第19話 オカルティズムとリアリズム

 独歩たち一行は井戸を離れ、一度和菓子屋の方面に戻ることにした。

 和菓子屋の女将が渦中の人である以上、『怪奇』も和菓子屋に関わる人物に憑いているであろう、という推測を立てたのだ。休業中であるし、事件のこともあるから店主と会うことは叶うまい。しかし、近くにいれば誰かしらの霊感が当たるかもしれない、というわけである。

「野次馬が多すぎて、匂いがぐちゃぐちゃなんだよなぁ」

 花袋がぼやく。彼の鼻が効かないのであれば、藤村の気配をたどる霊感も期待できそうにない。独歩と鏡花に至っては、見えるところに『怪奇』が出てこなければ判別のしようもない。

「ここにハルちゃんがいればな……。いや、ハルちゃんでも、この野次馬の群れの中では難しいか」

「ハルちゃんって、誰のことだい」

 秋聲が首を傾げる。独歩の家によく来る花袋や、以前の事件で顔を合わせたことがある藤村とは違い、秋聲はハルと会う機会などなかったのだ。疑問に思うのは当然だ。

「ハルちゃんは、僕が住んでいる長屋の娘さんだ。少し変わった霊感の持ち主でね。『怪奇』の音が聞こえるんだよ。だから、たまに仕事を手伝ってくれる」

「その方は呼ばなかったのですね」

 鏡花の言葉に、独歩は肩をすくめながら頷いた。

「まだ十六歳だよ。女の子を、殺人鬼の話に付き合わせるのは、さすがにね」

 同年代でも、ウメ子なら社員であるし、嫌なことは嫌という性格だから良い。しかし、ハルはどちらかというと気を使って、少し怖いと思うようなことでも協力してくれようとする娘だ。二回も『怪奇』の事件に巻き込んだ手前、独歩も少しは反省したのだった。

 もっとも、そんな懸念をよそに、ハルは國男に誘われて神楽坂に向かっていたわけであるが、この時点で独歩が知る由もなかった。

「いや、なかなか難しいね。これだけ人がいる中から、『怪奇』の原因だけ探すというのは」

 井戸周りにたまっていても、邪魔になるだけだ。五人でぞろぞろ移動を始めたところで、少女とすれ違った。見知った顔だ。

「鈴子さん!」

 鏡花が声をかける。少女が顔をあげる。先日、和菓子屋の女将に怒鳴りつけられていた娘だった。

 歳の頃は、十四か十五くらいであろうか。年季奉公をするにはやや、年嵩である。

「店の方が大変な騒ぎだったので、心配していたんですよ」

 鏡花が優しく声をかけたので、硬い表情だった彼女もやや警戒心を解いたようだった。井戸に水を汲みに行く最中だってのだろう。手桶を持ったまま、鈴子は頭を垂れた。

「泉先生、お世話になっております」

「私がお世話になっているわけではありませんよ。顔をあげてください」

「そうだね。和菓子屋のお世話になっているのは尾崎先生だもの」

「秋聲!」

 鏡花が嗜めるのを「はいはい」と聞き流して、秋聲は鈴子に手巾を渡した。

「君、誰かにぶたれたでしょう。目尻が腫れてる。まぶたまで腫れたら目が悪くなるよ。井戸に行くなら、これでついでに冷やすといい」

 確かに、前髪を下ろしているからわかりづらいが、彼女の目尻は不自然に赤くなっていた、時間が経ったら紫色に変わるかもしれない。

(つまり、彼女をぶったのは、女将ではなく他の店の誰かか)

 独歩は手巾を受け取る鈴子を観察しながら、頭の端で別のことを考えていた。女将が彼女に当たっている現場は見ていた。しかし、殴打されたアザが変色する前ということは、女将の他にも彼女に暴力を振るうような人間が店にいることになる。

 女将が実は店内に帰っていた、ということもなかろう。それならばすぐにでも店を開けるはずだ。女将が事件に巻き込まれて行方不明だなんて、店にとっては百害あって一利もない話だ。鏡花の話を聞く分には、少なくとも使用人への昔から虐待があったとは思えない。常態化したのは比較的最近のことだろう。鈴子のみに当たっているのか、他の使用人にもそうなのかは推測材料がない。

(使用人虐待が『怪奇』の影響による……というのは、少々発想が飛躍しすぎかな)

 気の良い人間だったのに、ある日突然変貌する。それが『怪奇』のためとみるか、それこそが『怪奇』の引き金とみるか。鈴子に聞いたところで、彼女には何が『怪奇』だとわからないのであろうし、不安を煽るのは良くない。単純に、店の人間の気持ちが荒れているだけ、という可能性だってあるのだ。

「ありがとうございます。私なら大丈夫です。最近ちょっと……私が、ぼうっとしていることが多いのがいけないんです。水の汲み置きも忘れていたし。だから、ご心配なさらないでください」

 鈴子は早口にそうまくしたてると、そそくさと井戸に駆けていった。独歩は花袋と藤村に目をやる。彼らは揃って首を横に振った。隣では鏡花が眼鏡を外して、またかけていたが、やはりその後には首を横に振った。

 鈴子に『怪奇』の気配がないなら、店の人間ではないのか。それとも店の中でも、使用人と直接やりとりをしない人間が『怪奇』の元なのか。

 井戸へと駆けていった鈴子の背が遠くなった、その時だった。

「やっと見つけたぞ!」

 知った声に振り返ってみれば、何故か國男とハルがそこに立っていた。

「國男、ハルちゃん、どうしてここに?」

「それは……ええっと」

 バツが悪そうな顔をするハルとは裏腹に、國男は帽子を上げてニヤリと笑った。

「そりゃあな、オカルト話に仲間外れはないだろってことでな」

 つまり、除け者にされたことに腹を立てて、ハルを巻き込んで神田坂までやってきた、ということらしい。

「すみません、独歩さん。ご迷惑でしたか?」

「いや、迷惑ではないが……」

 散々世話になっているハルにそう言われてしまっては、独歩としても迷惑と言うわけにはいかない。

 果たして國男がそこまで計画していたのかどうか。うろんな目を向ける一行に、國男は涼しげな顔で口笛を吹いて見せた。



 来てしまったものを、追い返すわけにもいかない。

 ひとまず、一行は個室のある料亭に場所を移すことにした。七人もの大所帯で、道端にたむろしては邪魔になるからだ。落ち着いて話をすることもできないだろう。

 幸いにして、部屋は空いていた。急な来店であったので料理は簡単なもので、時間がかかっても良いと伝えて、七人は卓を囲むことになった。

「まさか追いかけてくるなんて思わなかったよ。ハルちゃんまで巻き込んで」

「霊感がないといっても、この手の話は俺が一番詳しいんだってこと、忘れないでほしいものだな」

 國男は全く反省した様子はなく、ハルだけが恐縮している。

「ハルちゃんとここにくるまでの間に、色々噂話は聞いたぜ。和菓子屋の女将が謎の失踪、帝都に青ゲット来たり、って大騒ぎさ」

 この事件は帝都における青ゲット事件である。独歩が最初に聞いたときは、ごく一部の人間が面白がって結びつけているような体であった。それが、わずかな時間でここまで伝播している。

 人が多いから伝播の速度が早いのかといえば、必ずしもそうではない。人が多ければ多いほど、個々の繋がりは薄くなる。よって噂の初速こそ広がれど、噂を信じる者の割合は減る。噂話の伝達は、相手との親密度が影響するからだ。

 荒唐無稽な内容であるほど、噂の伝播には歯止めがかかる。青ゲット事件がついこの間起こったというならともかく、かなり前、それも福井で起こった事件と今日の神楽坂の事件がすぐに結びつくのは、奇妙なことに思えた。

「置いていった詫びに、素直に聞こう。國男はこの『帝都の青ゲット』についてどう思う?」

 独歩が率直に尋ねると、待っていましたといわんばかりに國男は目を輝かせた。噂を聞いたその時から、彼の脳内には様々な推測が駆け巡っていたに違いない。

「多分だけどな。わざわざ青ゲットのせいだって噂を流したヤツがいると思うぜ。そうじゃなければ、こんなに早く突飛な仮説が出回るはずがない。女将の事件を、わけのわからない殺人鬼のせいにした方が、都合の良いヤツがいるんだろうな」

 國男の説明で、独歩もだいぶ腑に落ちた気持ちになった。たとえ殺人鬼がいてもいなくても、女将のことで嗅ぎ回られると面倒だと感じている人間がいる。だから殺人鬼がいるという噂を流して、女将に対する怨恨などといった線から目を逸らしたい。

 オカルトに類を見ないほどの興味を持つ國男が、あえてオカルトではないと判断したのは、明らかな人為的不自然さにある。

「不可解なことにはかわりがないし、『怪奇』が絡んでいないとは言い切れない。けれど、噂を回したヤツは『怪奇』とは関係ない。俺はそう見るね」

 國男のオカルト知識は、単純な好奇心だけによるものではない。彼は魑魅魍魎の噂話を、その土地に実際に足を運んで聞き込みをし、実地で噂の伝播を検証する。もはや学問といっても差し支えない、本気の研究なのだ。だからこそ、独歩は霊感なしでも彼の意見には一定の信用性があると考えている。

 彼は無類のオカルト好きだからこそ、オカルトの文脈で語るべきかどうかをシビアに見極める。

「君の言いたいことはわかるよ。そう、現時点では青ゲットに結びつけるのは、発想の飛躍がすぎるんだ」

 現時点では、青ゲットの話に持ち込むにはこじつけがすぎるのは事実。

「噂ってのは人の好奇心に合わせて変化する。神楽坂は商売人が多い。噂には敏感だ。それを逆手に取って、噂で事件の真実から目をそらす。独歩、お前だって覚えがあるだろ?」

 國男の言う通り、独歩はかつて人の噂を操作することで事件の隠蔽を図ったことがある。

 佐々城邸での怪奇事件の際、『怪奇』の発生原因である佐々城信子を帝都から穏便に逃すため、あえて彼女の恋愛事件をスキャンダルとして書き立てた。

 正体のわからない『怪奇』よりも、実態の明らかである恋愛スキャンダルの方が、噂としては「強い」のだ。

「この事件の真相はともかくとしてだ、店でのいざこざ、人間関係、そういったものよりも、殺人鬼がいると言った方が話題になる」

 今回の件では、佐々城家の事件とは逆に、リアルよりもオカルトの方が「強い」話題性を持つ。

 誰だって、殺人事件の当事者にはなりたくない。身近にありそうな理由で命を奪わるより、自分とはかけ離れた非日常的動機で殺されている方が、安心できるからだ。

「青ゲット事件を模しているなら、無差別殺人ではないから、なおさら他人事にできる。狙われるとしても、件の和菓子屋かその関係者だろうと思う。青ゲットと紐づけて、大衆はそう考えて安心する。そして安心して非日常に乗っかるわけだ」

 殺人でも自殺でも、野次馬はあくまで他人事として事件を娯楽のように消費する。その娯楽は、派手で見栄えがするほど良い。

 痴情のもつれ、怨恨の殺人よりも、正体のわからない殺人鬼の方が「面白い」というわけだ。自分が標的になりそうにないなら、なおのこと興味だけで暴走できる。

「やれやれ、いつの世も人の心は厄介だ」

 大衆が騒げば騒ぐほど、事件の真相は藪の中。殺人鬼の噂は、大衆の興味を誘う題材としては極めて「強い」のだ。この帝都青ゲットの噂を流したのが犯人の故意であるなら、だいぶ計算高い。警察はさぞやりにくいだろう。

「なぁ、独歩。実際のところ、和菓子屋の女将って本当に橋で殺されたか、自殺するかしたと思うか?」

 花袋がお茶をすすりながら問う。藤村は頷いて、続けた。

「僕もその点はだいぶ疑問かな。神楽坂には花街もある。夜も人がそこそこいる場所で、橋の上での異変に誰も気がつかないなんてこと、あると思う?」

 すでに議論されている通り、神楽坂は人が多い街だ。見晴らしのいい橋の上で犯行を行い、かつ気づかれないというのは難しい。そこに何らかの『怪奇』が働いていたとしてもだ。『怪奇』が目撃者の目くらましをするような、犯人にとって都合のいいものなら別であるが。

「もしかすると、女将さんは橋の上で殺されたわけではないのかもしれませんね。血を撒くのも、着物の切れ端を残すのも、後からできますから。この辺の詳細は、警察の調査を待つしかありませんが」

 鏡花の意見に、それぞれが思案顔で頷いた。少なくとも現状確認できた範囲では、現場に争った形跡があるという話はなかった。だからこそ、警察は自殺の線も含めたのだろう。自殺ならば争いの跡がないのは当然である。

「女将の遺体が出ていない以上、すべては推測だな。さすがに遺体が出れば、自殺か他殺かはわかるだろう」

 花袋が妙な匂いを嗅いだことは確かだ。全く『怪奇』に関係ないとはいえない。

「昔の事件で思い出した。『霊穴』は夜にならないと、なかなか霊感に反応しないことがあるんだったな」

 独歩は佐々城家の時のことを思い出した。あの時だって、霊感もちが揃っていた。その上で、夜になって『怪奇』が実際に起きるまで、信子に『霊穴』が憑きかけていることに誰も気が付かなかった。

 和菓子屋の女将の件が、『怪奇』がらみであるとして、夜だけにしか強くならない性質を持つことは、十分に考えられる。

 夜の方が湿気は溜まりやすく、当然ながら辺りは暗く、陰鬱な気持ちにもなりやすい。『怪奇』が憑きやすくなる、条件がそろう。

「ねえ、その『怪奇』やら『霊穴』やらが、夜にだけ出てくるとして、花袋君が嗅いだ妙な匂いの出元というのは、例の和菓子屋の関係者とみていいのかな? たとえば、先刻会った鈴子さんとか」

 藤村が口を挟むと、鏡花がやや前のめりになって反論をした。

「そんなはずはありません! 鈴子さんは、礼儀正しい娘ですよ。弟さんが亡くなった後も、冷遇に文句を言わずに働いていらっしゃいます!」

「でも、『怪奇』は人柄を見てはくれないでしょう。むしうろ、真面目な性格の人ほど、気に病むから『怪奇』に好かれやすいかもしれない」

 静かに、淡々と。藤村は、事実のみを述べる。

 それが決して間違いではないことを、鏡花も理解してはいるのだろう。続く言葉をぐっとこらえて、彼は正座しなおした。足を決して崩そうとしないあたりに、彼の神経質な性格が透けて見える。

「いずれにしても、僕と鏡花は先生に黙って、勝手に夜を空けることはできないから。夜までは付き合えないよ」

 秋聲が鏡花をなだめるようにそう言い添えて、立ち上がった。

「君が鈴子さんに肩入れしたい気持ち、わからないでもないよ。僕だって君と同郷だし、先生のお使いで行くことが多い店だから、彼女が懸命に働くところだって見ている。だからこそさ、『怪奇』で怖い目にあわないかどうか、気にしてあげたら?」

 彼の言葉に、納得はしたのだろう。鏡花は深く息をつくと、気を取り直したかのように立ち上がった。

「そうですね。冷静ではありませんでした。私と秋聲は、尾崎先生のところに戻らなければ。もし夜の神楽坂にまたいらっしゃるなら、連絡をください」

 鏡花と秋聲は、揃って先に出て行った。このままこの場にい続けても、気まずいことになっていただろう。一度、頭の中を整理したかったのかもしれない。

「あの、独歩さん。もし、『怪奇』の調査に行かれるのでしたら、私もご一緒していいですか?」

 今まで、大人しく話を聞いているだけだったハルが、不意にそんなことを言いだした。

「いやいや、殺人事件が起こっているかもしれないんだ。それに、夜に若い娘を連れ回すわけにはいかないよ」

「でも、独歩さんたちが一緒ですし」

「それはそうだが……」

 夜に一緒に出歩いても大丈夫だと思う程度に信用されているのは、ありがたい。大家の娘で、仕事でも世話になっているハルの信頼を失って、いいことなんてひとつもないのだ。それだけに、危ない目にあわせたくないという思いも強い。

「大丈夫です。というか、私は独歩さんがいつかとんでもなく危ない橋を渡るんじゃないかって、心配で……」

「あ、そっちか」

 心配されているのは自分の方だった。

 そして、花袋も國男も、藤村でさえも、ハルの心配事を聞いて「なるほど」という顔になっていることに、独歩は解せない気持ちになっったのだった。



 鈴子はぼんやりと、喧騒を聞いていた。

 誰かが言いあいをしている。

 その片方は、この和菓子屋の女中、とし子のものだとわかっていた。とし子は女将や若旦那の世話をしていた、上女中だ。家事や店の雑事を手伝う下女中の鈴子とは、立場が違う。

 弟が生きていた頃は、彼女も鈴子に優しくしてくれた。

 食い扶持を減らすために奉公に出された姉弟を、憐れんで良くしてくれたのだ。

 それが、今では女将よりも当たりが強いくらいだ。若旦那が、下女中である自分に声をかけるのが、気に入らないのだという。

 鈴子は、若旦那に目をかけられたかったわけではない。ただ、自分の居場所を失いたくないだけだ。

 弟の正吉が病気にならなければ、全てが上手く回っていた気がする。弟がいなくなっただけで、自分にはこんなにも居場所がない。

「お鈴! お鈴、ちょっと来なさい!」

 とし子が呼ぶ声。

「ああ、やだな……正吉、私もそっちに行きたいよ」

 言葉にしたら、涙がこぼれた。


 その翌日、牛込橋のたもとで、若い男の刺殺体が発見された。男の遺体の近くには、青ゲットの切れ端があったと新聞が報じた。

 ――刺殺された男は、女将が失踪している和菓子屋の、若旦那であった。

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