第6話 海を渡る災厄

 鳥が鳴く。啼く。泣く。

「は? 俺にも聞こえるんだが?」

 國男の、やや空気を読み違えた叫び声で、一同は我に返った。

「零感男にも聞こえる怪奇とは、相当だな」

「おい、独歩。多分だけどそのレイカンって、字面が俺の知ってるヤツと違うだろ」

「そんなこと気にしている場合か!」

 花袋の至極まっとうなツッコミに、一同は再び我に返る。鳥の鳴き声はいつの間にか収まっていた。

「ハルさん、上で何を見たの?」

 藤村が話を戻す。鳥の声が聞こえたせいで話が中断になったが、ハルが駆け込んできた方が先だ。ちょうど、藤村が怪奇の気配を感じ取った後だった。

「あの、私は『見える』わけじゃないので、確証はないんですけど……信子さんの肩越しに、一瞬、変な感じのが見えて……独歩さん、アレが『怪奇』なんでしょうか?」

「見えた……? ハルちゃんが?」

「はい。何かこう、急に部屋の一部がぐにゃっと歪んで、暗い穴みたいなのが……」

「穴……? まさか、『霊穴』か?」

 鳥の声は、霊感が一切ない國男ですら聞いた。

 そして、『見える』霊感ではないハルが、妙なものを見たという。

 霊感に関係なく聞こえる、見えるということは、相当強力な『怪奇』であろう。ならば、怪奇の根源である『霊穴』があってもおかしくはない。

 しかし、独歩は何も調べなかったわけではない。

 警察が庭を捜索している間に、屋敷の中は一通り見て回っていた。『霊穴』と思しきものが近くにあれば、それこそ独歩には『見えて』いたはずである。

 独歩と花袋が不在の間、ハルや藤村が何か感じることがあれば、二人はきちんと報告してくれたはずだ。

 それが、ついさっきまではなかった。

 まるで、ついさっき、初めて『霊穴』が存在していなかったかのようだ。

 これだけ霊感がある人間を集めて、どうして誰ひとりとして気が付かなかったのか。

「独歩、ヤバいんじゃないのか?」

 花袋がやや青ざめた顔をして、天井を見上げている。藤村だけではなく、花袋も『臭い』を感じているのかもしれない。独歩は『見て』みなければわからないが――。

「よし、ハルちゃん、信子のところに行こう。女性の寝室に押し入る趣味はないが、行ってみないことには始まらないからな」

「お、じゃあ俺も行っていいか?」

 何故か國男が立候補する。興味本位で首をつっこまれても困るわけだが、彼はニヤっと不敵に笑って見せた。

「霊感ゼロと名高い俺でもわかるなら、割と物理的にヤバいんじゃないのか? 自慢じゃないが、俺はこの中では一番頼りになるぜ? お前ん会社の小杉には負けるが、でかいだけの花袋よりはマシだ」

「でかいだけとは何だ……」

 花袋がグチグチと口を挟む。しかし、國男の言うことは最もだった。小柄な独歩と、明らかにひ弱そうな藤村、身体は大きいものの性格的に荒事に向かない花袋に比べれば、國男はこの中で一番物理的に頼りになる。

「いいさ。國男、一緒に来てくれ。それと、花袋と藤村はここに残ってくれるか?」

「霊感の話なら俺たちもいった方がいいんじゃ?」

 國男にでかいだけ扱いされたのがよほど腹にすえかねたのか、花袋は実に渋い顔をする。

 だが、隣で藤村が「ああ」と何やら理解したような顔で頷いた。

「独歩君、使用人を疑っているんだね」

「その通り。信子は何も知らなかろうが、使用人たちは何か隠している。死体を移動させて庭師が消えたのも、まるで僕たちが裏庭にいるのを確認したように悲鳴が聞こえたのも、あまりに不自然だ」

 この部屋は、使用人たちが寝起きする部屋の手前にある。普段は、使用人の控室として使われている部屋らしい。使用人たちは、主人と同じ食堂で食事をするわけではないし、一休みしているところを主人や来客に見せるわけにはいかない。だからこういう部屋を作っているのだろう。

 それだけに、使用人に何か動きがあれば、すぐに気づくことができる。

「全員がこの部屋から消えたら、使用人が何か行動を起こすという可能性もある。それが怪奇絡みなら、花袋や藤村は相手の姿が見える前から勘づくことができるだろう。適材適所というものだ」

「なるほど、独歩君のいうことには一理あると思う」

「まぁ、お前がそう言うなら……」

 独歩に頼られ、藤村にも同意を示され、花袋の反論はすっかり弱くなってしまった。

 そもそも、花袋は純でウブすぎるところがある男なので、女の寝室に入ると気もそぞろになりそうだ――などと思ったことは、伏せておいた。適材適所である。

「それじゃあ二人とも、任せたぞ。なに、僕だって國男ほどではないが、全く頼れないわけではないとも。そのためにステッキを持ってきたんだ」

 独歩はステッキの持ち手を少し動かして、そして引き抜く。ステッキから抜けた持ち手の先に、短刀の刃がついている。これは独歩が愛用の短刀を、知り合いの職人に頼んでステッキに仕込んでもらったものだ。

「さぁ、いざゆかん、怪奇退治だ。ハルちゃん、國男、突いてきたまえ」

 意気揚々と部屋を出た独歩たちを見送って、部屋に残された花袋と藤村は、顔を見合わせる。

「何てものを仕込んでやがるんだよ、アイツ……」

「刃傷沙汰にならないことを祈ろうか……」



 信子の部屋は二階の突き当たりだ。その手前には彼女の妹や弟、階段を挟んで向かい側に夫妻の居室と客間がある。

 ハルがこちらにいる以上、今はこの階に信子一人しかいなかったことになるが。

「おい、独歩。霊感のない俺にすら聞こえたあの鳥の声に気づかないほど、お前の昔の女は鈍いのか?」

「昔の女呼ばわりはやめろ。……今の女でもないが。しかし、言われてみれば妙だな」

「信子さんが寝入ってから抜け出したので、私が降りてきた時には眠っていたと思うんですけど」

「あの大音量で起きないほど、神経は図太くあるまいよ」

 実際、今までにも霊感に関係なく聞こえていたからこそ、信子は独歩に依頼することを考えたはずだ。独歩ならば佐々城家の勝手を知っているし、お互いに引け目があるから、秘密を守り通せると考えて。

「静かにすることだ。何があるかわからない」

 声を潜め、足音を忍ばせながら、三人は少しずつ信子の部屋へと近づいていく。

 ドアの前まできて、独歩はそっと中に聞き耳を立てる。そしてハルを手招きした。ハルはすぐに意図を理解したようで、独歩に倣ってドアに耳をつける。怪異の音であれば、ハルに聞こえるはずだからだ。

 しかし、何も聞こえない。話し声はもちろん、人が動いている様子も、もちろん鳥の声も。ハルに目をやれば、彼女も何も聞いていないらしく、ゆるゆると首を横に振った。

 後ろを見る。國男と目配せをし合う。ランプはハルに持ってもらい、独歩と國男でドアの両脇を固めた。鍵はかかっていないはずだ。異変を知らせにきたハルが、そんなことをするわけがない。

「信子! 無事か!」

 扉を開ける。ステッキを手にした独歩と、國男とが部屋になだれ込む。一歩遅れて駆け込んだハルの持つランプが、部屋の中を照らした。

 信子は起きていた。

 開いた窓から吹込む穏やかな風が、カーテンを揺らしている。月光とランプの灯りが、彼女の立ち姿を浮かび上がらせていた。

 そして、彼女の口を塞いで後ろに立っている男の姿も。

「……物理の出番だぞ、國男」

「いや、これどうすんだよ!」

 独歩は混乱していた。國男も混乱している。

 これは怪奇ではない。怪奇は窓を開けて入っては来ない。

 信子は確かに、つかまっている。声を出さないように口を塞がれている。だけど、彼女の表情は恐怖というよりも、むしろ困惑を宿しているように見える。

 仕込みステッキを手に、それを抜いていいものかどうかもわからず、三人と二人の間には奇妙な沈黙が横たわっていた。しかし、意を決したように信子が男の手を振り払う。

「彼は大丈夫、悪い人ではないわ」

「この状況でそれは無理がないか?」

 國男が思わず声をあげたが、独歩はようやく腑に落ちた。信子の後ろにいるその男に、見覚えはない。そしてこの館には、死んだ執事の大澤の他には一人しか男性がいない。

「君は、庭師の相川だな」

 大澤の死体を分断して、井戸に投げ捨てて逃亡し、そして信子を攫いに来た。何の目的かはわからないが。

「相川は、私のことを心配して、鎌倉の婚約者の元へ逃がそうと……こんなやり方しなくても、いいのに。一体、どういうことなの? 説明して、相川」

 相川と呼ばれたその男は、信子の問いに答えようとしない。ただ、身をひるがえして窓枠へと足をかける。

 國男は速かった。物理なら頼りになると自称するだけある。咄嗟に駆けて、相川の足にしがみつく。

「逃げるな! こっちはこんな夜中まで仕事してんだぞ!」

 やや私情の混じった雄叫びと共に、國男が相川もろとも床に転がる。独歩は窓際に駆け寄って、外を覗きこんだ。縄梯子と、脚立。脚立はともかく、縄梯子はかってにひっかけることはできないから、信子が相川に気づいて招き入れたのか。

 例の鳥の声がうるさかったからか、全く気が付かなかった。屋敷が静かになった後、相川が信子を連れ出そうとしたところで、彼女はハルがいなくなったことを気にして躊躇った。そして相川は信子が声を出さないよう、口を塞いで説得していた。――大体、こんなところであろうか。

 縄梯子を外して簡単には逃げ出せないようにし、独歩は窓を閉めた。ドアの近くにはハルがいる。信子もいるし、さすがに罪のない少女を突き飛ばしてまで逃げることはないだろう。

 独歩は振り返って、信子を見た。

 夜着に毛織物の肩掛けを羽織って、月光とランプの弱い灯りで照らされた彼女の肩越しに――。

 暗い、暗い穴が穿たれていた。



「信子、逃げろ!」

 急に、独歩まで信子にそう叫んだので、一同は困惑と混乱に包まれていた。もちろん、信子と相川も例外ではない。

「どういうこと? 怪奇が関係あるの?」

「この部屋に『霊穴』がある。怪奇に憑かれる前に離れろ!」

 独歩はいい。國男も性格的に憑かれる可能性は低いだろう。ハルは一番逃げやすい位置にいる。

 だが、この屋敷の問題で疲弊している信子は、大澤の遺体に処理をするなど不審な行動をとっていた相川は、『怪奇』が憑りつきやすい状態だ。

「一刻も早く! さぁ!」

「わ、わかったわ」

 信子が動き出す。だが、相川は悲鳴のような声をあげた。最初に聞いたこの男の声が、悲鳴とは。

「ああ! いけません、お嬢様! 貴方は――」

 通常、『霊穴』は特定の場所に発生する。

 そして『霊穴』のある場所から、怪奇は発生し、近隣に怪現象を起こしたり、人間に奇妙な行動を起こさせたりする。だけど、その原理は未だに解明されず、謎が多い。

 ――まさか。

 他の者にはどうかわからないが、少なくとも独歩には『見えて』いる。

 暗く黒い虚無の穴は、まだ信子の肩越しにある。彼女と一緒に移動している。

「その『霊穴』は……信子の肩についているのか?」

「……え?」

 信子は、薄明りの下でも青ざめているように思えた。

 相川はその場に崩れ落ちる。ただ「逃げてください」と懇願するように呻いた。

「霊感もちがこれだけ集まって、気付かなかっただと?」

 否、気づいてはいた。花袋は不審な臭いを屋敷全体から感じていたし、ハルはこの屋敷につくなり鳥の声を聴いた。藤村は、ハルが『霊穴』らしきものを見た時に、上階から怪奇の気配を察知している。

 そして、現に独歩ははっきりと彼女の肩越しにある『穴』を視認できている。

 『霊穴』の性質にはまだ謎が多い。独歩が知っているのも、あくまで帝都で噂される『霊穴』と『怪奇』の逸話や、國男から聞いた怪談話の延長線だ。本物の『霊穴』を見たことは何度もあるが、その性質を完全に理解できているわけではない。

 信子の持つ『霊穴』は、この屋敷の中で、夜にだけ発生するものだとしたら――。

「それじゃあ……この屋敷に『怪奇』をもたらしているのは、私ということ?」

 信子の震えた声が、虚しく響き渡った。

「僕は帝都で発生するようになった『霊穴』が、開国によって海外から持ち込まれたものが、この土地と結びついたのではないかと考えていた」

 その仮説が的を射ているなら、米国帰りの信子がこの屋敷に『霊穴』の因子を持ちこんでしまったことにも説明がつく。『霊穴』として完成されていない、まだ土地と完全には結び付いていない、いわば『霊穴』の卵だ。

「お嬢様は悪くないのです! お嬢様がお戻りになられて、旦那様も奥様も心から安心しておられました。決して、怪しげな『怪奇』に負けたわけではありません。不運だっただけです。お嬢様、お逃げください。貴方がいわれのない罪を被る必要なんてない!」

 相川が嘆くように叫ぶ。佐々城家の後継者は信子だ。ただでさえ、恋愛事件や米国帰りのことで、醜聞を書きたてられていた彼女が、その上屋敷を怪奇現象によって滅ぼしたなどと報じられたら、世間からどんな目で見られるかわからない。

 相川は、恐らく自分が怪奇現象の主であると、世間の目をそらそうとしたのではないか――。

 その時、部屋に駆け込んでくる影があった。

「独歩! なんかでかい声が聞こえてきたけど、大丈夫か? って何だ、この状況?」

 恐らく、相川の叫び声を聞きつけて飛んできたのだろう。花袋と藤村が、ハルの後ろに立っていた。それともう一人、年配の女中がいる。

「独歩君、この人は大澤さんの奥方だそうだよ」

 一緒に連れてきた、ということは、大澤の妻も何らかの行動を起こしたのだろう。そして、花袋と藤村に見とがめられた。更に上階から不穏な声が聞こえたので、ここまで来たと。

「この部屋、すご臭いがするな」

「何か、空気が重いね」

「わ、私はさっきから鳥の声が……」

 花袋、藤村、ハルが、それぞれの感覚でこの部屋の異常を察知している。信子は力なくその場にへたり込んだ。

 相川はただ、「逃げてください」と繰り返す。

「……使用人全員、信子が怪奇の原因だと気付かれないように、協力しあっていたんだな。首つり女中と執事の大澤は、怪奇憑きか?」

 怪奇の狂気に負けて、命を絶った女中。あるいは、大澤のそれも事故ではなく、自殺だったのかもしれない。

「もしかすると、君は『見える』霊感をもっているのではないか? つまり、僕の同類だ。だから信子から怪奇の目をそらすための『実行役』になった。違うか?」

 相川は答えない。だが、その沈黙が何よりも雄弁に肯定を示していた。怪奇が見えるのなら、信子の周りにどの時間帯に『霊穴』が現れるのか、どの人間に怪奇が憑りついていたのかわかる。

 だから相川は、怪奇憑きの大澤が起こした自殺めいた事故を、自分こそが怪奇に憑かれた人間だと誤認させることを思いついた。あるいは、それは亡き大澤の意思でもあったのかもしれない。連続した不審死を、怪奇に憑かれた相川の犯行とすることで、信子から目をそらそうとした。

 犠牲者が増えれば、信子が屋敷を離れる理由になるかと思ったのだろう。現状、鳥の声の怪奇はこの屋敷のみで起こっているのだから、信子自身を屋敷から離れさせるのは、一時的な対処としては適切といえる。

 だが、信子は屋敷を離れなかった。それどころか、独歩を屋敷に引き込んで、怪奇現象の解明に乗り出してしまった。相川は焦っただろう。もちろん、他の使用人も。

 信子が事前にどこまで言ったのかはわからない。ただ、事前に把握できるとしても、婦人画報に乗っていた怪奇事件情報募集の広告のみ。せいぜい記者が好奇心まじりに家を調べて回る程度の認識だっただろう。

 この時点では恐らく、信子の元婚約者である独歩が来るなんて、思いもしなかった。ましてや独歩が霊感もちの面子を揃えてくるなんて夢にも思わなかったはずだ。

 だから、怪奇で脅かして追い返せば良い、と短絡的に考えて大澤の死を利用した。

「僕らが裏庭に向かっている間に、ことを成し遂げる必要があったわけだな。まさか僕らが依頼を受けたその日にやってくるとは思わなかっただろう?」

 大澤の遺体を両断した後、階段に上ったのは、時間があまりなかったから。玄関先から出れば、裏庭にいる信子たちが戻って来た時に鉢合わせるかもしれない。だから相川は二階から大澤の下半身を投げ捨て、窓から脱出した。

 そして、相川の脱出を確認してから、女中たちは悲鳴をあげた。信子たちを屋敷にひきつけるために。

 あとは信子が屋敷に駆けだすのを見送って、入れ違いで遺体を井戸に投げ込み、逃げればいい。

 独歩が警察を追い返して、大澤の事件を事故として処理させたのは、結果的には使用人たちにとって都合がよかったのだろう。ただ、泊まりこみで怪奇の張り込みをされたのは誤算だった。しかも、ハルが同じ部屋にいる。

 鳥の鳴き声は夜更けに発生する。それが発生すれば、恐らくハルは一度部屋を離れる。そして、相川はその隙に、無理やりにでも信子を連れ出そうとした。

「――以上が僕の推測だが、概ね間違いはないか?」

 相川は、黙って独歩の推測を聞いていた。

 一応、警察の警備が外にあったはずだが、彼はこの屋敷の庭師である。抜け道を知っていてもおかしくはないし、鳥の声が警備していた警察たちにも聞こえていたなら、混乱に乗じるのはそう難しくなかったのかもしれない。

「論説が正しいのなら、君がやったことと言えば遺体の損壊くらいのものだ。大した罪には問われない」

「そう言う問題ではないでしょう!」

 声を荒げたのは、信子だった。

 相川はハッとしたように顔をあげる。

「私が全ての原因なら、私が消えるまで家族や使用人たちが犠牲になるということじゃない! それなら、私が、私が死ななければ――」

「お嬢様! 私たちが、私たちが方法を考えます……どうか、どうか今は安全な場所にお隠れになって――」

「安全な場所? 危険なのはこの私なのに?」

 信子が寝台の脇に置かれた棚から、何かを取り出したのを見た。その手に、鈍色に閃く光を見た。

 そして、独歩がステッキを持って駆けだすよりも、『それ』は速かった。

 キィン、と高い音を立てて、宙を舞ったペーパーナイフが床に跳ね返って落ちた。そして同時に、ナイフに喉を裂かれた小鳥の死骸が転がった。

 独歩が井戸の底で見た、灰色の小鳥。

「な、何……何なの?」

 信子は錯乱している。ペーパーナイフといえど、喉を突き刺せば人は死ぬ。だが、信子について回る『霊穴』は、怪奇を生み出してまでも、彼女を生かそうとする。

 それは、現時点で宿主となっている彼女に死なれたら困るのか、あるいは――。

「必ず、お迎えにあがりますので!」

 相川がそう叫び、立ち上がる。部屋の出入り口に向かって駆け出す。ハルを突き飛ばしてでも、一度逃げようと考えたのだろう。

 しかし、そこにいるのはハルだけではない。

「文士をナメんなよ!」

 花袋が相川の前に立ちはだかる。

 性格的にケンカに向かない花袋ではあるが、何せ身体が大きい。しかも一日で峠を越えて歩き通せるぐらいの剣客を持っている。

 庭師をしているくらいであるから、相川も体格は良い方であるのだが、花袋の渾身の足払いに、もんどりうって床に転がった。韋駄天の健脚の威力である。

「でかいだけじゃないぞ!」

「……結構根に持っていたんだね、君」

 心なしかやり遂げた顔で相川を押さえつける花袋に、さりげなく揶揄する藤村であるが、物理で役に立つかどうかで言えば確実に独歩以下である。あるいはハル以下か。

 相川は花袋に取り押さえられたまま、泣いていた。

 そこに、大澤の妻だという女中がそっと歩み寄り、彼の頭を優しくなでた。

「あの人が、貴方を息子のようにかわいがっていたことも知っております。お嬢様をお救いしたいのは、私たちも同じです。だけど、一人で全て負わなくても良いですよ」

 大澤の妻が宥めるその声を聴いて、信子も気が抜けたのだろう。その場にへたり込んだ。

「私は……どうすればいいの?」

 独歩はカツン、とステッキで床を鳴らす。

「信子、僕は『霊穴』の海外由来説を考えた時、君が海外から持ち込んだものに原因があるのではないかと推測していた。だが、君自身が『霊穴』の原因を背負っているなら、これは話が早いぞ」

「…………え?」

 わけがわからない、という顔をされた。当然だろう。

 信子だけではない、花袋も、ハルも、國男も、相川や大澤の妻でさえも、呆気にとられて独歩を見た。藤村だけはいつもと変わらないが、彼の場合は表情筋に難があるだけかもしれない。

 独歩は信子の元婚約者である。それも、手ひどい失恋をした。同棲までしたのに、彼女に逃げられた。

「信子、君は最高に運が悪くて、運が良い。僕にだからこそできる奥の手がある」

 月光とランプ。二つの灯りに照らされて、詩人であり、編集者であり、一人の文学者でもある国木田独歩は嗤った。

「最低で最悪で、最適の答えをお見せしよう。屋敷を出るのはそれからでも遅くはないさ」

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