第21話 怪奇の生まれる時
菓子屋の女将と見られる遺体が、川底から見つかった。死後数日経ってから投げ込まれたと見え、遺体はだいぶひどい状態であったらしい。
菓子屋を襲う殺人鬼の噂は、神楽坂の近隣で様々な噂話を生んだ。
存外に噂が広まるのが限定的だったのは、被害者が菓子屋に限定されていて、怨恨の線が濃厚であったからであろう。女将にはさして殺される理由はなかったが、若旦那の方には女癖の悪さといういかにもな理由がある。息子の厄介ごとに巻き込まれて殺された女将、若旦那はその件で真犯人と口論になり殺された。これが巷で噂されている名推理である。
独歩社の片隅で、独歩は腕を組みながらため息をこぼした。
「まぁ、実情はそんなところだろうとも。無差別殺人ではない。動機も推測できる。まだ犯人が捕まっていないだけ。それも菓子屋の方が捜査に非協力的だからということだ」
被害者が出ている菓子屋が捜査を渋る、ということは犯人を庇っているとも言える。そうなると、当然ながら犯人は身内にいると推測される。無辜の殺人鬼は、すっかり俗っぽい痴情のもつれによるありがちな怨恨殺人に堕ちた。
「もはや青ゲットのことなど、民草は忘れかけているんじゃあないか?」
「それがですね、独歩さん。青ゲットは青ゲットで、目撃者が多数存在するんですよ」
窪田が好奇心に満ちた表情で主張してくるのを、独歩は右から左に受け流した。
「青ゲットという単語が一人歩きを始めたな。一度噂が広まれば、ただの田舎者がたまたま青い羽織を着て神楽坂にいただけでも、人は『青ゲット帝都に来たり』と大騒ぎをするだろう。一人、二人騒いだだけでも、噂はどんどん広まっていく。神楽坂の青ゲット伝説は、その段階に来たのさ」
菓子屋が捜査を渋っているのなら、青ゲットの噂を流してごく狭い範囲の殺人事件を『よくわからない怪奇の仕業』にしたのは、捜査の目を少しでも外側に向けようとしたからだろう。
鈴子から聞いた青ゲットの殺人鬼の話を、商売の邪魔になること必至の醜聞からくる殺人事件をごまかすための隠れ蓑にした。若旦那が殺されずに、女将だけが謎めいた死を遂げたくらいならば、あるいは『悲劇の菓子屋』としてかえって団子が売れるようになったかもしれない。人間は好奇心に抗えない生き物だ。
「独歩さん、帝都の青ゲット事件は、記事にしないんですね。実情はともかくとして、少しでも『怪奇』の匂いがあれば売り上げのために記事にするかと思いました」
吉江がそろばんを弾きながらぼやくのを聞いて、独歩は渋面を作る。
「吉江、君は僕を何だと思っているんだ。そりゃあ僕だって考えないではないが、それならば殺人犯に目星をつけてからにするね」
「だが、花袋が『怪奇』の匂いを嗅ぎ当てたんだろ?」
小杉までが、挿画を描く手を止めて口を挟んできたが、独歩はかぶりを振った。
「花袋だけがやっとそれらしきものを嗅ぎ分けた、ということさ。僕や藤村君はさっぱりだったし、僕らより強烈な霊感を持つ鏡花君だって見ていない」
もちろん、独歩とて花袋の鼻を信用していないわけではない。たとえば独歩が神楽坂で青ゲットを見つけたところで、よほどの違和感を覚える状況でない限りは見間違いである可能性を否定しきれない。その点で言えば、独歩の目よりも花袋の鼻の方が、よほど信頼にたりえる。
しかし、花袋の霊感はあくまで匂いを嗅ぐだけであるから、あの菓子屋周りに具体的にどのような『怪奇』が発生しているのか証明できないのである。
「そんなふわふわとしたものを憶測だけで記事にするよりは、真犯人をつかまえる方がずっと民衆の興味を煽れるだろうさ。警察に恩を売れるし、事件も解決する。誰も損をしない」
「独歩さん、意外とリアリストですよね」
窪田はやや好奇を引っ込めた顔になって独歩を見やる。独歩は彼にニヤリと笑ってやった。
「僕は『怪奇』だって、確かに存在すると信じているから雑誌に取り上げた。窪田、我々は自分たちが発信するものは真実であると、どこまでも信じ抜かねばならない。それが新聞でも、雑誌でも、詩歌や小説でもだ。たとえそれが己の創作であっても、ありのまま真実を正直に書かねばなるまいよ」
「だけど『怪奇』を『真実』と証明するのは難しくないか?」
小杉の言葉に、独歩は鷹揚に頷いた。
「その通り。そして、『真実』は世間一般の想像するような『正しさ』とは違う。間違っているとしか思えないようなことでも、『真実』たりえる。本事件の被害者である菓子屋の若旦那がそうであるように、素行の悪い人間はこの世にはたくさんいるのだからね」
自業自得の面があったからといって、それで殺されるにふさわしいというわけでもなし。殺したくなっても仕方がないような同情すべき点があったとしても、殺人は正当化されてはくれない。多少は情状酌量が認められても、奪われた命は戻らないのだ。
「僕らの仕事は『怪奇』そのものの証明ではないよ」
窪田、小杉、吉江の三名は、わかったようなわからないような、複雑な面持ちで顔を見合わせた。
ところが三人が各々の結論を述べるよりも早く、事態は思わぬ方向に転がった。
「ごめんください!」
ノックの音。そして数秒後に開けられた戸。そこにはやれやれとため息をつきたさそうな顔をした徳田秋聲と、眉を釣り上げている泉鏡花の姿があった。
「急に会社まで押しかけてすまないね、国木田君。鏡花がどうしてもというから……」
「責任の所在を私に押し付けないでくださいますか。国木田さんに相談してみようと言ったのは秋聲ですよ」
来るなり独歩のことは置いてけぼりで言い合っている。何とも噛み合っていなさそうな二人であるはあるが、一緒にくるのだからこれでもそれなりに合うところがあるのかもしれない。
それはともかくとして、だ。
「一体、何があったというんだい?」
独歩社の面々と懇意である花袋でもあるまいし、この二人が用事もないのに来るとは思えない。秋聲も鏡花も着流しで、人に会う用事があって出てきたとは思えぬ服装である。
鏡花は少し咳払いをした。
「例の菓子屋で、また人が死んだらしいんです。今度は女中頭が亡くなったとか。神楽坂は大変な騒ぎですよ」
「また人が死んだのかい?」
若旦那が殺され、女将も遺体があがった。菓子屋の親子を狙った連続殺人であることは明白に思えた。だから独歩は、使用人にまで被害が及ぶとは考えていなかった。
「急に犯人像がわからなくなったな……」
考え込んだ独歩を尻目に、鏡花は腕を組んで大きく息をつく。
「犯人が誰でも良いのです。あの菓子屋はもう、店を続けるのは難しいでしょう。故郷が近いよしみもありますし、私と秋聲で鈴子さんを郷里に返してやろうと話していたんです。国木田さん、どうか説得を手伝っていただけませんでしょうか?」
なるほど、鏡花と秋聲は鈴子の身を案じて行動を起こしたということか。確かに、女将も若旦那もいなくなって、女中までも死んだとなれば、あの菓子屋は終わりであろう。菓子職人もいつかないはずだ。女中としての働き口を見つけられないなら、鈴子は近いうちに路頭に迷うこととなる。
「そりゃあ、僕も彼女の身を案じていないわけじゃあないよ。だけど、郷里に帰りたがらないのだとしたら、それなりに理由はあるんじゃないのかい?」
「どうにも、彼女は弟さんが亡くなったのに、自分だけが郷里に帰るわけには行かないと考えているようなのです」
「ふむ、なるほど」
彼女は金と引き換えにして、弟と一緒に奉公に出てきたはずだ。郷里に彼女らの他に兄弟がいるかはわからないが、亡くなった弟の分まで稼がねば帰りづらいという面はあるかもしれない。年季奉公は、決められた年月を勤め上げることが条件である。勤め先がなくなるのであれば、彼女が微妙な立場に追い込まれているのは想像に難くない。
「いずれにしても、一度神楽坂に向かおう。花袋と藤村、ハルちゃんも呼んでくる」
「何故です? 女中頭が殺された件で、『怪奇』が関連すると考えていらっしゃるのですか?」
鏡花と秋聲は、この事件そのものに『怪奇』が関与しているわけではないという、國男の見解を聞いている。だから独歩が霊感持ちを集めようとしていることに、疑問を抱いたのかもしれない。
「恐らく、事件の原因はただの人間同士のいざこざさ。どちらかと言えば『事件』が先にあって、『怪奇』が後付けで出たのだろう」
事件の原因を『怪奇』と紐付けようとするから、ややこしくてわかりづらくなるのだ。そもそも、事件は事件。事件によって生まれた負の感情、事件をごまかそうとして振りまかれた青ゲットの噂が元になって、何らかの『怪奇』の芽になった。そう考えれば、『怪奇』としての実態がないのに花袋の鼻が利いたのも理解できる。
「恐らく、先日神楽坂に行った時点では、『怪奇』はまだ『怪奇』として完成していなかった。『怪奇』の出元になる『霊穴』があるとしても、弱くて小さく、僕らが存在を発見するに至らなかったんだ。今なら見つけられるかもしれない」
『怪奇』も『霊穴』も、実態さえ掴めばある程度は人の手で対処できる。佐々木邸事件の際も、信子という『霊穴』の発生源を帝都から引き離すことで『怪奇』を抑え込んだ。
「ここ僕と、僕が見込んだ友人たちを信用してくれたまえ」
鏡花と秋聲はお互い顔を見合わせていたが、独歩はニヤリと笑って見せた。
「こちらとしても『怪奇』に関する情報はあって損はしないのでね。これは仕事の話でもあるのさ」
◆
神楽坂は騒然としていた。
老舗の菓子屋を襲った悲劇は、まだ終わりではなかった。次に誰が殺されるかわかったものではない。もしかすると、他の店も狙われるのではないか。『青ゲット』ならば、菓子屋の人間だけを執拗に狙い続けるのでは。
立っているだけで、まっとうな推理から単なる邪推と思われるものまで、いくらでも情報が耳に飛び込んでくる。
「花袋と藤村君は、夜になるかもしれない。本当だったら、ハルちゃんを夜に出歩かせたくはないんだが」
「ここまで来て、やっぱり帰りなさいなんて言わないですよね、独歩さん」
「いや、そんなことは言わない。帰りもきちんと送るさ。お隣だしね」
ハルがじっとりとした眼差しを、独歩に向ける。
独歩たちは心なしか目を逸らしつつ、菓子屋近くの蕎麦屋に入った。現時点でも四人いるのだ。通りでぞろぞろと連れ歩くよりも、どこかで座って話す方が良い。
噂話を聞くだけでも、必要な情報は大体拾えた。
女中頭のとし子は二十二歳。十歳の頃から和菓子屋で奉公していた。女中の中でもかなりの古株である。若旦那と男女の関係を持っていたとも噂される。若旦那を殺したのは彼女では? と名推理を披露する声もあった。
「だが、本人も殺されたとあってはな」
主人を失った和菓子屋は今日も休業中であったが、店の前は野次馬でごった返していた。時折番頭らしき男が人混みを追い払っていたが、好奇心が強い民衆にはあまり効果を発揮していないようだ。
「鈴子さんを呼び出すにしても、店の前があれではどうにもできません」
鏡花は苛立った様子である。鏡花、秋聲の二人は、一度師の元に戻って服を着替えてきたので、着流しよりはマシな格好になっている。
「苛々したって仕方がないよ、鏡花。僕らはそもそも、鈴子さんとは郷里が近いだけで、赤の他人なんだからね」
「そうはいっても、殺人犯に狙われている店においておくなんてできませんよ!」
秋聲が横から口を挟んだが、鏡花は納得がいかないようだった。
独歩としても、哀れな少女を救ってやりたい気持ちはあるのだが、どうにも騒ぎが大きくなりすぎた。個人がそれとなく首を突っ込んでどうにかなる次元を超えてしまっている。
「私が話をしてきます。大人数で行ったら冷やかしに見えるかもしれませんが、私だけなら顔も多少は知れていますし」
「はぁ……それなら僕も一緒に行くよ。一人も二人も対して変わりはしないからね」
鏡花はどうしても鈴子を店から出してやりたいようだ。秋聲も同調しているとなれば、独歩には止める理由はない。
「あの、もし寝泊りの場所に困るようでしたら、少しの間ならうちの長屋の空き部屋を使えます。ちょうど店子さんが引っ越した後ですから」
ハルがおずおずと申し出ると、鏡花はパッと表情を輝かせて「良いのですか?」と身を乗り出した。
ややたじろぎながら頷いたハルの姿を見て、鏡花は心底安心した様子。まさか師である尾崎紅葉の家で引き取るわけにもいかないだろう。他の奉公先を見つけるにしろ、郷里に帰るにしろ、身の振り方が決まるまでの居場所は確かに必要であった。
だが、どこか引っかかりのようなものが、独歩の頭の隅で存在を主張している。
殺人鬼に狙われている。本当にそうだろうか。老舗和菓子屋が、一体誰からどんな風に恨みを買ったのかはわからないが、女将、若旦那、女中頭全員に共通する恨みなど、果たしてあるだろうか?
そして、これほど何人も殺されているのに、菓子屋で働いている面々が犯人に一度も気付かないということがあるだろうか?
――やはり、犯人は最初から和菓子屋内部の人間で、どうにかしてそれを隠そうとしているのでは?
警察もそこまで愚かではないから、まともに捜査したら早晩に明るみに出るだろう。それを少しでも遅らせるために、菓子屋の面々が口をつぐんでいると推測する。やたらに焦って去っていった鈴子の様子も、理解できる気がする。
女将と若旦那が死んだのだ。他の店に移ったり、郷里に帰ったりする者が多く出ても仕方がない。しかし、少なくとも表立ってはそういう話が出ていない。全員が鈴子のように帰るに帰れない身の上ではないだろうから、表沙汰にしたくない理由がきっとあったのだ。
それは『怪奇』とは関係ない、極めて生きた人間らしい悪感情のはずだ。
「……鈴子さんを呼びに行くのは、夜にしよう。夜ならば、あの野次馬たちもいなくなるさ。夜道で『青ゲット』に出会ったらたまらないからね」
「しかし、国木田さん……」
「花袋と藤村が来られるのがいつになるかはわからないが、日が落ちたら行動を起こそう。それからでも遅くはないよ。野次馬をかき分けるよりは現実的さ。それに『怪奇』は夜の方が強く出るからね」
「鏡花、僕らは先に和菓子屋に手紙を届けておいたらいいんじゃない? 鈴子さんだって、急に来られたら戸惑うだろうから」
横から秋聲が助け舟を出してくれた。
「それはいいですね。すぐに準備しましょう。紙と筆記用具をとってきます」
思い立ったらすぐ行動に移す。それが泉鏡花の性分なのかもしれない。そして、なんだかんだと言いつつ秋聲は、鏡花のことをよく見ている。この二人は噛み合わないようでいて、それなりに上手く嵌っているのだろう。
連れ立って出て行った二人を見送って、独歩は少しばかり首を傾げた。さて、この件は鈴子を助ければ一件落着となるのであろうか。
「ふむ……どうしたものかな」
『怪奇』の出元となる『霊穴』があるとしたら、菓子屋の中である可能性が高い。野次馬が群がっている現状はもちろん、夜になってある程度人がはけたからといって、独歩たちが中に上がり込むわけにはいかないだろう。
花袋や藤村がいれば、あるいは匂いや気配によって気がつけるであろうが、独歩や鏡花の『視る』霊感、ハルの『聴く』霊感が役に立つ場面ではなさそうだ。やはり花袋たちとの合流しやすい夜を待つのが得策である。
ついでにいえば、『怪奇』は基本、夜の方が強く出やすい。そういう意味でも観測するには夜が適切である。
これだけ死人が出て、疑わしき人間を警察が逮捕したという話を聞かないのは、警察側も『怪奇』が絡んでいるとみているのかもしれない。『怪奇』が関わった事件では、動機や殺害方法が不可解になるケースが多い。警察としてはなんとか決定的な証拠をつかんで、『怪奇』ではないことにしたい。が、それができないといったところか。
帝都では、『怪奇』絡みの事件における犯人を、通常の事件と同列に取り扱うことができない。『帝都の青ゲット』の噂は、その原則を利用するために振りまかれたとも取れる。そして人々の噂が、犯罪を隠そうとする邪心が、噂話を本物の『怪奇』へと変えようとしている。
「あの、独歩さん」
物思いにふけっていると、不意にハルが声をかけてきた。
「どうしたんだい、ハルちゃん。帰りたいなら送っていくよ。鈴子さんのことなら心配いらないさ」
「いえ、それは大丈夫です……けど」
珍しく歯切れの悪い言い方をしたハルは、少しだけ息をついた後、思い切ったように言った。
「泉さんと徳田さんが出て行ってから……ずっと、部屋の外から嵐の日みたいな風の音が聞こえるんです。今日はそんなに天気、荒れていないのに……」
独歩は急いで、外を確認しに行った。雨も降っていなければ、強い風が出ていることもない。
嵐など起きていない、いつもの神楽坂だ。
独歩はハルを部屋に残して、店の者に声をかけてから外に出た。
神楽坂。道ゆく人々が、口々に事件の噂を振りまいている。
その渦中にある菓子屋に、日が落ちてもいないうちから暗い帳がかかっていた。
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