第3話 小さな水鉢の中で閉じこもっていたかった。③

 理歩は砂乃子さんをつかまえた。

 つまるところ、友達になったのだ。

 庭先の騒動が落ち着いて、砂乃子さんは理歩をお茶に誘ってくれた。

 ぬるい緑茶とお茶うけの金平糖をかじりながら、砂乃子さんは自分のことをぽつぽつと話した。

 砂乃子さんは、若い陶芸家だった。

 理歩の住む町一帯は良質な土が取れるため、陶芸の窯元かまもとが集まっている。

 砂乃子さんもそのうちの一人というわけだ。 作務衣は作業着ということらしい。

 お面については諸事情が……と、はぐらかされてしまった。

 それが一番聞きたかったのに。

 砂乃子さんは、最初はやっぱり、慎重に理歩と距離をはかるようにしていた。

 自分が理歩を驚かせたことを、とても気にしているようだったから。

 けれど、それだけ人に気を使える人だと、理歩はますます砂乃子さんを好ましく思うようになった。

 臆病な人だ、とも思った。

 でも、理歩はそういう臆病で優しい人が好きだった。

 そういう人は、とても柔らかなさざ波をまとっているから。

 理歩が息をしやすい、凪の海のような人だった。

 理歩は人間が嫌いだと言ったけれど、こういうタイプの人は別だ。

 相手がこちらをよく思ってくれるのなら、もちろん仲良くなりたい。

 会話をしながら、ふと思った。 明日も会いたいな。

 砂乃子さんを観察しながら、じっと考える。

 明日も会うための口実、何かないだろうか。

「あ、」

 突然声を上げた理歩に、砂乃子さんが首を傾げる。

「お面」

「お面? これですか?」

 二十五だと言った砂乃子さんは、相変わらず敬語はそのまんまで、自分の猿のお面を指さした。

「うん、それ。砂乃子さん、それ、どこかで買ったの?」

「いいえ、これは自分で作ったんですよ」

 道具さえあれば簡単にできるんですよ、と言う砂乃子さんに、理歩は目を見開く。

 なんと、手作りなのか。

 こんなに上手で精工なのに、すごい。

 同時に思った。 これだ! と。

「じゃあ、私にもそれ、作れる?」

 身を乗り出して聞くと、砂乃子さんは「もちろん」と首を振った。

「作るの、興味ありますか?」

「ある!」

 勢い込んで答えた。

「作ってみたい。ねぇ、もしよかったら砂乃子さん、教えてくれませんか?」

 うんと言って。

 願うように視線へ力を込めて、陰になった目をのぞき込む。

 すると砂乃子さんは目を細めて、またしてもふわっとした空気を発生させた。

「いいですよ、私のやり方でよければ、教えましょう」

「本当? やったぁ」

 約束ができた。

 理歩は喜んで、「明日にでも、教えてくますか?」とねだった。

「私、週末はいつもおばあちゃんの家にいるんです。学校がある日も、自転車でちょっとかかるけど、来れなくはないです」

「そうなんですか? ……じゃあ、明日。朝は私も用事がありますから、お昼から集合して、お面を作ってみましょうか?」

 それまでに、道具はそろえておくからと言う砂乃子さんに「ありがとう」と返して、理歩ははにかんだ。

 この柔らかな空気の人と、もっと一緒にいられる。

 それが嬉しくって、楽しくって。

 祖母以外にそばにいたい人に出会えて、とても心がふわふわとしていた。



 翌朝、理歩はとても早起きした。

 驚く祖母の家事を手伝って、ワクワクと午後を待ち構えた。

 砂乃子さんは昼からと言っていたけれど、十二時丁度にお邪魔しても構わないだろうか。

 やっぱり早すぎるかな。 そんな風に祖母に話を振ったりした。

 祖母は、理歩が砂乃子さんと仲良くなったのが嬉しそうだった。

「やっぱり仲良くなれると思ったよ。あの人はとても感じのいい人だからね」と、布団を干しながら言っていた。

 祖母に頼み込んで昼食を早めてもらい、十二時ちょっと前に家を出た。

 もし砂乃子さんがお昼を食べていたら、玄関で待たせてもらおう。 そう考えて。

 祖母が持たせてくれたお菓子を手土産に、坂道を登る。

 砂乃子さんの家が見えてきた。

 むわっと嬉しい気持ちが胸の奥の方から膨れ上がって、理歩は駆け出した。

 でも、家の塀の入口まで来た時。

 理歩は玄関に人が居るのを見つけて、きゅーっとブレーキをかけた。


 男の人だった。 背が高くて、ガタイがいい。

 ラフな服装でとても日に焼けていた。


 理歩は陰に隠れてひざを折り、様子を見守った。

 何かを話している声が聞こえる。

 一つは砂乃子さんのだ。 あの男の人の向こうにいるのだろう。

 二人をうかがいながら、首をひねった。

 何を言っているかは聞こえないが、二人分の声はとても固いような気がしたのだ。

 空気が、ざらついている。

 あの砂乃子さんがそんな雰囲気を出すのだろうか、と違和感があった。

 手の中の土産に目を落とす。

 感じ取った空気をよく味わった。

 多分、あれを自分は知っている。

 それは昔、理歩がまだ小学生で――――「おい、そこのチビ」

 耳に飛び込んできた声に、理歩は飛び上がった。

 ばっと振り返って、その人を見る。

 屈んだ理歩に合わせるように、先ほどの男性が座り込んで理歩をにらみつけていた。

「盗み聞きとはいい度胸だな。アイツの顔見知りか?」

 アイツと言って砂乃子さんの家を指さしたから、理歩はつい首を縦に振ってしまった。

「勝手に聞くのはマナー違反だぜ。礼儀のなってねぇガキだ」

 男は、そこにいるだけで人を押しのけるような強い威圧感を放っていた。顔つきは腹を空かせた野犬のようだし、仕草だって荒っぽくて隙が無い。

 男を目の前にした理歩は、両肩をぎゅっと掴まれたような落ち着かなさを感じた。

 これは、人を言う通りにさせることができる人間の空気だ。

 そうして理解した。

 こいつだ。 こいつがいたから、あのザラザラした空気が広がっていたんだ。

 理歩はきっと男をにらみ返した。

 あの柔らかな砂乃子さんに、この男が近づいていたのが不快だった。

 こいつはこの落ち着ける場所には、余計なもの。 異物だ。

 そんな強い思いがわき上がった途端、理歩は男への恐れが小さくなっていくのを感じた。

「なんだ、生意気な目するじゃねーか」

 男は不敵に口の端を歪めて、立ち上がる。

「……砂乃子さんのお知合いですか」

 不機嫌を隠さずに聞けば、男は「さぁ、どうかな? お前には関係ないだろ。まぁ、どうしても聞きたかったら、アイツに聞けよ」と馬鹿にするように言って、理歩の横を通り過ぎて行った。

 坂を下っていく男の背中を見ていると、理歩はなんだかふつふつとしたものが込み上げてきて、ぎっと奥歯を噛んだ。

 もう二度と来るな! 腹の底からそう思った。

 砂乃子さんの近くには、ああいった人間は近寄って欲しくない。 心底思った。

 ああ、むかむかする!

 理歩はそんな気分のまま、砂乃子さん家の呼び鈴を押した。

 押して音が鳴った途端、ハッとする。

 いけない、こんな空気では、砂乃子さんの前に立ちたくない。

 理歩はふるふると頭を振って、男の事を忘れようとした。

 パタパタと、昨日より落ち着いた足音が近寄ってくる。

「はーい……あら! 理歩さん」

 ギリギリセーフ。

 理歩はちゃんとした笑顔で、砂乃子さんと顔を合わせることができた。

 砂乃子さんは相変わらずお面の顔だ。

 今日は空色の鳥のようである。

「お昼になったから、来ちゃいました。砂乃子さん、まだ忙しいですか?」

「ううん、お昼ご飯、いつも早く食べちゃうんです。だから、大丈夫。さぁ、上がってくださいな」

 砂乃子さんはこの家に一人暮らしだった。

 平屋の家は、日中光が届きにくい。

 薄暗い廊下を通って、砂乃子さんは家の裏にある広い土間のようなところに理歩を案内してくれた。

「わぁ」

 入るなり、理歩は感嘆を上げずにはいられなかった。

 そこは、砂乃子さんの陶芸の工房だった。

 下側が木板、上側が木材の格子にガラスをはめ込んだ壁に二方を囲まれ、全体がほんわりとした初夏の陽に満ちている。

 工房には畳敷きの小上がりもあり、テレビで見たこともある『ろくろ』という装置もすえられていた。(『ろくろ』は、陶芸の器を形作るための道具だ)

 入って来た入口の壁沿いには棚があり、たくさんの土の器が並んでいる。

 全部、砂乃子さんの作品らしい。

 工房にはそこかしこに物があふれていたが、それらは全てが収まるべき場所に収まって、しんと落ち着いた雰囲気をかもし出してた。

 何もかもがとても丁寧に扱われているようなのが、はっきりと分かる空間だった。

 理歩は工房を見て、うんと愛おしさがこみ上げるのが分かった。

 ここは、砂乃子さんそのものだ。

 砂乃子さんの繊細で、誠実な人柄そのものなのだ。

 そんな場所に入ることを許された自分が誇らしいような気がして、すうっと息を吸う。

「ごみごみしていて、ごめんなさい。理歩さんは、こういうところは平気ですか?」

「平気です! 全然ごみごみなんてしてませんよ。砂乃子さんはきれい好きなんですね」

 何もかもが、とても丁寧に扱われているもの。

 そう言って笑うと、砂乃子さんはお面の奥の目を、ふやっと溶けさせた。

 きっと、嬉しいという目だ。

 ああ、やっぱりいい目だなぁ。

 理歩も嬉しくなって、片頬をかいた。

「じゃあ、早速お面作り、始めましょうか」

 小上がりに理歩を誘った砂乃子さんは、棚の中から、いくつかの道具を取り出した。

「私たちがこれから作るのは、『めん』というものです。型に紙を貼り重ねて、のりで固めて作ります。必要なのは、油粘土、ラップ、新聞紙、習字用の半紙、大和のり、刷毛はけ、絵具……これだけ」

 砂乃子さんは、一通りの手順を説明してくれた。

 まず、粘土で作りたいお面の型を作る。

 型ができたらラップで覆って、土台にする。

 そうしたら、あらかじめ千切っておいた新聞紙を水でぬらして、土台に張り付けていく。

 ある程度まで貼り付けたら、今度は水で溶いたのりを新聞紙に塗って、こちらもあらかじめ千切っておいた半紙を張っていく。

 これを繰り返して、お面の原型ができる。

 あとは外で表面を乾かして、中の新聞紙が乾ききらないうちに土台から外す。

 外したら裏面もノリと半紙を塗り重ね、また乾かして形は完成。

 最後に目ののぞき穴をあけ、色を塗ったら、張り子面の出来上がり、というわけだ。

「意外と簡単だね」

「でも、やってみれば分かりますけれど、とても根気が要りますよ。特に紙を塗り重ねるのは」

 いたずらっぽく言う砂乃子さんに、理歩はなんのそのと胸を張った。

 今、理歩は楽しみで仕方がない。

 だから一度初めてしまえば、絶対やり切ることができると確信していた。

「じゃあ、まずは図案決めです。作りたいお面の想像図、描いてきましたか?」

 理歩は、ポケットに折りたたんでおいた紙を差し出した。

 そこにはいくつかのお面の絵が描かれている。

 実は、昨日お茶を飲んでいる間に、砂乃子さんが自分のお面コレクションを理歩に見せてくれていた。

 お面はたくさんあった。

 犬や、ウサギ、鬼や天狗といった、妖怪のものまで。

 全部がとても複雑な作りで、今にも動き出しそうなほど精巧にできていた。

 それを参考に、作りたい面の絵を用意しておくよう言われていたのだ。

「理歩さんは絵が上手ですね。とてもいい図案です」

 紙をながめて、砂乃子さんがほめてくれる。

「ありがとうございます。これでも美術は得意なんです。でも、考えだしたらまとまんなくて……どれがいいと思いますか?」

「う~ん。どれも素敵ですけど、私はこれがおすすめですね」

 砂乃子さんが指さしたのは、猫をかたどったお面だった。

 祖母の家を時々通る野良猫を思い浮かべて描いたものだ。

「実は、昨日あれから考えていたんですが、最初から顔全部をおおうお面は難しいと思うんです。だからほら、こういった……」

 砂乃子さんは後ろに転がっていた、一つのお面を取り出した。

 それは、砂乃子さんが被っているお面の上半分ほどしかない、目元だけの狐のお面だった。

「私は『半面はんめん』と勝手に呼んでいるんですけれど、これなら小さくてすぐできるし、口のところが開いているから、息がしやすいんです」

 こっちを被ってみて、ともう一つ、ちゃんと口元まであるウサギの面を差し出された。

 顔につけて、息をしてみる。

 確かに中で息がこもって、ちょっと息苦しい。

「ホントだ。ちょっと苦しいですね」

「そうなんです。だからほら、私も長く被っておくお面には、口元にも穴を空けているんです」

 言われてみれば、今日の砂乃子さんの鳥のお面は口を開けたような顔つきで、奥にちょっと白い肌が見えている。

「それに口元が開いていると声も良く通って、話すのに不便がありません。この猫の面なら、上半分で作っても、きっとそれらしくできると思います」

 理歩は砂乃子さんの勧め通りにすることに決めた。

 作るのは、三毛猫の半面だ。

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