第22話 殺人鬼は此処にいない

「独歩さん、一体何が起きているんです?」

 呆然と立ち尽くしている独歩に、ハルがおそるおそる問いかけた。

「いや……」

 独歩は、言葉を濁す。

 一瞬の出来事だった。たしかに菓子屋の屋根の上に、黒い霧のような気配が立ち込めていた。それは独歩が目にすると同時に、逃げるように消え去ってしまった。

 最悪の考えが頭の中にこびりついていた。それは、まさにあの瞬間、誰かが菓子屋で死んだのではないかという推測だ。だが、黒い陰りが見えたのは本当に一瞬だった。

「ハルちゃん、まだ何か聞こえるか?」

「いえ……今は」

「そうか……」

『怪奇』は誰にでも見えたり、聞こえたりするものではない。それは霊感もちである独歩とハルが誰よりも知っていることだ。

 そして今も菓子屋に群がる野次馬たちは、何の異変も感じていないらしい。音や影を気にする者はいないようだ。

「一度戻ろう」

「でも、独歩さん」

「僕らが二人で勝手に乗り込んでも仕方がないさ」

 岩の坂の時とは違い、神楽坂は繁華街である。独歩は、不幸があって閉店中の店に、野次馬をかき分けてずかずか上がり込むほどの無礼者ではな。

「ほんの一瞬だけど、和菓子屋の上部に黒い影が落ちていた。僕が気づいた途端に、霧が晴れるみたいに消えてしまった。そして今は、僕の目にもハルちゃんの耳にももう反応しなくなっている。この店にある『怪奇』というのは、ずいぶん不安定な存在のようだね」

 思えば花袋の時だってそうだった。匂いの出元を辿って井戸までいったのに、結局そこには『怪奇』はもちろん、『霊穴』も存在しなかったのだ。

「待てよ、井戸……?」

 独歩は踵を返して、共用の井戸へと向かう。ハルは少しだけ迷ったそぶりを見せたが、黙って独歩についてきた。

「花袋は、菓子屋ではなく井戸に向かったんだ。あの時、『怪奇』の気配は店にはなかった」

 これまでの事件によって、『霊穴』や『怪奇』には一定の性質があることが推測できるようになった。『霊穴』は暗くジメジメとした場所に発生しやすい。井戸ならその条件を満たしている。花袋が井戸を嗅ぎ当てた時には、人がいたから井戸の中まで覗き込んだりはしなかったが、それが失敗だった。

 共用の井戸であるから、当然和菓子屋の人間以外も使う。逆に言えば、和菓子屋以外の人間も使うからこそ、近隣に広く弱く『怪奇』の芽が蔓延したのではないだろうか。

 ──状況から考えると不自然なほどに広まった『帝都の青ゲット』の噂が、『怪奇』の作用でないとどうして言えるだろう。

 独歩とハルは、共用の井戸に足を運んだ。まるで示し合わせたかのように、誰も使っている人間がいなかった。

 独歩は息をのんだ。そして、覚悟を決めて井戸の底を覗き込んだ。

 そこには──。



 日が落ちると、神楽坂の喧騒もややおさまったように思えた。

 鏡花と秋聲も戻っている。人混みをかき分けて手紙を渡してきた様子である。

 独歩が何も言わないので、正直な性分のハルは何やらそわそわとしていたが、独歩としても何をどう説明すればいいのかわからない、というのが実情である。

「花袋と藤村を待って夜が更けるばかりではらちがあかない。菓子屋周りの人ははけただろうから、行ってみようじゃあないか」

「いいですね。そうしましょう!」

 独歩の提案に、鏡花はやや食い気味に賛成した。よほど鈴子のことが心配であったようだ。まっすぐな御仁である。秋聲などは「他所に口出ししていいのかなあ」と隣でぼやいているのだが。

 ハルが遠慮げにちらりと視線を寄越すのを、独歩は片手をあげて制した。話すとしたら今しかあるまい。

「行く前に一つ言っておきたいことがある。『怪奇』の発生源である『霊穴』のことだ」

 神楽坂の『怪奇』の正体はいまだ判然としない。広く薄く流布した『青ゲット』の噂話は、『怪奇』と呼ぶにはあまりにも弱い。そして菓子屋で起きた連続殺人も、個々の事件で見れば犯行動機がある人間が存在している。『怪奇』の仕業があると考えるには、筋が通り過ぎていると言える。

「この事件に直接関係しているかはわからないけれど、『怪奇』の発生元の『霊穴』はあの菓子屋も使っている共用井戸の中だ。それは確実と見ていい」

「確認されたのですか?」

 鏡花はうろんな眼差しをむけてきたが、独歩は困ったように肩を竦めて見せた。

「まあね。しかし、泉君は『視える』方だから、確認はおすすめしないよ。もう夜だしね」

 霊感が無ければ何も見えないとはいえ、近隣の人々が使っている水場に『霊穴』があるという事実が広まるのはよくない。

「恐らく、あの『霊穴』から発生した『怪奇』というのは、あの井戸を使った人々を中心にして広く浅く人々の心に根付くようなものだったんだ」

 暗くジメジメした、陰気な場所。人々が集まる場所だから共用井戸にできるよう印象がなかっただけで、『霊穴』の発生条件としては、井戸は適している。そして共用井戸だけに、拡散もしやすい。井戸端ではそこを利用する人間が様々な憶測を語る。人々の好奇心が負の方向に傾くことは、そこが『霊穴』ではなくてもよくあることだ。

「状況から考えれば、福井と帝都の『青ゲット』を関連づけるには、いささか無理がある。細かいところで一致していても、噂が出るほど類似性があるとは思えない」

 鈴子が語った『青ゲット』の噂が、『霊穴』の井戸端を中心に人々に『怪奇』の作用と思しき負の感情を植え付けた。それが殺人事件と結びついた。そう考える方が自然なのだ。

「神楽坂に『青ゲット』の噂を流布した大元が鈴子さんなら、鈴子さんが離れれば『怪奇』も薄まっていくんですか」

 ハルの質問に、独歩は「多分ね」と曖昧に返した。何せ人智を超えた現象であるから、確実なことなど何も言えない。

「『霊穴』も『怪奇』も、帝都から離れれば弱くなる。消えて無くなる、ということはないかもしれないが、少なくとも知覚しづらくなる。特に今回の事件は噂話が『怪奇』の主体だろうから、噂のない場所にいけば自然と消え去る可能性は高いだろうね」

 鈴子を噂の大元と推測して、彼女自身を『怪奇』から遠ざけることで噂を風化させることを狙う。佐々城邸事件の時に信子で使ったのと同じ手だ。今回は別の噂で塗りつぶす必要がないので、信子の時よりも楽である。

「私が見た『青ゲット』は、殺人事件が起こる前でしたが……元々、そういう噂が広まる下地ができていたから、何らかの要因で私の目にも映ったということでしょうか?」

 鏡花の問いに、独歩はうなずいた。

「可能性は高いね。事件が起こる前から――恐らく鈴子さんが『青ゲット』の話を出した時から、『怪奇』は密かにこの神楽坂を歩き始めていたのさ」

 そして鏡花が『青ゲット』を目にしなければ、恐らく独歩はこの連続殺人事件も、ありふれた痴情のもつれによるものと断じて、『怪奇』を調べようなどとは思わなかったに違いない。因果なものだ。

「急ごう。あんまり夜更けになったら、かえって怪しむ人もいよう」

 こうして、四人はぞろぞろと連れ立って和菓子屋に向かったのだが──。

「お鈴なら、つい先ほど暇を出したよ」

 面倒臭そうに顔を出した番頭が、開口一番そういってのけた。

「こんな時間に、女の子を一人で放り出したっていうの?」

 意外にも、我先に口を出したのは鏡花ではなく秋聲の方であった。

「せめて朝までは待ってあげたらどうなんだい」

「そんなことを言ってもねえ、本人が行くと言ったのだから仕方ねえ」

 これ以上、ここで番頭を問い詰めても無駄であろうことは、ここにいる全員がわかっていた。

「あの、独歩さん、また音が」

 ハルがこっそりと、独歩に耳打ちをする。彼女がわざわざ音を聞いたというのなら、それは『怪奇』に関するものに違いない。

「失礼した。お鈴さんがいないのなら、我々は出直そう」

 独歩は鏡花、秋聲の間に割って入ると、目配せをした。二人も、独歩に考えがあることは察したようだ。素直に従って菓子屋を離れた。

 ここからはハルと自分、そして鏡花の霊感が頼みの綱だ。

「ハルちゃん、音はどちらから聞こえる?」

「こっちです!」

 ハルが駆けていくのを、三人で追う。やがて、遺体が投げ込まれたという例の橋にかかる。

 神楽坂は花街に近く、夜が浅いうちはそれなりの人が通る。しかし、その時だけは不自然なほどに人がいなかった。

 不気味なほど人が通らないその橋の上に、それはいた。

 季節に似合わぬ青いゲットを被った、人影。ゲットの奥の顔は、まるで墨で塗りつぶされたように暗く、何も見えない。

「国木田さん……あれは、『怪奇』ですか?」

 鏡花が声を低くしてそう囁いた。

「恐らくは。僕には顔が見えない」

 橋の真ん中、ガス燈の下。『青ゲット』はじっとこちらの様子を伺っているように見えた。

「独歩さん、泉さん、『彼女』が何かに見えるんですか⁉︎」

 ハルのその一言が、決定的だった。つまり、『視る』霊感もちではないハルには、青ゲットの男ではなく『彼女』に視えるのだ。

 鏡花が眼鏡を外す。近眼の彼でも、『怪奇』ならば肉眼でもはっきりと視える。

「あれは……『怪奇』ですが、『怪奇』ではない……」

 鏡花は、この場にいる誰よりも『怪奇』を見てきたのであろう彼が、震える声でそう言った。

「どうして、どうしてですか。私は貴方を信じていたのですよ」

 彼が悲痛な叫びを漏らした原因に、独歩ももう気がついていた。

 ガス燈、橋の上、『青ゲット』、そしてその足元には血濡れの遺体。

 遺体が、ある。

 そして、その時になって独歩にも『青ゲット』が誰なのかはっきりとわかった。

 薄明かりの下で立ち尽くしているのは、青ゲットの影を纏った鈴子だった。

 どうしてそのようなことになったのかはわからない。彼女の着物は返り血で濡れていて、手には刃物を持っている。『怪奇』が重なって視えるが、彼女自身は間違いなくそこにいる。遺体も間違いなくそこにある。

「あれが『怪奇憑き』か『正気の狂人』か、どちらかは僕にもわかりかねる」

 まず大前提として、『怪奇』が意思を持って誰かを害するということはない。『怪奇』は現象。意思を持った魂ではないからだ。だから、『怪奇』そのものが殺意を持って誰かを殺めることはない。

「だけどこれだけは確かなことだ。あれは間違いなく、幽霊ではない。その気になれば僕らを害することができる生身の人間だ」

 恐らく、鏡花もそれはわかっていただろう。彼は『怪奇』を見ること、聞くこと、触れることすらできる霊感の持ち主だ。だからこそ、理解できる。『青ゲット』が『怪奇』の産物であっても、彼女の血濡れの姿が、手にした刃物が、転がった遺体が幻覚ではないことに。

 うかつに近づくと危険だ。独歩は冷静にそう考えた。非力な少女といえど、『怪奇』がどういう風に作用しているかわからない。そして実際にそこで一人死んでいる。死んでいるのは、どうやら若い男のようだった。

「来ないでください!」

 鈴子は血濡れの刃物を突き出して、そう叫んだ。

「私が全て悪いんです! 私が死ねば『青ゲット』はもう出ません!」

 彼女は突き出していた刃物を、今度は自分の首筋に当てた。鏡花も、秋聲も、もちろん独歩とハルも、それ以上近づくことはできなくなった。

「弟のかわりに私が死ねばよかったんです。若旦那があんなことになる前に、私が店を出ればよかったんです。『青ゲット』の話なんてしなければよかったんです」

 その叫びは、まるで自身に言い聞かせるようなものだった。

「私がもっと早く店を出ていれば……弟が肺病にならなければ、みんなずっと私に優しくしてくれたはず……」

 ガス燈のおぼろげな灯の下でも、鈴子が泣いていることがわかった。流行病で亡くなったと聞いていた彼女の弟は、肺病──結核だったのだ。

 結核を患うことで、本人どころかその家族まで差別を受けることは、残念ながら珍しくはないことだ。

 ましてや、菓子屋は食品を扱う。鈴子がどんな目にあったのか、想像に難くなかった。

 そして年季奉公に出された子供が、年季が明ける前に出て行くことは難しい。彼女のような、他にいく宛のない娘であればなおさら。

「もうどうにもならないんです。私なんか、私なんかが、……生きていたって!」

 独歩には鈴子の姿が、ぐにゃりと歪んで見えた。ガス燈の下で揺らめく、『青ゲット』の影。その影が、橋の欄干を掴んだ。青ゲットの影に気を取られて、その行為が何を意味しているのか判断するのが、数秒遅れた。飛び降りようとしている。今から止めようにも間に合わない。

 その時、後ろから大きな影が躍動した。下駄を履いた大柄な男の背中には、見覚えがある。

「花袋!」

「悪いな!」

 独歩が花袋の名を呼ぶのとほぼ同時に、花袋は鈴子の腰を掴んで欄干から引き剥がしていた。そのまま勢いあまって橋に転がった二人の元へ、独歩は駆け出した。ハル、鏡花、秋聲がそれに続いた。

 花袋が鈴子の手を取りながら起き上がった頃に、もう一人の人影が現れた。藤村である。

「独歩君、これは今、どういう状況なんだい? 菓子屋にいくという言伝を預かっていたけど、いないみたいだったし、どうしたものかと思っていたら、なんだか『怪奇』の気配がしたから……」

「どういう状況、と言われてもな……」

 何から話せばいいものやら。そんなことをしている内に、へたり込んだまま立ち上がれずにいた鈴子が、声をあげて泣き出した。

「どうして、どうして死なせてもくれないの? 私さえいなくなれば『青ゲット』なんてもう出ないのに!」

「それは違うんじゃないかな」

 意外にも、最初に口を出したのは秋聲だった。

「僕たちは、そこにある遺体が本当に鈴子さんが殺したのかどうかすら知らない。普通に考えれば、一連の事件が全て鈴子さんが起こしたと考えるのは無茶だ。鈴子さんが死んだら、全て君のせいということになるかもしれない。真相は闇の中だよ」

 鈴子はじっと、秋聲を、そして鏡花を見た。ガス燈の薄ぼんやりした明かりでもわかるほどに、彼女は青ざめていた。

「……この人は、私の自害を止めようとして、くれたんです……揉み合いになっているうちに、偶然……本当に偶然、刃物が首に……私、本当に殺すつもりなんて……!」

 鈴子はわぁわぁと声をあげて泣き出した。花袋は彼女がもう自害するつもりなどないとわかってか、鈴子から手を離した。

 独歩には、もう『青ゲット』は見えなくなっていた。恐らく、鏡花にも。

「嵐の音が遠くなってく……」

 ハルが小さな声でそう言ったので、独歩はこの少女からすっかり『怪奇』が失せたのだと知った。



 鈴子はその後、自分の意思で警察に出頭した。

 独歩らは彼女を宥めている間に大体の事件のあらましを知ることとなった。

 まず、女将を殺害したのは若旦那。女中に手出ししたことを女将に指摘されて逆上しての犯行だそうだ。

 若旦那を殺したのは女中頭のとし子。若旦那はとし子とも関係があったため、痴情のもつれに女将殺害の件が重なってのことだろう。

 とし子は女将殺しと若旦那殺し、二つの殺人を『青ゲット』のせいだとこじつけようとした。『青ゲット』の正体は、本物の『青ゲット』事件を知る鈴子である。とし子はそういう筋書きを立てて、立場の弱い鈴子を自害に見せかけて殺し、罪をかぶせようとした。

 しかし、それは上手くことが運ばなかった。言い合いになってヒステリーを起こした彼女は自ら命を絶ってしまった。店の者は、事実の露見を恐れてとし子の死も『青ゲット』の仕業とするために、とし子の遺体に無数の傷をつけて橋から投げ落としたらしい。

 ついでに、隠しきれなくなった女将の遺体も、やや見つかりやすい場所を狙って投げ込んだ。だからこの二つの死体は、連続して見つかることになったのだ。

 最後はあの橋の事件。鏡花たちが鈴子を郷里に帰すための手紙を届けた後、鈴子は凶器となった包丁をもって、橋で自害しようとした。

 鏡花たちが迎えに来る前に、出て行った鈴子を不審に思った手代がそれを追いかけた。鈴子の自害を彼は止めようとしたが、鈴子はもみあいになった時に、弾みで彼の首に包丁を突き刺してしまった、ということだ。

 真相がわかってしまえば、これは得体の知れぬ殺人鬼の仕業などではなかった。和菓子屋という狭い舞台で起こった別個の殺人の連続であった。女将が死んだ時点で若旦那が罪を認めていれば、以後の殺人は全く起こらなかったことになる。

 青ゲットの素顔は、脆くて愚かな人間たちの寄せ集めだった。

「何ともやりきれない話です。結局、私たちが見た『青ゲット』とはなんだったのでしょう」

 独歩社の片隅、鏡花と秋聲は、お茶を飲みながらため息をついていた。花袋、藤村、ハルもいるし、独歩社の面々ももちろんいるわけなので、座る場所もろくにない。鏡花と秋聲以外は、ほぼ立ちの姿勢である。

「思うに、今回の事件における『青ゲット』とは殺意の連鎖を起こす『怪奇』だったのかもしれないね。井戸端の噂話とは違って、鈴子さんがいた和菓子屋の内部では『怪奇』の影響が強く出やすかったのだろう」

 独歩の言葉に、花袋は「そんなものか?」と疑問を呈した。

「本家の『青ゲット』はどうか知らないがね。誰も本気で人を殺すつもりではなかっただろうに、こんな風にどんどん人が殺されていくなんてやはり尋常ではないよ」

 そこまで言い終えると、花袋はやや不安そうに眼鏡の奥の目を細くした。独歩は軽く息をついて、続きを述べた。

「だけど和菓子屋の一件があるまで事件がほとんど起こらなかったのだから、僕が井戸で視た『霊穴』はさほど強くはないのだろう。鈴子さんがいなくなったことで、自然と消滅する可能性が高いと思う」

 鈴子が『青ゲット』の起点だとすれば、あの井戸に『霊穴』があったとしても、彼女が訪れなくなった時点で力は失われるだろうと推測できる。事件のあらましがわかれば、人々の関心も薄れるはずだ。

「鈴子さんはどうなるのだろうね」

 藤村の言葉に、独歩はただかぶりを振った。

 鈴子はそのつもりではなくとも、殺してしまったことは事実だ。彼女の人生の不幸を思うとやりきれないが、罪を償わないわけにはいかないだろう。

「独歩さん、この事件のことは記事にするんですか?」

 ハルがおずおずと尋ねたので、独歩は「まさか」と大袈裟に手を振った。

「こんなことを面白おかしく記事に書き立てるほど、僕は落ちぶれてはいないつもりだよ」

 いくら雑誌の売り上げが欲しくても、いたいけな少女の悲しい運命を金に変えようとは思わない。それに、独歩もそれなりに策を弄している。

「ネタにはならなかったが、特別に泉君と秋聲君が、僕らの文芸誌に作品を書き下ろしてくれることになったんだ。もちろん、尾崎紅葉大先生の直弟子である二人であるから、そのままの名前で誌面に載せるのは難しいが……きっと話題になる。独歩社は文芸誌もちゃんと売れるんだということを、世間に知らしめる良い機会じゃあないか」

 転んでもタダでは起きないのが独歩である。秋聲はため息をひとつついた。

「僕は書くことに異論はないけれど、独歩君はそれでいいのかい?」

「もちろんだとも。独歩社は婦人誌だけの会社ではないことを、世に知らしめて見せようではないか」

 独歩は得意満面にそう述べた。

 鏡花と秋聲は顔を見合わせて、しかし多くを語ろうとはしなかった。

 彼らは近々、一度郷里へと戻って、福井の田舎を訪ねることになるであろう。鈴子が警察に出頭する前に、彼らに弟の遺骨を預けたからだ。せめて弟だけでも故郷福井の地に戻して、散骨してやってくれまいかという彼女の願いであった。

 はたして『青ゲット』とはなんだったのか。独歩にも完璧な答えは出せない。

 独歩たちのように『視る』霊感の持ち主が殺人犯を見たのであれば、神楽坂の『青ゲット』の噂話は、あるいは本物の目撃証言であったのかもしれなかった。

 いざ『青ゲット』とまみえた時、独歩は『怪奇』かあるいは『正気の狂人』か、と評した。だが、実際にはたまたま福井の『青ゲット』を知っていただけの哀れな少女がいただけだった。

 もしかすると『怪奇』とは、独歩が思っているよりもすぐそばにあるのかもしれない。

 つまらない理由で人を殺した例は、帝都に限らずたくさんある。あの和菓子屋だけがおかしかったわけではない。

『魔がさした』などといった、得体のしれない理由で人が殺されることがあるのだ。そこに誰も気がつかなかった『怪奇』の存在がないとは言い切れないのではないか。

 きっと『青ゲットの殺人鬼』はどこにでもいる。

すれ違う顔も知らぬ誰かの胸にも、もちろんここで話している各々の胸にも。きっかけがあれば人は、思わぬ理由で殺人鬼になり得るのだ。

 独歩は沈んだ気持ちを切り替えるように、パンパンと手を叩いた。

「やるせない話はよそう。それで独歩社の財政が良くなるでもなし。ここで立ち話もなんだ。秋聲君と泉君は、この後うなぎ飯でも食べにいかないかね」

「鰻なら、火が通っているので安心ですね」

 鏡花が潔癖を遺憾なく発揮しているのを見て、秋聲は「相変わらずだね」と嘆息する。

「僕としては、肝心の『怪奇』の現場にまたしても乗り遅れた國男から、どんな愚痴がこぼれるかが気になるかな」

「でも、今回は國男だって『怪奇』じゃないって判断したわけだしな」

 独歩の言葉に、花袋がひきつった顔でぼやいた。

「そうだとも。『怪奇』なんて、そもそも実態が曖昧なものなのさ。それを記事にできるくらいに『仕上げる』のは並大抵のことじゃあないよ」

「編集長がそれ言っていいのかい?」

 藤村の横やりには、独歩は肩をすくめりだけに留めておいた。

 いつも何事も、望んだ通りの結果が待っているとは限らない。人も『怪奇』も、千差万別。今回のように、記事にするには躊躇われるようなことも今後、幾度となくあろう。

 独歩社の面々も、若き文士たちも。ゆるゆると元の日常に帰っていく。

 だけどこの中の誰も、不幸に呑まれていった少女のことは忘れないだろう。

 日常のすぐ隣に、悲劇的な非日常が存在することを、決して忘れないだろう。



 神楽坂の『青ゲット』の噂話はその内情が明かになると、急速に市井の人々からの関心を失っていった。

 ひと月もすれば、もはや『青ゲット』のことは誰も口にしなくなり、跡取りも評判も失った件の和菓子屋は店を畳んで、数年のうちに建物も取り壊された。

 後年、神楽坂に事件の舞台となった和菓子屋があったこと、その最後の加害者であり犠牲者であった一人の少女のことも、不自然なほどに綺麗に忘れ去られていった。

 あるいは、そのたやすく忘却される不可解さも、『青ゲットの怪奇』の性質であったのかもしれない。

 鈴子がその後どうなったのか、知る者はいない。

 彼女が記憶していた『青ゲット事件』の真相と思しきものも、帝都にいる誰も知ることなく葬り去られた。


 あっさり忘れ去られた『帝都の青ゲット事件』とは裏腹に、『福井の青ゲットの殺人鬼』は、百年後の世まで『未解決事件』として語られることとなる。

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帝都怪奇浪漫画報 藍澤李色 @Liro_A

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