第13話 縁切り榎の子守歌

 ハルに声をかけると、彼女は存外にすんなりと同行を快諾した。

「こういってはだが、岩の坂はあまり若い女の子が行くような場所ではないよ」

「文士が行くようなところでもないでしょう」

 彼女はそう、力強く言って見せた。

 この若さで長屋を切り盛りしているのもさもありなん、意外に芯が強いのだった。

「ひとつ気になることができたんです」

 列車に乗って板橋まで移動している間、ハルはおもむろに切り出した。

「以前、独歩さんが『怪奇』は、『霊穴』によって起こる『現象』であって、そこに意思はないって言ったでしょう? でも、『怪奇』に憑かれた人間が、死んだ後も霊として留まっている場合は、違うんですよね?」

「そうだな。僕は『見える』し、ハルちゃんは『聞こえる』霊感だ。実際、以前の事件でも『怪奇』として留まった霊には遭遇したことがあるし、信子の事件だって人間の意思が『怪奇』に作用して起こったものだったと推測できる」

 佐々城信子邸の事件では、近場にいた霊感もちの人間が、『怪奇』を無意識に引き起こしていた。『霊穴』発生源になりかけた信子と、霊感を持った使用人を屋敷から離れさせることで、『怪奇』は消失している。

「縁切り榎は、女性との相性がいいとすると、間接的にハルちゃんやウメ子を通して歌や写真という形で訴えた。だが、榎はあくまで植物であり、霊的な『場所』だ。その現象を起こしているとしたら、生死はともかく人間の意思がある、と考えられる。写真に映った子供か、あるいは子供について何か訴えたいことがある霊感の持ち主が近くにいたか、だな」

 基本的に、死者よりも生きている人間の方が意思は強い。縁切り榎は『霊穴』ではない。とすると、あそこまではっきりした『怪奇』を起こすなら、生きている人間の意思と考えた方がいい。

 あるいは、独歩たちが見ていないところに、強大な『霊穴』がある場合。この線は薄いだろう。そんな大規模な『霊穴』ができているなら匂いや気配で霊を察知する花袋や藤村の霊感が反応しないのは、あまりに不可解だ。

「ハルちゃんの考えていることは、多分正しい。あそこには、例の怪しげな産院がある。坂本の話があの産院にも繋がっているとしたら、子供の行き先はろくでもない。それを阻止したいという人間の『意思』が、霊感を持っているハルちゃんにわらべ歌を聞かせて、ウメ子の写真機を通して子供の幽霊を見せてきた、と考えられる。問題は、誰がという話だな」

 収二は難しい顔をして、腕を組んでいる。恐らく、思い出しているのはあの里子を預けて行ったユイ子と名乗る娘のことだろう。

「あの場所で泣く泣く子供を手放した母親たちの念が、積りに積もったとか」

「愛弟、貧民窟でそれは、少し理想論がすぎるんじゃないかね。喜び勇んで子供を売る、ろくでもない親だってたくさんいるだろう。たまたま僕らが見つけたのが岩の坂だったというだけで、恐らく子供を農村の働き手やからゆきさんとして売り飛ばすための窓口は、至るところにあるんだ。この帝都に、一体どれほどの貧民窟があることか。貧民窟だけが子供の『仕入れ先』とも限らない」

「じゃあ、亡くなった子供の無念、でしょうか」

「それもどうかな。一ヶ月だ。あの産院に預けられる子供は、生まれたばかりの乳飲み子か、せいぜい物心つく前の幼児だろう。何せ『産院』だからな。恐らく、赤子専門だ。そんな赤子がいくら集まっても、人並みの意思を持てるものか? 人間、七歳までは神の子だ。生きていく以外の関心ごとなんてあるとは思わない」

 元々は宮中行事であった七五三の風習は、明治時代になってから庶民の間にも広まった。医療は日々進歩しているが、未だに幼子は死亡率が高い。

 三歳、五歳、と歳を重ねて、七歳を越えればそこそこの子供は生き延びる。逆にいえば、七歳以下の子供なんて、いとも簡単に死んでしまう。だから七歳までは、子供は神様のものであるとする。

 プロテスタントを信仰する独歩であるが、子供の命を大切にするこの神事は、好ましいものだと思う。

「貧民窟と言っても、誰も彼も荒んで生きているわけではないさ。密かに子売りを苦々しく思っている人間がいても不思議ではないし、貧しい生活から抜け出したい、そういった思いが『縁切り榎』という霊的な場と結びつくのは、そうおかしな理屈でもないだろう」

 収二とハルは、どこか納得しきれない様子だった。独歩も、これが正解だというつもりはない。

 そもそも、大規模なではないから紛れてしまっているだけで、花袋や藤村の気がつかないような小さい『霊穴』があちこちに潜んでいるのだとしたら、あの貧民窟を独歩が目を皿のようにして見て歩く以外に原因を突き止めようがなかった。そして、そこまでする価値はない。弱い『霊穴』なら自然に発生しては消えることもままあり、強い『怪奇』が生まれない限りはさしたる害もないからだ。

 あの貧民窟で、一人や二人、変な死に方をしたところで、誰が何を疑問に思うだろう。そんなことを調べて回るのは、無駄足もいいところだ。きっと、記憶しているものもそう多くはあるまい。

 途中、花袋と藤村と合流するため駅に降りて、そこからは二人ずつ俥に乗った。ハルを一人にするのは忍びないので、身体の大きい花袋に一人で乗ってもらう。なんのかんのと文句をつけられたが、人力車を引く車夫の気持ちを考えれば、公正な采配であろう。

「独歩さん、貧民窟って、子供は全員売られてしまうものなんでしょうか」

 ハルがぽつりと呟く。

「いや、そんなことはないさ。貧民窟にだって子供を大切にするやつはいるだろう。稼ぎ手になるだろうし。花袋なんて、父を亡くして子供の頃から奉公に出ていたんだぞ。お坊ちゃんの僕には真似できまい。大したやつだとも」

 そこまで言ってから、ふと独歩は岩の坂で出会った少年のことを思い出した。独歩の財布をすろうとした、亀太郎と名乗った子供。妹の名はお鶴だったか。

 貧民窟であれど、子供は生まれるし育つ。子供がいるのは不思議ではない。貧民から路上で行商の手伝いをして、家族の食い扶持を稼ごうと奮闘する子らもいる。暮らしが貧しいからといって、心まで貧しいものばかりではない。貧民には貧民なりのコミュニティがあるものだ。

 だが、あの子供は産院の事情を知っていた。あの産院に、子供を売るのを生業とする場所に、はたしてまともに子供を育てる気があるのだろうか。少なくとも、子供の養育費を取っているなら、岩の坂に住みついた他の貧民よりは金を持っているであろう。

「独歩さん……? どうしました?」

「いや……、岩の坂で子供に会ったのを思い出していた」

「その子が『怪奇』の原因だと思うんですか?」

「そうは言い切れないが……、縁切りの榎の幽霊写真に写ったのは、恐らく五歳かそこらの子供の影だろう? だけど、子売りされるは基本、赤子だ」

 それなりの歳になっていれば、それこそ丁稚奉公に出すか、郭に売られて将来的には遊女にするべく禿をさせられる。それこそ、からゆきさんとして売られる幼女もいるであろう。

 亀太郎も、お鶴も、売るには年齢を重ねていて、奉公にも出されていない。亀太郎が産院の内情を知っているとすれば、産院で働かされているのではないか。子供が、子供を売るのを見せられているのか。

「あまり穏やかな話にはならなさそうだ」

 苦虫を噛み潰したような思いで呟いた独歩を、ハルは何も口を出さず、ただ少し悲しそうにうつむいていた。



 縁切り榎には小さな社が設置されている。鳥居も建てられていて、ここだけ見れば土地神の一種として考えてもいいように思える。

 単純に土地が狭いこともあってか、縁切り榎を祀る社の境内には、貧民窟の人間は入り込まない。

 時折、老若問わず女性が訪れては、榎を拝んで去っていく。縁切り榎は、それこそ貧困層との間を切り分けているかのように、そこに存在する。

 独歩、収二、花袋、藤村、そしてハル。収二以外は全員霊感持ちというこの面々であるが、五人も集まれば境内は満員である。それくらいに狭い。

「ハルちゃん、何か聞こえるか?」

「いえ、今は何も……」

 ただ、涼やかに風に揺れて木の葉が囁く。それは人の声にあらず。

 独歩の目には何も写らない。写真に写っていたような子供の影も、『霊穴』や『怪奇』の類も。花袋と藤村に目配せして見たが、二人で顔を見合わせたところを見れば、彼らも何一つ感知できていないようだ。

「さて、どうしたものか。オカルトの件は、あの幽霊写真を元に記事を立ててしまえば、それなりに目は引くだろう。問題は、子売りの件をどう詰めるかだな」

 境内から、岩の坂を見る。地べたに座って金を乞う者あり。あばら屋の戸を開けて光を入れながら、籠を編んでいる者あり。何をするでもなく濁酒の瓶を持ってふらふらとさ迷い歩く者あり。

 その時、見知った顔が坂道を登っていくのが見えた。

 小さな体で、今にも壊れそうな手桶を抱えて、よたよたと歩いている幼い少女。

 独歩は一人境内を出て、彼女の隣に立つ。

「やあ、お鶴ちゃんじゃないか」

「ひゃっ!」

「おっと、危ない」

 驚いて落としかけた手桶を支える。どうやら、牛乳が入っているらしい。

(赤子のためのものか。それにしても、こんな不衛生な手桶で運んだ牛乳では、赤子が飲むにしてもこの子が飲むにしても哀れだな)

 そもそも、かけそば一杯も食べられない家の子供が、牛乳を買う金を持っているだろうか。譲ってもらうか、盗むかしたのかもしれない。生きていくためとはいえ、こんな幼い子に酷い真似をさせるものだ。

「今日はお兄さんの亀太郎君は、一緒じゃないのかい?」

 独歩の問いかけに、お鶴はすぐに答えなかった。ビクビクとしている。これは大人に強く叱りつけられている子供の顔だ。

 昔、教師をやっていた頃、たまにこういった子供をみかけた。大体、親が大酒飲みであるとか、博打打ちであるとか、ろくでもない環境にいた子供だ。

 素面の時がほとんどない、荒くれた大人にずっと威圧され続けると、子供はいかに叱られずに済むかを考えるようになる。そうして大人への恐怖と不信を心に刻んで、自分自身も荒んだ道を歩いていくことになる。

 それが貧困の連鎖だ。

「質問を変えよう。君は、大人に知られずにお兄ちゃんとかけそばを食べることができたかな?」

 お鶴は少しだけ顔をあげた。そして、遠慮がちにこくりとうなずく。

「それは良かった」

 にこりと笑うと、彼女は小さな声で「ありがとう」と答えた。この環境で育っても、かけそばの代金を払ってくれたのが目の前にいる大人だときちんと察して、お礼を言うことを知っている。賢い子だ。

「もうひとつ、聞こう。君は……助けてほしいかい?」

 少女は答えなかった。

 ただ、サッと顔から血の気が引いた。触れてはいけないものに、うっかり触ってしまったかのような。

「あたし、あたし、しらない! お兄がおこられる!」

 そのまま、牛乳の入った手おけを持って、よたよたと歩き出す。

 独歩は引き留めなかった。彼女の後ろ姿を見て、物思いにふけった。

 彼女が逃げ出したとして、叱られるのは兄の亀太郎の方。恐らく、亀太郎はお鶴を守るために彼女に乳をもらいにいかせた、と推測できる。そして、それは幼い彼女でも察せるほどに日常的なできごとである、と。

 産院での生活ぶりが垣間見える。

 お鶴が坂道を登りきって、ようやくあばら家の内に姿を隠したのを見届けた。

 さて、どうするべきか、というわけだが――。

 その時だった。強い強い風が、後ろから駆けていく。

 帽子をさらわれそうになって「おっと」と押さえつけて、振り返る。

「独歩さん!」

 ハルが叫んだ。

 彼女の後ろ、縁切りのいわれを持つ榎がざわついた。彼女の肩の向こう側、榎のたもと、独歩は確かに見た。あの幽霊写真のように、いや、幽霊写真でみたよりもはるかにたくさんの子供たちの黒い影が、ゆらゆらと蜃気楼のように漂っていた。

「あの子たちがいたところです!」

 ハルは続けた。

「ここは大丈夫です。ここまで来れば、大丈夫です」

 彼女の言葉の意味を考えるよりも先に、身体は動いた。

 ハルを信じる。ハルは優しい娘だ。だから、彼女が言うのだったら、恐らくそれは『今できる中でも最善策』と思えることに違いない。

 だから、降嫁する姫君にすら避けられた縁切り伝説よりも、今はハルの言葉を信じる。

 あの子供の幽霊は、幽霊写真に出た黒い影は、あの場所に囚われている怨念などではない。

 縁切り榎は『怪奇』の原因にあらず。

 真に恐るべきは人間の悪意。人間の狂気。

「藤村はハルちゃんを頼む!」

 独歩は叫び返し、藤村がうなずいたのを確認する。そして、残りの二人を促した。

「花袋、収二! 坂の八分にある家だ! 例の『産院』を名乗るあばら家を探るぞ」

 彼らも迷わなかった。すぐに走って、独歩に追いついた。

 ――一ヶ月は預かる。

 亀太郎はそう言ったが、一ヶ月しっかりと赤子の面倒を見るなどと言っていなかった。元より、赤子など少しのきっかけでたやすく命を落とすものだ。だから七歳までは神のもの、七歳をすぎて初めて人間として生きていく、などという風習が生まれた。

 一ヶ月で生き延びられなかった赤子は、一ヶ月後に貰い手が見つからなかった赤子は、一体どうなるのか――。

 産院の戸口に手をかけたが、鍵でもかけられているのか、なかなかあかない。

 そこで花袋が、前に出る。

「独歩、収二、後ろに避けてろ!」

 他の家よりましといっても、所詮は貧民窟のあばら家である。岩の坂産院の扉を、花袋は渾身の力で蹴破った。中で「なんだ⁉︎」と、男が驚きの声をあげたのが聞こえる。

「お邪魔するよ」

 花袋の蹴破った戸口の残骸をステッキで叩き崩しながら、独歩はずかずかと中に入り込んだ。

「おい、待て、先にいくなって」

「兄さん、気をつけて」

 独歩よりも背の高い二人は、突き破った戸口の穴を潜り抜けるのに、やや難儀しているらしかった。まぁ、広くもない家だからすぐに追いつくであろう。

 中は狭く、陽もろくに入らず薄暗く、産院とは名ばかりでお産をするための場所や、衛生器具のひとつも見当たらず、当然のように赤子のために用意されたと思われるものもなく。

 奥の間に続く扉を引いた時、独歩がまず見たものは赤子の首に手をかけた壮年の痩せこけた男と、地面にうずくまっている亀太郎、そしてそれにとりすがるお鶴の姿だった。

 そしてその奥に、それはあった。暗い、暗い穴。

 壁に、いくつもの小さな穴があいていた。

 何も見えない、どこにも繋がっていない無数の漆黒の穴から、手足が伸びていた。短い指、丸くてずんぐりとした赤子の手足が、まるで百足の足のように蠢いている。

「うっわ、すげえ臭い」

 後ろで花袋が呻き声を上げる。彼も気が付いたのだろう。収二だけは目の前にある、霊などとは無関係に存在する痛ましい光景を、どこか悔しげに睨みつけていた。

「てめえら、どこから入ってきやがった」

 男が声をあげる。動じることもなく、独歩は答えた。

「もちろん、玄関からだとも。立て付けが悪いから多少乱暴な手で入ったことの非は認めるがね。まずは赤子の首から手を離したまえ」

 ステッキをカツン、と鳴らした。その度に、穴から生えた赤子の手足が蠢いた。

「そうか、ここが出元か。『霊穴』があっても、『怪奇』にならなかったのは、ここで多少のおかしなことがあっても、気に留める人間が少なかったから。それと、縁切り榎のご利益といったところだな。あそこより先にはいかないから、誰も『怪奇』だと思わなかったんだ」

「何をわけのわからないことを言ってやがる!」

 男の意識が赤子からこちらに向いた。赤子から手が離れている。この好機を逃すのは惜しい。然るべきは。

「亀太郎、お鶴、赤子を連れて榎まで逃げろ!」

 うずくまっていた亀太郎がハッと顔を上げた。赤く腫れた頬で、涙に濡れた目で、それでも彼の瞳は輝いていた。

 その輝きは命だ。未来だ。可能性だ。

「さあ、行け!」

 亀太郎が立ち上がる。赤子を抱える。お鶴も慌ててそれを追いかける。

「てめえら!」

 追いすがろうとする男の横腹を、革靴を履いた足が蹴り飛ばす。

「貴様の相手はこっちだ!」

「収二」

 呼びかけた独歩が何かをするよりも早く、収二は男の膝裏に二撃目を放っていた。バランスを崩した男が倒れたのを見逃さず、今度は手首を足で踏みにじる。

「僕と兄さんの手をここまで煩わせたこと、しっかり反省してもらう」

「……こっわ」

 静かに男を押さえつけるのを手伝いながら、花袋が小さな声でぽつりとぼやく。

「いやいや、収二にしては今までよく我慢したと思うぞ。こんな温厚な顔をしているが、僕よりも短気だからな、入った瞬間に蹴りを入れていてもおかしくなかった」

「そこまで自制心がないと思っていたの、兄さん。心外だなぁ」

 いつものいかにも温厚そうな笑顔に戻りつつ、収二はさりげなく男の手首をもう一度丁寧に踏みにじる。男の呻き声が低く地を這ったが、聞く価値もないだろう。

 むしろ問題は、この産院もどきにできてしまった霊穴である。

「僕は『霊穴』が見えるが、この穴をどうにかすることはできないし、除霊することもできないんだよなぁ」

「やっぱここ、『ある』のか?」

「君だって、鼻が曲がりそうになっているんじゃあないか?」

 男を押さえ付けたまま、花袋が後ろの壁を振り返った。彼にはただの壁に見えているのかもしれない。彼の霊感は臭いに反応する。目で見ることは得意ではない。

 あがくように蠢く赤子の手足。恐らく、この男に殺されてきた、あるいは見殺しにされてきた、無数の罪なき命。

 この産院を取り潰したところで、『霊穴』がすぐに消え去るわけではない。岩の坂から貧民窟が消えて、誰も何も気にかけずに通り過ぎるような明るい坂道になる日がくれば、いつしか自然となくなるかもしれないが、それは何年先のことかもわからないのだ。

 ただ、ひとつひとつの穴は小さいから、この産院がこれ以上悪さをしなければ、広がることはないだろう。

「赤子に言葉が通じるかはわからないが……君たち、僕についてくるといい。収二、花袋、そいつは岩の坂の交番に突き出す。頼まれてくれるか。僕は僕なりに、ここの『怪奇』を何とかしよう」

 ステッキをカツン、と鳴らす。赤子の手が『霊穴』からぞろぞろと、百足の如く連なり、伸びて、地を這い、伏せさせられている男の背中の上を走り。

「ぎゃああああ!」

 男が叫んだ。赤子なりに、彼の背に積年の恨み辛みをぶつけていったのかもしれない。自業自得であろう。

「かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に」

 わらべ歌をを口ずさみながら、独歩は再び狭い戸口を潜り抜け、外に出た。

 この歌を選んだことに、さしたる意味はない。ハルが聴いたというのだから、きっとその歌を知っている子供もいるのだろうと思っただけだ。

 後ろを見る。赤子の手足が、ぼんやりとした黒い影となって、ハイハイをはじめた子供のように、よたよたと独歩の後を追ってくる。

 そのさらに後ろから、花袋と収二に拘束された男が、産院から引きずり出されるのを見た。

 ゆっくりと坂を降りる。やがて、坂道の下に藤村とハルが手を振っているのを見る。彼らのもとに、赤子を抱いた亀太郎とお鶴とが立っているのも。

「鶴と亀がすべった、後ろの正面、だあれ」

 振り返った時には、無数の子供の影があった。

 赤子から少年、少女と呼べる歳の子供まで。小さな縁切り榎の境内へと走り出して、元から境内にいた子供たちの影と手をとりあって、輪になって遊び始める。

「独歩さん、何が見えますか?」

 榎のたもとまで戻ってきた独歩に、ハルは尋ねた。

「そうだね、なんといえばいいのかな。縁切り榎に育てられた、子供たちが遊んでいるのが見える」

 悪縁切りの縁切り榎。この榎は、縁切りの神様であると同時に、良縁を結ぶ神様でもある。

 恐らく、子供の大きさはこの場所にとらわれていた年月。

 亀太郎やお鶴のように生き延びることもできず、売られることもなく死んでいった、何年も前からそういうことが続いていた。

「多分ね、ここは縁を待っている子供たちを、守るための場所なんだ」

 ハルが聞いたわらべ歌は、縁切り榎の子守唄だ。

 悪縁によって命を落とした魂を守り、良縁を結び直すための、夜明けを待つ子供たちのための子守唄。

 籠の中の鳥も、いつかは出やる。

 新しい縁を見つけるための、榎が守る神域で彼らは遊び、歌って、そして願っていた。

 ――どうか、悪縁に命を落とす子が一人でも減りますように、と。

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