第7話 最悪にして最適なる醜聞
――最低で最悪で、最適な回答。
その場にいた誰もが彼を見た。花袋などの旧知の友人たちも、かつての恋人であった信子も、特に懇意なところはなかった相川や大澤の妻でさえも、呆然として国木田独歩の姿を見た。
窓から差す月明かりが、ほのかなランプの灯りが、幽玄に、あるいは荘厳に彼の影を作った。闇に溶ける闇色の上に、彼は立っていた。
「結論を急ぐ前に、まず僕の仮説を聞いて欲しい」
独歩は、まずそう切り出すことにした。
「先程、國男には疑問を呈されてしまった『怪奇が海の向こうよりやってきた説』であるが、やはり僕は一定量の信用に足る説なのではないかと思う」
花袋たちはともかく、信子たちには事情が把握できないだろう。彼女らは困惑を深めたようだったが、花袋いは何か思うところがあったようで相川を抑えていた手を離した。じっと、独歩を見つめる。
「根拠になりそうなものが見つかったか?」
「確信的なものではないがね。だからこれは、あくまで仮説ということで聞いてくれたまえ」
カツン、とステッキを鳴らす。
それが合図のように、どこかであの鳥の声がした。実体のない、怪奇によって作り出された何者かの代弁者。
「花袋やハルちゃん、島崎はどうか知らないが、僕は生まれつきの霊感持ちではない。僕が怪奇的なものを見るようになったのは、比較的最近のことだ」
「んん?そうなのか?」
國男が首を傾げる。霊感が欲しくても避けていくところがある彼にとって、後天的に霊感が備わるというのは、ある意味希望であるのかもしれない、などと思いもした。
「最近と言っても。君たちと知り合う前の話さ。いつのまにか見えるようになった、と思っていた。だけど違った。よくよく考えてみれば、見えるようになったきっかけがあったんだ。信子、君も知っていると思うが……」
信子よりも先に、花袋が気づいたようだった。丸眼鏡の奥にある彼の眼差しに、強い光が宿る。
国木田独歩、いや、本来の名前である国木田哲夫の名前を、世に知らしめたものは何か。
遠い海の向こうから、弟に手紙を送り続けたあの――。
「戦争への従軍か……!」
「その通り。僕は戦艦千代田に乗って、海を渡った。信子と会ったのも、日本に帰った後、戦勝祝いに、軍の関係者を集めたパーティーでのことだったな」
日清戦争中、独歩は従軍記者として戦艦に乗った。従軍記者であるから、道中のほとんどは船の上で過ごしていたが、ある意味では海外に出たとも言える。
「怪奇が海の向こうからやってくるなら、この屋敷には戦艦に乗って海からたくさんの『霊穴』の元になるものを持ってきた人間が、一同に会していたことになる」
地理的には、佐々城家に『霊穴』が発生しそうな要素はない。信子自身はさほど後ろ向きではないし、醜聞に心を痛めていたとはいえ、佐々城の両親はさほど悲観的な人間ではなかったはずだ。それは、信子との婚約を巡って散々やりあった独歩も、よく知っている。
しかし、佐々城家は海軍と繋がりを持っていた。その上、キリスト教に親しんでいた。屋敷に使われている調度品は海外渡来のものが多く、外国帰りの客人も多かっただろう。
そういった積み重ねによって『霊穴の種子』とも呼べるものがこの屋敷の中に滞留していたのだとしたら、信子の渡米と帰還によって、一気に霊的な力が強まったのだとしても不思議ではない。
「だが、それでも帝都にだけ怪奇現象が発生する論拠には乏しいぜ」
國男が指摘する。口ぶりに反して、彼の声音には否定するような色はない。難しい顔をして何やら考え込んでいる。自分の知識と照らし合わせているのだろう。
あくまで佐々城家の怪奇に関する仮説であるから、俯瞰してみれば独歩の理論に穴があるのは当然のことだ。ただ、独歩もまるで考えていないわけではない。
「それについては、僕は帝都にはある種の概念が存在しているのだと思う」
「概念?」
「そうとも」
鸚鵡返しに聞きかえしてきた國男に、独歩は鷹揚に頷いてみせた。
「帝都は政治の要。そして皇居もある。日本の中心だ。人がたくさん集まる。人が集まれば、そこにはたくさんの想念が渦巻く。そこには、負の感情も多々あろうさ。そうして『霊穴』が生まれ、怪奇が発生する」
帝都における『霊穴』の発生条件は、おおむね人々の持つ『畏怖』や『恐怖』に紐づいている。となると、極端に人の住んでいないただの野山であるとか、人のうわさに上ることもないような場所では発生しない、と考えてもいいだろう。人の感情が、怪奇を呼ぶ。怪奇は現象で、現象は観測されなければ認識されない。
「度々怪奇が起こるようになれば、人々はこう考える。『開国してから、帝都は恐ろしいことがおこるようになった』とな。そして、噂は伝播する。人々は開国と帝都を結びつけ、帝都だからこそ怪奇が起こるという概念を作り上げるというわけだ」
全ては『帝都で怪奇が起こる』という感情の積み重ね。
そこに海外由来の『霊穴の種子、卵』と呼べるものが、絶えず持ち込まれる。
その二つの組み合わせで、あたかも『帝都』という場所そのものが、怪奇の発生源であるかのように錯覚する。
「……帝都内で怪奇現象が起こっているのではなく、人々がそう思い込んだことによって結果的に帝都に怪奇が集中しているということか」
國男は、ようやく腑に落ちたようだった。独歩は得意げに鼻を鳴らす。そのスジの専門家のような人間を納得させるというのは、少なからず気分が良いものである。
「一応、あくまで仮説であるから、話半分に聞いておいてくれたまえ。君の好奇心には物足りないかもしれないが」
さて、ここからが本題である。怪奇の原因究明は本筋ではない。あくまで、信子の持つ『霊穴』になりかかっている何かを、無害にすることが重要なのだ。
独歩は、あっけにとられている様子の相川に歩み寄る。
「相川君、少しばかり聞きたい事がある。君は霊感が強そうであるが、あの怪奇現象と思しき鳥の声を聞いた時、君は常にこの屋敷にいたのかい?」
「それと怪奇現象に何の関係が?」
相川のかわりに、花袋が尋ねた。いざという時、また彼が逃亡を企てないように気を貼っているようだ。
彼の感情を逆なですることが目的ではないから、独歩もあくまでゆっくりと、落ち着いた声音で語る。
「先程、推測を述べた通り、怪奇というのは人の感情に影響を受ける『現象』だ。死んだ人間の霊魂が残ったとして、生きている人間よりも強いなんてことはまずない。だから、鳥の声を作り出したのは、恐らく君の感情だ」
「私は……怪奇現象など何も……」
相川は弱弱しく答える。かわりのように、藤村が「ああ」と納得したように頷いた。
「独歩君に花袋君、僕とハルさん。そして、相川さん。これだけの霊感持ちがいれば、全く霊感のない國男君にも聞こえるわけだね」
國男は全く霊感がない。かけらほどもない。屋敷にきたのもこれが正真正銘、最初だ。周りに霊感もちが多いことを差し引いても、急に霊感が宿るとは考えづらい。海外由来説が真とするならば、なおさらだ。少なくとも、彼は独歩たちと知り合ってから、日本を離れていない。
「霊感持ちと怪奇に多少の因果があるのだとしたら、相川君は無意識に信子に、この屋敷から離れる理由を作ろうとして、鳥の声を発生させていたのではないか?」
「だけど、私には鳥の声に心当たりなど……」
「本物の鳥が鳴いているわけではないのだから、きっかけは何でもいいのさ。単純に、屋敷の内部で怪奇が起こるよりも、外から聞こえてくる方がいい。そういう心理が、庭に親しんだ君によって鳥の声という形をとった、とも考えられる。それに、この点はさほど重要でもない」
ステッキをもう一度カツン、と鳴らす。
思考の切り替えだ。最も重要な決断は、時に混乱と拒絶を生み出す。世間的に見て、決して褒められないやり方ならなおのこと。
「相川君は、信子を屋敷から出すことで、怪奇から遠ざけようとした。それは対処としては正解だ。今、『霊穴』は信子の方にあり、この屋敷とは結びついていない。『霊穴』がなければ、ここはただの西洋屋敷だ」
「でも、それなら信子さんの行く先はどうなるんですか?」
ハルが不安げにそう尋ねてくる。信子も、そこが一番気になっているのだろう。不安に押しつぶされそうな眼差しを独歩に向けた。
「怪奇は帝都で起こる。帝都以外では起こらない。少なくとも、帝都以外ではよほどのことがない限り、怪奇と人の感情を結びつけるほどの概念は生まれない」
もちろん、全く前例がないわけではなかろう。元々日本には、各地で魑魅魍魎、妖怪伝説が多々存在するわけで、帝都独特の『霊穴』と『怪奇』がそれらとイコールであると考えられる可能性は低い。
「問題の主軸は、この屋敷が人々の概念と結びつかないようにすることだ。鳥の声は、恐らく信子と相川君が屋敷を離れればおさまる。屋敷の人間の不審死も途絶えよう」
信子を家から出すだけでは、怪奇の原因を完全に取り除くことができたとは言い難い。人は推測する生き物だ。しかもそれは、度々悪い方向へと傾く。
「信子がこの家を離れた理由が『怪奇』にあると噂に上れば、この屋敷はその噂によって本当に『霊穴』となる可能性がある。それは避けたい。ほとぼりが冷めてもこの家に帰れなくなるし、いざという時資産として売れなくなる」
権力者であった両親は亡く、家を継ぐ長男は渡米中。長女の信子はこの屋敷にいられないとなると、残るは信子の妹だ。佐々城家を維持しろ、というのは無理がある。
それならば、この屋敷はなるべく怪奇の噂から遠ざけて、変な噂が付く前に売りに出すか『霊穴』の発生が起こらない程度に、人々の関心が薄まるのを待つべきである。
それには、すでに起こっている両親の死や、自殺とも事故ともとれる使用人たちの死を、信子や屋敷の怪奇と結びつけないように画策しなければならない。
「そこで、信子に相談というわけだ。もちろん、君には拒否権がある。僕だってこんなことは気乗りしない。だが、この方法を使えば間違いなく怪奇そのものからは目をそらせるだろう。そのための最低で最悪な僕の回答だ」
独歩は見つめた。
かつて燃えるような恋をした女。
今は――さすがに、恋の炎を燃やすことはないし、正直恨みがましい気持ちが一切ないわけではないが、別に不幸になってほしいわけでもない。
「話を聞きましょう。どんなに醜悪なものでも、それが本当に最適解であるのなら、私は私の運命に従います」
真っ直ぐに、毅然として立つ信子の姿は、かつて心を奪われた時と同じくらいには美しかった。
◆
数日後、書店の軒先はにわかにざわついていた。一人の若い娘が人だかりをかきわけて、その雑誌を手にする。表紙に書かれた題字を見て「あっ」と声を上げる。
とある婦人誌の増刊号が出ていたのだ。人気の雑誌であったが、今まで彼女はそれを読んだことがなかった。編集者が気に入らなかったからだ。
しかし、その時ばかりは購入した。動かぬ証拠として突きつけるためにである。
「国木田独歩! よくもこんな真似を!」
娘は鎌倉の街を駆けていく。姉の婚約者を連れて、今すぐ帝都に戻らなければ。
彼 女が手にした雑誌には、こう書かれていた。『増刊 上流社交画報 特集・佐々城家の醜聞に見る社交界の現在』と。
◆
独歩は、ちょうど仕事が空いたという花袋と、事態の成り行きを心配したハルとを伴って、佐々城家の屋敷を訪ねた。仕事が終わったので、挨拶をしに来たのである
軽く野次馬が湧いていたから、相川に頼んで裏口から入れてもらった。
「悪いな。大切なお嬢様をあんな風に書き立てて、君はさぞ気分を害しているだろうが」
「いえ……必要なことと理解しています」
そうはいいつつも、相川の表情は固かった。
彼はすっかり身支度を整えて、すぐにでも出立できそうな姿である。霊感を持っている以上、信子が去っても自分がここにいれば影響があるかもしれない。彼は他の使用人よりも一足先に、暇を取ることになった。聞けば、佐々城家親戚筋の家で、庭師の仕事を続けるという。
相川はふと立ち止まり、独歩を振り返った。
「大澤さんの遺体をご覧になったでしょう」
「ああ、あの笑っている遺体だな。なかなかに凄惨だった」
独歩はさして怖がる風でもなくそう述べたが、横にいた花袋とハルは顔をしかめた。できれば思い出したくなかったに違いない。
「何故……笑っていたと思います?」
「ん? 怪奇の影響ではなく、ってことか?」
花袋は不可解な表情になって、微かに鼻をひくつかせた。
「前に来た時は変な臭いがしたけど、不思議と今はそうでもないんだよな」
「通夜は終えましたし、私もお嬢様ももう家を離れますから、屋敷に怪奇の気配が薄れたのかもしれませんね」
相川はそう述懐した。独歩は何も口を出さない。
ハルは続きが気になるのか、物言いたげな様子で独歩と相川とを見る。
語りたいのは相川なのだから、独歩は自分の無粋な推測を入れるつもりはない。その役割はすでに果たした。彼の気がすむように、せいぜい聞き役に徹することにする。
「大澤さんは……奥様もですが、前の仕事を失って困っていた私を、口利きしてこの屋敷に雇い入れてくれた恩人です。信子お嬢様のことを、大切にしておられました」
ぽつぽつと、彼は花の種でも植えるように、語る。
「私は国木田さんとの婚約が破談になったことは後で知ったのですが、その際にご両親とお嬢様の間で不和があって、心を痛めておられたようです。意に添わぬ結婚を強要されて渡米することになった時も、それはそれは心配されておりました」
「実は、僕は大澤氏とは多少面識があるのさ。家に入れる手引きをしてもらったこともあった。信子にフラれた時には、だいぶお説教も頂戴したがね」
冗談めかしてそう言ってやると、相川は少しだけ困った様子で目をそらした。大澤から、愚痴のひとつでも聞かされていたのかもしれない。
「現在の婚約者である武井様と懇意になり、勝手にそのまま船で日本に帰ってきた時も、旦那様と奥様は大変なお怒りでしたが、大澤さんはそれでお嬢様が幸せならばと歓迎していました。大澤さんのご夫妻は子供に恵まれなかったそうで、己の子のように感じていたのでしょう」
相川は、玄関ホールに続く廊下へのドアを、開けるかどうか迷っている風にも思えた。この扉を開けるということは、この屋敷との別れでもあるからだ。
だから、彼は今語れるだけのことは、語っておきたいと思ったのかもしれない。
「大澤さんは、自分でシャンデリアを落としました。手助けは奥様がされました。自分の中に凶悪な何かが棲んでいるようだと、しきりに訴えておりましたので、自殺といっていいでしょう。恐らく、先に死んだ方も」
井戸で女中が不審な死に方をし、大澤は自分の身に何が起ころうとしているのかを察した。そして少しずつ怪奇に飲まれていくこの屋敷から、信子を救出しなければならないと考えた。
信子が妹や婚約者と共に鎌倉に行ってくれればよかったのだが、責任感が強い彼女はそれをよしとせず、屋敷に残ってしまった。無理にでも、彼女を連れ出す必要があった。
信子を怪奇から遠ざけるために。これ以上、親しい人の死を彼女に見せないために。
「私は、遺体を片付ける役目を引き受けました。本当は、お嬢様がお出かけになっている間に全てを終わらせて、大澤さんは夫婦で暇をもらったのだと伝えるはずだったんです。私はお嬢様を、必ずこの屋敷から連れ出すことをお約束いたしました。その時、大澤さんは心から笑ってくださった。それならば何の心配もないと」
老人の遺体は、確かに笑っていた。凄惨な遺体が笑っているので、奇妙で不可解な不気味さをもっていたのだが、その笑顔には不思議と邪心を感じなかった。
怪奇に影響された大澤が、取り返しのつかないことを起こす前に自ら死を選んだ。そして、信子の幸せと、自分の不幸からの解放を祈って、心から笑って死んでいった。
あの笑みは、怪奇ではなく、彼の感情にとって生まれたものだったのだ。
「信子は愛されている。芯の強い女だし、心配いらないさ」
「そうだとしたら、大澤さんも浮かばれます」
相川は肩の荷が下りたような顔で、ようやく笑った。
やがて彼は意を決して、ドアを開け放った。そうして四人は、ついに佐々城邸の玄関ホールにたどりつく。
そこにはすっかり旅支度を整えた信子と、知らぬ顔の男、そしてできることなら会いたくなかった、やや知っている顔があった。
「国木田独歩! この厚顔無恥の男! よくもお姉様を愚弄してくれたわね!」
ヒステリックな叫び声に花袋は「うわ」と肩をすくめ、ハルは「ひゃっ」と声をあげて独歩の後ろに隠れる。
信子に似た面差しであるが、より神経質そうな顔だちをした十代後半の娘。彼女は――佐々城愛子。信子の妹だ。
「愛子、やめなさい。今回のことは、私も納得ずくです」
「でも、お姉さまは何も悪いことをしていないでしょう? そもそも、渡米だって無理矢理に……」
「そのことも含めて、国木田とは話がついているの。勘三郎さんには、事後承諾になってしまったけれど……ごめんなさいね」
見知らぬ男――彼は、現在の信子の婚約者である武井勘三郎であるらしい。体格がよく、日に焼けて色黒の肌、いかにも船長といった風貌だった。戦艦千代田に乗ったときに、船を動かしていた海兵たちの姿を思い出す。
彼は怒りというよりは、困惑を表情に宿していた。愛子があまりにも苛烈に怒り狂っているので、未来の妻の醜聞に対する義憤も砕けて消えてしまったのかもしれない。
帝都に怪奇あり、怪奇に人の噂あり。
良くも悪くも、帝都は人の感情にまみれている。人が集まれば噂が立ち、噂がたてば偽りも時に真となる。
だから独歩は、噂を用いることで噂を塗りつぶした。
元々販売する予定であった、社交界の時流に関する記事を載せた婦人誌の別冊に、信子の渡米と武井との恋愛による帰国と、二度目となる婚約破棄をスキャンダルとして特集した。
佐々城家当主の本支と、事実上佐々城家の実権を握っていた妻の豊寿の死は、度重なる長女の恋愛事件による心労が祟ったためである。その上、家の没落を悲観した使用人が、相次いで姿を消した。
上流階級では、まだまだ西洋式の社交術に不慣れな子女が多く、特に社交の表舞台に出る機会が少なかった女性の教育は危急の課題といえるが、姦通罪のあるこの国では、貞淑ならざる結婚が家の命運を左右することを自覚すべし。
これを、かつて信子に婚約を破棄された独歩が編集者として名を挙げて、書き立てているわけだ。
世間は当然ながら、これは国木田独歩の復讐であると考えるだろう。現在のスキャンダルに、過去のスキャンダルも上塗りすれば、最早怪奇の有無など有象無象の民衆には関心のないところである。
「僕も多少は名前に傷をつける覚悟でやったことだ。少なくとも、妹君が口を出すことではない。そこの婚約者殿には、少なからず申し訳なく思ってはいるがね」
澄ました顔で言ってのけた独歩に、愛子はますます怒りの炎を燃やした様子であったが、信子に再三にわたり「やめなさい」とたしなめられ、唇を噛みながら素直に従った。
「信子。たとえ、君が帝都に戻らなくても、世間は醜聞を恐れて帰るに帰れなくなった、としか思わないだろう。そして、怪奇の噂は忘れ去られる。相川君は口が堅かろうし、僕だってその点についてはもう、記事にする気はない。こんなことになってしまったからね」
スキャンダルというのは大抵の場合、当事者がその場にいなければすぐに風化する。
数年後には、ほとんどの人間が信子のことを忘れているだろう。思い出したところで、そこから怪奇を結びつけなどしない。
「もし、怪奇だのどうのと騒ぐやつがいれば、僕を捨てた君に対する、嫌味のきいた短編でも雑誌に載せてやろう。何、その頃には、僕の女々しさを揶揄するものがあっても、君は平気で暮らしていけるだろう。帝都の向こう側にいけば、若夫婦の恋愛遍歴なんて、話題になっても数日さ」
愛子はなおも物言いたげであるが、信子は苦笑を漏らしただけだった。今の恋人である武井を見て「いいですね」と穏やかに述べた。武井は何とも言えない顔をして、ただ静かに頷いた。
記事を書くにあたって、武井の素性も少しは調べた。信子の件で、彼は職を失っている。さすがに、名家の令嬢と恋仲になって、婚約を破談にしたのはまずかったらしい。しかも、信子と婚約するにあたって、妻子と別れを告げている。
つまり、恋愛事件に関しては、彼は大きなことを言えないのであった。
「僕は他人のものになった女に興味はないのでね。君が武井氏と見知らぬ地で幸せになっても、全くもって構わない。好きにしてくれたまえ。僕がかつて愛したのは、パーティーで小鳥のように歌う『お信さん』だからね。今の君じゃあないよ」
「……本当に、貴方って酷い人ね」
信子はくすくすと笑っていた。
その笑顔は、かつて少女だったころの彼女を想わせる。
「酷い人なのに、憎ませてもくれないのだから、私の負けね。大丈夫。私はこの方と添い遂げます。貴方といるよりもずっと幸せ」
「言ってくれるじゃあないか」
「貴方は、今の貴方に恋してくれる方を大切になさいな」
信子はハルへと意味深な目線を送る。
「わ、私はそういうのじゃないです!」
慌てて否定するハルを見て、信子は楽しそうに声をあげて笑いだした。武井や相川もつられるようにして笑い、愛子もついに毒気を抜かれたように、深いため息をつく。
「さようなら、恐らく二度と会わない貴方」
「さようなら、どうか元気で。神の祝福を。アーメン」
庭先には、野次馬がたくさんいる。武井と愛子が先に出て、人ごみを書き分けて道を作る。
信子は颯爽とその道を歩いていく。
決して振り返らない。
◆
相川を見送るついでに裏口から出してもらい、独歩たちは帰路を歩む。佐々城家の喧騒は、もうずいぶんと遠い。
「海外由来説をとるなら、お前が霊感を持って信子さんが『霊穴』を連れてきてしまった、その違いはなんだろうな」
何やら考え込んでいると思えば、花袋はずっと個人に発生する能力としての『霊感』と、個人を媒介にして場所に付く『霊穴』の差について考察していたらしい。
「信子は本来、快活な女だ。怪奇だって、屋敷で目の当たりにしなければ信じなかっただろうし、海外帰りに色々ひきつれていなければ、恐らく縁もなかっただろう」
「快活っていうなら、お前もだろう。自分で言っていたじゃないか。自信にあふれているから、霊感があっても怪奇がよりつきもしないって」
信子に適当なことを言ったのを、花袋はしっかりと覚えていたらしい。その場の勢いで語ったことだから、それこそ海外由来説異常に根拠はない。
「やめてください、花袋さん。独歩さんに怪奇が寄り付くんだったら、隣に住んでいる私は気が休まらないです……」
「確かに、僕に怪奇がまとわりついていたら、ハルちゃんは毎晩怪奇の音に悩まされてしまう。それはいけない。長屋を追い出されてしまうな」
「追い出しませんし、今のところ聞こえていないので安心してください」
ハルはぷりぷりとしながら、独歩たちよりも少し先を駆けていく。
彼女の後姿を見ながら、花袋はまだ何か思うところがある様子で、じっと独歩を見つめていた。
「そんなに見つめられたら、いくら男前の僕でも、さすがに照れるというものだ」
「お前は快活だけど、図抜けて明るいわけじゃない。俺が知っているお前は、失恋の痛みをいつまでも引きずって泣く男だし、金もないのに困っている人間がいたら助けるし、自分に傷がつくことを承知でもそれを背負っていく男だ」
「……それは褒めているわけかい?」
「たまにお前から、悲劇の匂いがすることがある。いつか、お前のその刹那的な生き方が、何かとんでもないことを引き起こすんじゃないかってヒヤヒヤする。だから、一応だな……その、気をつけろ」
「何だそれは、わけがわからないな」
だけど、独歩はいつものように鼻で笑って、軽く流すことはしなかった。
少し先で、ハルが道端に咲く花を見つけ、愛らしく微笑む様を見て、立ち止まる。
――彼女は、幸せな恋をいつ知るのだろうか?
「花袋、どこに行こうと、きっと僕には『霊穴』なんてついてこない」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「僕の持っている穴は、『霊穴』よりも深くて暗いからさ」
その時、花袋はどんな顔をしていたのだろう。
独歩は、あえて見ようとはしなかった。この親友が、それでもついてくるというのなら、それでいい。
ハルの元に歩みよって、花の一輪を彼女の髪に飾って、顔を真っ赤にした彼女を少しだけからかう。
「その深い場所に行く前に、俺が連れ戻せばいいんだな」
微かに聞こえたその声は、果たして花袋が発したものだったのか、自分の願望だったのか。
感情と怪奇が渦巻く帝都を、カツンとステッキを鳴らしながら独歩は歩いていく。
◆
佐々城信子は、武井勘三郎と妹の愛子を伴って、帝都を出た。そのまま、二度と帝都に戻ることはなかった。
武井との仲は良好で、彼が死ぬまで添い遂げ、娘を一人設けたという。
後に、有島武郎によって独歩と信子の恋愛事件、及び武井勘三郎との駆け落ちめいた帰国劇を題材にした『或る女のグリンプス』という小説が発表され、彼女の名が再び世間を賑わわせることとなった。
妹、愛子はこれに猛然と抗議をしたが、信子は「申し開きするようなことは何もありません」と毅然と振る舞っていたという。
有島武郎が書いた小説は悲劇であったが、彼女自身は農園や日曜学校を営みながら、長生きして健やかに暮らしたという。
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