからだ。

 けれど、陣にこうやって言ってもらえて、理歩は嬉かった。

 本当に、嬉しかたのだ。

 だから、激流におぼれずに、母に向かい合うことができる。

「お母さん。私、お母さんといると、ちょっと苦しい。私のために毎日頑張ってるって、ちゃんと分ってる。でも、そばに居ると、苦しくなって逃げ出したくなる」

 お面と一緒に、母の海に飛び込む。

 波間を潜り、深く深くへ落ちてゆく。

「こんなこと言うのは、ずっと怖かった。私がお母さんのことを嫌ってるって勘違いされちゃったり、お母さんの頑張りを否定してるって受け取られるじゃないかって、そう思ってたから」

 それが一層母を孤独にして、理歩との間に距離を作るのではと危ぶんでいた。

 でも、きっともう潮時なのだ。

 理歩はもう、母のそばでちゃんと息をしたい。

 母の苦しみを、理歩が解ける分だけ解いて、楽にしてあげたい。

「私、お母さんと一緒に居たいって思うよ。でも、今でもお父さんのことも嫌いにはなれない。お母さんが食事を作ってくれるの、嬉しいよ。でも、それが負担になってお母さんがより疲れるなら、してくれなくてもいいって思う。私の事を心配してくれるの、とっても感謝してる。でも、私の心を無視して怒るのなら、それには違うって言う」

 面のひもを解く。

 全てさらけ出して、理歩は母に向かい合った。

 母の海が、受信機を包む。

 戸惑いと痛みににじむ目が、理歩をとらえる。

「お面があるとね、こんな風に正直になれるんだ。変だよね。でも、だから、私はこれが大切なんだよ」

 気恥ずかしく笑う。

 理歩は気が付いていた。

 息ができる。

 受信機が浮かび上がる。

「お母さん」

 母の海が、動き出す。

 色々な感情が行き交い、複雑に波を描く。

 でも、確かに息ができるのだ。

 手が伸びてくる。

 切なく目を細めながら、そこへ倒れ込んでいく。

 波がぶつかり合う。

 けれど、不快感はない。

 ちゃぽちゃぽと砕けるその深い水底で、海流が混じり合う。

 それを、理歩は確かに感じていた。

 見えないけれど、確かに感じていたのだった。

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張り子面の海 壺天 @koten-3

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