第17話 そして流れ込む嵐の海に、②
夏休みを翌日に控えた、終業日。
理歩は懇談会の順番を待って、余分な時間を保健室で過ごしていた。
あれから円居先生は、理歩に深く干渉してこない。
ただ、受信機は先生が理歩を時々観察している様子なのを、ちゃんと受けとっていた。
それが少し居心地が悪かったけれど、お面を被っていられる静かさに釣られて、保健室通いは続けているのだ。
一方で、理歩にもほんの少し、心境の変化があった。
以前は好意も、嫌悪も、波の全てをうるさく、うとましく思っていた。
だが、三人で星を見たあの日。
あの日から少しずつ、もう一度人と人の間で騒がしい海に浸ってみようかという気力が、わくようになってきていたのである。
それは多分、砂乃子と陣――――食い違っていた二人が、再び波を通い合わせる様を見たから。
何もかも全部を諦めなくても、すれ違って打ち消し合っても、いつか溶け合う波がある。
そんな小さな希望を、見つける事ができたから。
だからまた大海に立ち向かおうと、そう思えるようになったのだ。
作ったばかりの烏天狗の面を被って、保健室の窓辺から、運動場を眺める。
部活動に励む生徒たちを遠く観察して、理歩は考えた。
受信機のある自分は、こうやって人から遠く離れたところにいて、皆が楽しそうな様子を見ているのが性に合っている。
でもそれは人が嫌いという訳ではなくって、好きなままでいたいから、必要とする距離なのだ。
それを理解されなくて、離れていく大切な人もあるのかもしれない。
けれど、それを必要以上に悲しむ必要はなくて、そんな時理歩がするべきは、自分のやり方への理解求めないこと。
自分が抱えたものを、相手に押し付けないことだ。
分かってほしいと望むだけは楽だ。
でも、自分が楽をするために、相手に自分の波を放り投げるのは違う。
いや、間違っているとまでは言わない。
しかし、余程受け止める容量の多い人でない限り、それは相手を圧迫して疲れさせてしまう。
そうなっては、ズレた波を同調させるのが増々困難になるだろう。
陸上部の友人が、理歩に気が付いて手を振ってくれた。
理歩も、お面を持ち上げて手を振り返す。
こんな風に、距離を取っている理歩を気にかけてくれる誰かも、確かに居る。
案外、苦手な人波の合間にも、星屑は見つかるのかもしれない。
自分が見落としているだけで、もしかしたら。
そんな楽観が、理歩の中に生まれ始めていた。
きっと、人と距離を取って生きていく選択を、砂乃子も陣も、ちゃんと話せば否定しないでくれるだろう。
そういったやり方もあると、うなづいてくれると思う。
けれど、静かけさ以上の海――――美しいものを見たなら、理歩は人と人の間で息をするべきなのだ。
波のズレに苦しんで、悲しんで。
それは今まで通り、窮屈でやる瀬ないものだろうけれど。
それでも、色んな星のかけらを見つけるためには、それも必要なことなのだろう。
砂乃子たちが、食い違いの先にきれいなモノを見せてくれたように。
もがき苦しんで答えを出した果てにあるからこそ、より美しいと思える宙が広がる。
苦しさを避けて生き続けることも、もちろんできる。
人によって、その選択をすることも、間違っていない。
でも理歩自身は心のどこかで、波のぶつかり合う海にもう一度飛び込むことを、受け入れ始めていた。
息が詰まっても、多分耐えられる。
無力感に飲まれても、すっと離れたところで息を吸い込んで、戻って来ようと思い直せる。
だって、理歩はもう、一人じゃない。
砂乃子たちにもらった心を、誰かに差し出すことができるのだ。
誰かに自分を押し付けるだけのやり方ではなく、あふれる心を受け止める、器の準備があるのだ。
「音内さん」
保健室に入って来た円居先生が、理歩を呼ぶ。
振り返ると、戸口で手招きされていた。
「懇談会、もう順番だって」
「あ、はい」
廊下の先を示されて、するりとお面を外した。
慎重に手提げ袋にしまって、カバンを背負う。
「お母様、もう教室に入られてるみたいだから、待たずに入っていいよ」
「そうですか」
微笑む円居先生に相槌を返し、廊下を一緒に歩く。
理歩の懇談は今日の最後に予定されているから、このあとに控える同級生は居ない。
こういったものは大抵予定時間よりも遅れてしまうものだし、それを気づかった円居先生が、保健室で待たせてくれていたのだ。
教室まで付いて来るつもりらしい先生に内心首を傾げながら、理歩は階段を上った。
教室前まで来ると、先生が扉を開けて、中へうながしてくれる。
「音内さんを呼んできました」
教室に入ると、二つ並んだ机を向い合せたところに、担任の女教師と母の奈江子が座っている。
この時点で、理歩は違和感を覚えた。
それがはっきりと何かは分からなかったが、理歩は流されるまま母の横に腰を落とす。
そのまま何事も無く懇談が始まり、円居先生は廊下に出て行った。
理歩は、なんだか拍子抜けした心で、母と先生の会話を聴いた。
成績や、学習態度。
自分に関わる話も上の空で、受信機を探る。
確かに違和感はあったけれど、気のせいだったのだろうか。
自分の思い過ごしだったのかな。
そんな風に一人考えていたから、横の話が終わるのにも、気が付かなかった。
「では、懇談に関しては、お話は以上です」
担任の先生がそう言って、今日はおしまいのはず。
でも。
「ただ、音内さんに関しまして、あと一つ、お母様にお伝えしたいことがありまして……」
ぼやかした語尾が、理歩の受信機を逆撫でた。
ぞわわっと毛がそよいで、指先がはねる。
担任の合図で扉があき、誰かが入って来きた。
「保健担当の、円居です。よろしくお願いします」
先生? 帰ったのではと、理歩は目を見開いて優しい横顔を見上げた。
呆然とする間に空いていた残りの席に腰を下ろし、円居先生が頭を下げる。
受信機が、ふるえている。 おかしい。 これはイレギュラーだ。
理歩は一気に居心地の悪さを味わって、ぎゅっと机の下の手を握った。
「本日はお時間を頂きまして、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、娘がお世話になっております。音内と申します」
大人の挨拶というやつを交わして、三人の大人が理歩を囲む。
こんなのは、聞いていない。
一体、今から何が始まると言うのだろう。
理歩は混乱した。
けれど理歩以上に、母も、この状況を飲み込めていないようだった。
「あの、うちの理歩が、なにか問題でも……」
心配そうにうかがいを立てる母に、先生たちが目を交わし合う。
話をリードする担当は、決まっていたのだろう。
担任が真面目な顔で、口火を切った。
「いえ、理歩さんの素行が悪いといったお話ではないんです。先ほど話しました通り、しっかりと授業も受けておりますし、成績面も問題ありません」
ですが、と続いた言葉が、波紋を落とす。
ああ、息が。
密度が上がる。
空気が、薄くなる。
母の方へ体を向けた円居先生が、ゆっくりと言葉を継いだ。
「実は三週間くらい前から、理歩さんは昼の休み時間だけ、保健室に通っているんです。それも、毎日。お母様は、そのことをご存じでしたか?」
「いえ…………そんな話は、全く。今、初めて聞きました。何か、体調が悪かったとか、そういったことですか?」
「いえ、体調の問題ではなくて――――音内さん」
「……はい」
呼ばれるのに自動的に答えると、円居先生は理歩の手提げを示して、
「あれを、出してもらってもいいかな?」
柔らかく、しかし、はっきりと頼んできた、
先生が言っている物が何かくらい、理歩にだって分かっていた。
それでも、素直にそれに従うなんて、できるわけがない。
青い顔で固まる理歩に業を煮やしたか、母が横から手提げを取った。
「…………何ですか、これ」
母の手の中にある大切なものを、理歩は直視できなかった。
段々と落ちる視線の向こうで、話は理歩を無視して進んでいく。
「それは、理歩さんの作ったお面なんです。理歩さんは学校でそれを着けたがったのですが、学校としても他生徒の手前、それをまるっきり許可はできなくって。それで、折衷案として、保健室でならその面を着けてもいいという約束にしたんです」
「理歩が、作った? これを、着けてたんですか? 学校で?」
「はい。学校としましても、極力理歩さんの意向を尊重してあげたいと思いまして、そういった措置を取らせていただきました。ただ、監督していました私としては、少し気になることがあって、今回のタイミングでお母様にお話しできればと考えていたんです」
雄弁な円居先生の言葉が、何かに迫っていく。
その先を、理歩は恐れた。
何か、とても取り返しのつかない所へたどり着きそうな、そんな予感がしていた。
「理歩さんは、お面を被ることでとても落ち着くと言っていました。だから、どうしても着けていたいと。それ自体は、いいんです。そうやって、自分の居心地のいい所を探すのは、大切なことです。ですが、保健室に通うようになって、理歩さんは同級生たちと少し距離ができてしまった。そんなように、見受けられたんです」
違う。
確かに正しいけど、それは違う。
言いたいのに、声が出ない。
「この年頃の子たちは、付き合いが悪くなると、途端に交流を断ってしまうところがありますから…………理歩さんのしたいようにさせてあげたい半面、彼女の交友関係が悪化してしまうのを、私としても危惧していまして」
「……理歩、本当なの」
母の問いに、答えられない。
見ないでほしい。
ここから逃げ出したい。
波を発しているはずなのに、その波は誰にも届かない。
「お母様、理歩さんも、きっと言いたいことがたくさんあるんだと思います。今ここで、全部話すように強いるのは、理歩さんにも酷だと思いますので」
「……はい」
「私共としましても、理歩さんが今回このような行動をとったのは、彼女の心のサインだと思っているんです。理歩さんはこれまで、見かけ上何も問題なく学校生活を送っていました。ですが、もしかしたら誰にも打ち明けられない何かがあって、それをため込んだ末に人と距離を取りたくなってしまった。お面は、それを分かりやすく周りに伝えるためのメッセージだった。私はそう考えているんです」
先生の言葉は、正しさと間違いがない交ぜになって、気持ちが悪かった。
正しさが混じり合っているからこそ、ひどい波だった。
「理歩さんがこういった状態にあるのを、お母様にだけはお伝えしておきたくって、今回、お話させていただきました。失礼ですが、ご家族はお母様だけとうかがっております。お母様もお仕事や家事でお忙しいとは思いますが、どうかできるだけ理歩さんと話をする時間を取って、彼女の話を聞いてあげて下さい。お母様になら、理歩さんもしたい話があるんだと思いますから」
受信機が、鋭く波を断ち切った。
瞬間、ひらめく。 母だ。
先生は、母に理歩の行動の根源があると思っている。
でも、どうして。
そこまで考えて、はっとした。
理歩が、先生に悩み事を話したあの日を思い出す。
あの時理歩は、明確に対象の二人を明かさなかった。
もしかして先生は、あの話を理歩の両親の話と取ったのではないか。
だから、こんな風に理歩と母の仲を取り持とうとしている。
手が、ふるえる。
色んな波が奥底からわき上がって、今にもあふれそうだった。
じっとこらえていないと制御できなくなりそうで、理歩はおびえた。
「お話は、分かりました。随分と、ご迷惑をかけたようで、申し訳ありません」
冷静に頭を下げる母の、影になった、顔。
先生は恐縮して頭を上げて下さいと微笑んでいるが、理歩には分かっていた。
母の海が、澱む。
静かに逆巻いて、雷雲を呼んでいる。
『余計ナコトヲシテシマッテ、ゴメンナサイ。タダ、貴女ノ力二ナリタカッタノ』
理歩の手を取って、憐れな子を見る目で言う先生の言葉が、ノイズに割れる。
それに、きちんと返事はできていたのだろうか。
そこから挨拶をして教室を後にし、母の車にたどりつくまで、理歩には記憶がない。
いつの間にか運転席の母と並んで座り、静まり返った車内で固まっていた。
その道のりが、祖母の家へ向かっているのに気が付いたのは、あの川沿いの道が見え出してからだった。
「お母さん……? おばあちゃんのとこに行くの?」
か細く聞く理歩の問いに、母は答えない。
祖母の家の前について、車から降りた母が、扉を閉める。
まるで叩き付けるような音にすくみあがって動けないのを、腕をつかまれ引っ張りだされた。
そのまま玄関に引っ張って行かれ、
「母さん!」
鋭い声で、母が祖母を呼ぶ。
何事かと顔を出した祖母が、目を丸くしたあと、嬉しそうに近寄って来た。
「今日は一緒に来たんだね。奈江子、時間はあるの? それだったら、夕食を一緒に……」
「そんなことはいいの」
ぴしゃりとはたいて落とす母の言葉が、理歩をびくつかせる。
「母さん、私言ったわよね? 理歩をちゃんと見ててって」
「え? ええ、そうだけれど。どうしたの? 別に理歩は、うちで普通に過ごしてたわよ?」
何を責められているのかまるっきり分からない顔で、祖母が答える。
それが、母に油を注いだらしい。
波が一際大きくうねっておおいかぶさって来た。
「だったら、どうして『こんなもの』を学校で着けたりなんて、おかしなことをするようになったのよ?!」
母は理歩から奪い取った手さげからお面を取りだして、祖母に見せつけた。
強い力でつかまれたお面が、ぎしりと歪む。
それを痛みをこらえるように、理歩は見ていた。
「これを、学校で? そうなの? 理歩」
全てを把握していなかった祖母が、戸惑って理歩に確かめる。
理歩は血の気の引いたまま、微かに唇を開いた。
「あ、」
「今日、学校でそう言われたのよ。理歩がこれを着けたがって先生方を困らせたらしいわ。挙句の果てに、問題児みたいに保健室に閉じこもってたって」
母の言い様は、誰に遠慮をすることもなく、容赦がなかった。
波は密度を高め、受信機を押しつぶそうとのしかかってくる。
ひどい。 ひどい、ひどい。 息が、吸えない。
お母さん、
「そうやって変な行動ばっかりしてみせるから、家の方に問題があるんじゃないかって、痛くもない腹を探られたのよ。私が片親だってことまであげつらわれて」
母の視線が落ちてくる。
目が合わせられない。
足が萎える。
お願い、もう、
「なんなのよ、全くッ。全部、母さんのせいよ! 母さんが、理歩をちゃんと監視してくれなかったから、こんなことに」
「で、でも、奈江子。それは、理歩の大切なものなのよ。だってそれは、理歩と砂乃子ちゃんの」
「?! おばあちゃんッ」
咄嗟に叫んでいた。
けれど、言葉はもう戻らない。
母が、さっと空気を換えて、理歩をにらみつけてきた。
「理歩。砂乃子って、誰なの?」
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