第2話 小さな水鉢の中で閉じこもっていたかった。②
祖母の家には、敷地内にそれなりの広さの畑がある。
午前の水やりがまだだと言うので、理歩は軽くその役を買って出た。
祖母の家は娯楽が少ない。
理歩はゲームもやらないし、持ってきた本は夜寝る前がメインの読書時間だ。
それに、日中はなんとなく、祖母の手伝いをしていたい。
そう思っての事だった。
「先に草をむしってからね」
あとから出てきた祖母に言われ、にぎっていたホースを手放す。
二人して育ちざかりの野菜を避けながら、雑草の芽を抜く。
出てきたばかりの芽は小さくて、時々見落としてしまったりする。
「むしったら、こっちのカゴに集めてね。後で裏に捨てるから」
「分かった」
それなりに広いと言っても、二人ですればすぐ終わってしまう。
土にまみれた手を洗い、おしまいにうねの外からホースで水をたっぷりやると、青々とした若葉たちはそれを喜ぶように葉の上できらきらした雫を転がした。
「もうそろそろ、いいよ。あんまりやり過ぎてもいけないからね」
首に巻いたタオルを取って言う祖母に「はーい」と返して、理歩は蛇口をひねった。
ホースをしまうと、縁側で祖母が手招きしている。
近づいて横に座れば、祖母が好きな歌舞伎揚げを差し出され、理歩は苦笑した。
祖母は理歩が何かすると、ごほうびをあげたがるのだ。
まだ腹には朝食が残っている感じがするが、素直に受け取って袋を開けた。
「ありがとうね。理歩がいると、なんでもすぐ終わって助かるよ」
うん、いいよ。そう返して、理歩は次に来る言葉を頭に思い浮かべた。――――『でも』
「でも、あんまり家の事ばかり手伝わなくても、休みくらい、遊びに行っていいんだよ」
ドンピシャリ。
何となく自分に嫌気がさして、理歩は笑った。
「いいんだよー。どうせ遊ぶ約束もないし、おばあちゃん家に来ているのが遊びに来てるようなもんだし」
そう言って、祖母をかわす。
正直な本音だ。
ここ以外に、行きたいところなんてない。
ここでいい、確かにそう思っている。
ところが祖母は、そこが不満らしい。
理歩の本音を、遠慮だと疑ってかかっている。
本当は、やりたいことを我慢しているんじゃないか。
そう、案じてくれているのだ。
祖母は、理歩が母親とうまくいっていないことを知っている。
離婚の事があって以来、すれ違っているだろうことを。
だから、自分くらいは理歩を甘やかしてやりたいと思っている。
それが理歩の分析だ。
理歩だって、祖母の厚意をありがたいと思う。
でもこれだって『すれ違い』だと、いつもちょっとしため息をつきたくなる。
思いやりが行き過ぎるからできる、すれ違い。
母親とのすれ違いとは、息苦しくない分大違いだけれど。
でも、優しさから来るからこそ、突っぱねたりできない、ちょっと繊細なもの。
理歩はいつも通り、心底思っている風に――――ちょっとばかり大げさに伸びをして、あお向けになってみせた。
「おばーちゃん家が、一番だよーぅ。ご飯はおいしいし、寝っ転がってても怒られないし、こんなぜいたく無いって」
にしし。
いたずらっぽく笑いかけると、祖母はようやくほっとした顔をした。
そうそう、それでいて。 それが一番、私は嬉しい。
理歩は何とかやり過ごしたという小さな緊張感を感じつつ、歌舞伎揚げを頬張った。
やれやれ、今日も切り抜けた。 そんな風に落ち着きながら。
ただ、今日はいつもと少し違った。
いつもなら、これで週末くり返されるお決まりのやり取りはおしまい。
そのはずだったのだが、
「そうだ!」
何か思いついたような祖母のひと声に、理歩はぴんっと眉をはね上げた。
なんだ、なんだ。
頭の奥で、信号が点滅するみたいな感覚がする。
何かくるんだ、きっと。
それを知らせるようにパッパッとまたたく。
「理歩に、お願いしようと思ってたことがあったんだった」
楽しそうに言って、祖母が玄関の方へ消える。
その足取りが何だか楽しそうで、理歩は信号の周りに、『はてな』が舞うのを感じた。
帰って来た祖母の手には、一枚の板――――回覧板が握られていた。
それを「はい」と渡されて、理歩は首を傾げる。
なんだ、回覧板か。
祖母の様子から、何か予想もしないことを思いついたのだと直感したのだけれど。
単にこの用を頼みたかっただけらしい。
胸をなでおろした理歩だが、
「それを、回してきてほしいの。それでね、」
やはり直感はハズレではなかったのだ。
「そこの住所の人……『
「え?!」
久しぶりに、心底驚いた自分の声を聴いたかもしれない。
ちゃんと呼び鈴で呼んで、渡してきてね。 きっと理歩も、面白い人だと思うはずだから。
そう言ってニコニコとする祖母の頼みを、理歩に断れようか。
すとん。
糸が切れたように首を落として、祖母の名字の次にある『卯月』という名を確認する。
この辺りではとんと見かけない、珍しい名だ。
この人に、会う? 初対面の人に?
祖母は相変わらず笑顔で、理歩はそんな上機嫌な顔を前にして、首を横には…………振れなかった。
かくして週末の攻防は、奇策を投げ込んできた祖母の勝利に終わったのである。
その家は、祖母の家の前にある道を山の方へずっと行った、どん詰まりにあった。
インターホンを押して、挨拶して、渡して、また挨拶して、帰る。 それだけ。
坂道をずっと登りながら、理歩はそればっかりを繰り返していた。
卯月
祖母にとっては知り合いだが、理歩にとっては全く初めて会う人だ。
理歩は身ぶるいした。
冗談じゃなく、逃げて帰りたかった。
正直に言えば、初対面の人に愛想よくすることは、理歩にとって難しい事じゃない。
問題は、祖母がその卯月さんという人と理歩を『仲良くさせたい』と思っていることだ。 本当に冗談じゃない。
理歩は『人』というのが、苦手だ。
正確には、人の発する『感情の波』が嫌いだった。
感情の波と言うのは、人の感情によって発せられる空気、雰囲気のようなものをイメージしてもらえば分かりやすいと思う。
人はリラックスしていれば心地いいさざ波のような空気を発する。
だが、ひどく怒ったり、誰かをうらんだりなんかすると、周りの人間を圧迫するトゲトゲしい波や、息が詰まったり、気分が悪くなるような重たい波をぶつけてくる。
それらは言葉や態度となって、分かりやすく周りから見えることもある。
多くの人は、そういった見えやすいもので相手を判断する。
でも一部の人間――――理歩もだが――――には、特に人の感情を感じ取りやすい者がいるらしい。 と、理歩は経験上考えていた。
そうして、そんな人間の中でも理歩が際立っていたのは、嬉しいや楽しいといった『心地いいはず』の感情でさえも、重荷に感じてしまうという事だった。
だから、出会うのがどんな相手でも――――例え優しい人間でも、ひどく緊張感がともなって、気疲れしてしまうのである。
相手が、感情を持つ生き物だから。 人間だから。
そうこうしている間に、理歩の足は立ち止まってしまった。
目的の家にたどり着いたのだ。
理歩は重たい気持ちで、敷地の先にある家を見た。
少し古めな平屋の木造家屋だ。
庭先には、紫陽花らしき葉が生い茂っている。 手入れはいいようだ。
ちらりと表札を見る。 『卯月』。
間違いない、この家だ。
ぎゅうと眉間にしわを寄せて、理歩は覚悟を決めた。
渡すだけ、渡すだけ。
もし祖母に「どうだった」と聞かれたら、当り障りのない会話でかわせばいいのだ。
タイル敷きの玄関先に立って、呼び鈴を押した。
やっぱり、ちょっと古いタイプの音が鳴る。
返事はすぐに無かった。
祖母は居ると言っていたが、留守だろうか。
助かった。
そう思った理歩は、喜び勇んで来た道を引き返し始めた。
相手は留守だ、回覧板は郵便受けにでも放り込んでおけばいい。
そう考えてにんまりした時。
ドタバタ、ドン!
騒々しい物音が、家の奥から近づいて来るのに気が付いた。
ダダダダダッ
廊下を走る音だろうか。 足音が迫りくる。
その騒がしさに、理歩はぎょっと玄関戸を見つめた。
扉が、バンと開く。
「すみません! すみません! お待たせしました!」
奥にいて、すぐ出て来れなくって。
足音の主は顔を出した途端、平謝りで言った。
「……あれ?」
若い女の声だった。 きっと理歩よりは大人の女性。
着ている
「えーと、ウチに用事、ですよね?」
でも、それ以上が分からなかった。
声以外、まったく読めなかったのだ。
おずおずといった感じで近寄ってくるその人を、目を真ん丸にして見る。
「あのう、ご用事は……」
だってその顔は。
感情を一番表す場所には、
「えっと?」
『猿の顔をしたお面』が被さっていたのだ。
「~~~~!」
理歩は声を無くして叫び、びくっ! と硬直した。
回覧板が、すこーんと音を立ててすべり落ちる。
面を被った女性も、共鳴したようにびくっ! と、固まった。
そのまま庭先で二人、獣ににらまれたように立ちすくむ、が、
「あああ、あの! ごめんなさい、初めての方ですよね?! これですよね? これが驚かせましたよね?」
と言って、顔面不明の女性がお面を指さし、謝ってくる。
「これは、あの、訳あって被っているのですが! 驚かそうとかいう思惑は無くって」
そのまま、警戒する動物に近づいてくるみたいにじりじりと間合いを詰められ、理歩はまたしてもびくっ! と肩をゆらした。
まず、面を取るという選択肢は?! 内心叫びながら、手を前に構えてみる。
「あああ、そう警戒なさらず! 私は卯月 砂乃子と申す者です!」
「ここで自己紹介ですか?!」
さすがに叫んだ。
砂乃子と名乗った女性は、はっとしたような動作をして、今度はなんだか照れたように頭をかく。
「いやぁ、まずは名乗らねばと慌ててしまいまして……」
照れてる? 照れているのか? いまいち分からん。
理歩は警戒を続けつつ、女性をうかがった。
「あの、卯月さん、ですか?」
「はい! 卯月 砂乃子です!」
声の感じからして、張り切っているのだろう。
よろしくどうぞ、と頭を下げられ、理歩はそろりそろりと取り落とした回覧板を拾い上げた。
「……
「ああ! 音内さんのご身内さんですか?」
テンポが速い。
理歩は勢いに押されながらも、じりじりと女性に近づく。
明らかに怪しさ満点の人物だし、ツッコミどころが満載だ。
しかし、本来の目的である回覧板を渡さねば、理歩だって帰れないのである。
関わり合いになりたくないと叫ぶ本音を押さえつけて、握った回覧板を女性へ伸ばした。
というか、祖母の『面白い』はこういう事だったのか?
こんな得体の知れない人と仲良くなれって言ったのか?
おばあちゃん、正気?
理歩は心の中で遠い目をした。
「あの、回覧板。回って来てて」
ちょっとでも変な行動を見せたら、ダッシュで逃げる。
固く決意しながら言うと、女性は跳ねるように手をさしだした。
「ああ! それはそれは、わざわざ、すみません」
どうも、ありがとう。
その言葉は、本当に丁寧に感謝の感情を乗せられた言葉だった。
一言一言を慎重に発して、砂乃子さんは板を受け取る。
そのとき理歩は、彼女からとても柔らかい雰囲気がふわっと立ち上ったのを感じた。
理歩を誘う、ミモザ色の綿毛のような気配。
今まで見たことのない、春の息吹を吹き寄せたような、すっと吸い込みたくなるような空気。
猿のお面の目の部分に開いた、二つの小さなのぞき穴。
その暗い中にぼんやり見えた目が、とても、とても、優しく
そして次の瞬間にはぐっと、その目に引き込まれていく感覚。
「? あの、」
反応がない理歩を心配したように、砂乃子さんが首を傾げる。
理歩ははっとして我に返った。
そうして同時に、『つかまった』と観念する声を、自分の中から聞いた。
言葉が無かった。 でも確信はしていた。 このひと。
この人は、自分にとって『特別』になる。
黙って見上げるばかりの理歩をいよいよ案じて、砂乃子さんはじりじりと身を引いた。
「ごめんなさい。やっぱり驚かせて、変な人だと思いましたよね。怖がらせるつもりはなかったの、」
「怖くないです」
多分、ごめんなさいと続くはずだった声をさえぎって、理歩ははじけるように否定した。
「ちょっと驚いただけ。変だなって、思ったけど……もう平気です」
だから行かないで。
引きとめるように、理歩は砂乃子さんの作務衣のそでを取った。
じっと、面の奥の目を見る。
目は小さく揺れると、おぼつかなげに問いかけてきた。
「本当……?」
大人の人だと思うのに、小さい子供のような声だった。
それになんだかほっとして、理歩は精一杯安心させるように笑う。
「本当です。こっちこそ、失礼な態度でごめんなさい」
伝われ、いや、この人になら、伝わる。 ――――この人は、私と『同類』だ。
砂乃子さんは理歩の目を真っ直ぐに見て、ぱっと目を大きくした。
そうしてちょっとふるえたような声で、
「いいのよ、ありがとう」
そう言った。
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