帝都怪奇浪漫画報

藍澤李色

死告げ鳥のグリンプス篇

第1話 独歩社と龍土会

 その死体は、口元に笑みを貼り付けていた。

 階段の下で、上半身だけをこちらに向けて、逆さまの顔で笑っていた。

 老齢だ。髪の毛には白髪が目立つ。

 そして、下半身がない。

 引きずったのか転げ落ちたのか、ビロウドを敷かれた階段には、血の痕がこびりついている。

 国木田独歩は、その凄惨な現場を目をそらさず見つめていた。

 ちらと後ろを振り返ると、洋装の女と和装の少女とが、青ざめた顔ですがりつきあっている。

 独歩は洋装の女の方に、親指ひとつで死体を指し示した。

「……一応確認をしておくが、こいつは佐々城家の者か?信子」

「……し、執事よ」

 震える声で、それでも彼女、佐々城信子は毅然と振る舞おうと努力しているように見える。

「ふむ、これで三人目。さすがにこれは、偶然の事故とは言いかねるな」

「おい、随分落ち着いているな」

 隣で気味悪そうに遺体を眺めていた親友、田山花袋に、独歩は肩をすくめてみせる。

「慌てて人が生き返るものか。問題はこれが怪奇なのか、人の手によるものかだ」

「僕が気配を感じたのは、多分この人の遺体からだと思うけど……」

 怯えるでもなく、気持ち悪がることもなく、ただの少しもいつもと変わらない陰鬱な様子で、島崎藤村がそう告げた。

「ならば怪奇か? いずれにしても、僕たちはいつこの死体と同じ目にあうかもわからない状況というわけだな」

「わけだな、じゃあない! 危険だろう。全員でひとまず、この屋敷から離れるべきだ」

「いやいや、待ちたまえよ、花袋。このご老人の遺体を放置するわけにはいくまい。それに、怪奇の出所もまだわからない。怪奇が僕らについてこないと、どうして言えるんだ?」

「それはそうだが……」

 笑う老人の死体を前に、一進一退のやりとりは続く。

 その時、怯えていた少女は不意に顔を上げた。

「また、鳥の鳴き声がする……」



 時は明治三十年。

 文明開化から三十年も経てば、いびつな和洋折衷の光景も、もはや見慣れた日常の風景へと相成った。

 そして『文明開化』を揶揄するように『分冥開花』と呼ばれたその現象も、すでに世間を彩る娯楽と成り果ててしまったのである。

 泰平の眠りを覚ました蒸気船は、どうしたことか帝都に住まう魑魅魍魎の目も覚ましてしまった。帝都のそこかしこに『霊穴』と呼ばれる、冥府に繋がる穴が開き、そこからあらゆる怪奇が生み出されることとなったのだった。

 とはいえ、三十年である。

 人は慣れる生き物だ。もはや『怪奇』というだけでは、噂話のタネにしかならない。『怪奇』に怯えて帝都から逃げ出す者など、いるはずもない。

 いたとして、ある種の『現象』であるそれを、不必要に怖がって尻尾を巻いて逃げだすなど、恥ずかしくて口にできようはずがないのだ。

 つまり、今では帝都の怪奇現象は、ある種の娯楽なのである。エンターテイメントだ。

 話題性で言えば、キネトスコオプの活動写真にも劣る。

 しかして、活動写真を見られるのはごく一部であるが、怪奇は帝都の至る所に転がっているわけだから、庶民の娯楽としては怪奇話の方が適切と言えよう。

「だから、怪奇をネタに、ひとつ雑誌を作ってみようじゃないか。なぁ、いいアイデアだろう?」

 ――ここは零細の雑誌編集部『独歩社』。

 己の名前を社名に冠した、若き詩人にして作家、そして編集長である国木田独歩は、社員一同にそう宣言した。

「どうした。また家賃が足りなくてヤケになったか」

「先立つ資金がありませんけど」

「例の如く、我が社は婦人誌以外に売れ行きが良くなくてですね……」

 最初から順に、総画家の小杉未醒、記者兼会計係の吉江狐雁、記者の窪田空穂の言である。

 独歩は、斬新かつ画期的なアイデアを白けた様子で流す部下たちを、ぐるりと睨みつける。

「君たち、向上心はないのか? これは独歩社の存続をかけた企画なんだ! もっと真剣にやりたまえよ」

「いや、今月の家賃を払うことの方が、目下重要な問題でありますから……」

 吉江がすっと差し出した書状は、この社屋を借りている大家からの、家賃の督促状である。

 そう――独歩社は困窮している。

 そもそも独歩社は、それなりの大きさがあった雑誌社が会社を畳むことになったところを、独歩が社員と雑誌の一部をを引き継いで独立させた会社なのだ。

 会社を畳むくらいであるから、元の大きな会社の頃から売り上げは芳しくなかった。

 独歩が海外の雑誌を参考に考案した、写真や絵を一面に大きく取り扱ったグラフ誌。一時は戦時需要などもあり、飛ぶように売れたものだ。

 しかし、戦争は終わって久しく、そして華やかな誌面を好む読者はご婦人ばかり。世間は再び前時代的な文学雑誌や評論がもてはやされている。

 独歩の考案した雑誌は、間違いなく目新しく、この明治という時代にそったものであった。だが、哀しきかな、独歩が考えるほどの速度では時代がついてこなかったのである。

「グラフ誌の需要が少ないなら、作ればいい」

「何故、それが怪奇の話に繋がるんだ?」

 黙々と、独歩社の売り上げを支えている婦人誌の編集を進める小杉が、さして興味もなさそうな様子で尋ねる。

 独歩は気にするでもなく、大げさな身振りで両手を広げて見せた。

「よくぞ聞いてくれた。以前、窪田が持ち込んだネタで、死刑囚の獄中記と怪奇ネタを絡めた本を出しただろう。あの時、怪奇ネタについて随分と投書やら考察の手紙が投げ込まれたのを覚えているか?」

 それは、独歩社にとっては家賃を補てんするために出した、苦肉の策――、一種のキワモノ出版であったが、初版は飛ぶように売れた。残念ながら話題性は最初だけで、その後は大量に余らせて今も倉庫に在庫がある。

 ただ、その死刑囚の告白記には、独歩が取材した事件に関する怪奇の調査報告書が含まれていた。その怪奇調査の項目について、自分も似たものを見た、自分の推理は違う、などといった葉書や封書を独歩社に送りつけるものが後を絶たなかったのだ。

 今ではそれもすっかり途絶えたが、それだけ怪奇ネタが好奇心や探究心をくすぐられる内容だということだろう。

「帝都の怪奇ネタを集めて、写真やイラストを載せたオカルト画報を作る。帝都で実際に見られる風景が、怪奇の現場であると思えば、見てみたくなるのが人の性さ」

「ううむ、確かにあの本の時は、死刑囚の告白よりも、むしろ怪奇ネタの方がウケていた気がしますけど」

 比較的素直で流されやすい窪田は、独歩のノリに深く考え込み、頷いていたが――。

「今から作るにしても、ネタを集めて取材して、雑誌を編集した頃には、家賃滞納で追いだされますよ、独歩さん」

 会計担当の吉江は、流されてくれなかった。

 しかし、そこまでは独歩も予測の範疇である。

「聞いて喜べ、諸君。この僕の作品を理解する者が現れた。つまり、僕の作品が売れた。今月は原稿料で家賃を払える」

 これには、社員一同唖然とした。

 国木田独歩は、編集者である前に、詩人であり、作家でもある。その作品は仲間内でも評価が高い……のだが、それはあくまで身内でのこと、

 独歩の作品は、外国文学の流れを取り入れた先進的なものであったが、やはりこの時代にはやや早すぎた。大衆には好まれない。要するに、流行らない、人気がないのだ。

 ゆえに、独歩の作品が新聞や雑誌社に買い取ってもらえることは、ほとんどなかった。友人の伝手か、神戸で新聞社に勤めている弟の伝手か、それか独歩社の自社発行文芸誌か。要するに、金になることはほとんどない。

「独歩さん、田山さんにどれだけ無理を言いました?」

 吉江が静かな声で尋ねたのを、独歩は聞こえないふりでやりすごした。作品を世に出すには、時に様々な犠牲を伴うのである。

 大体、そこで無理を言われるのは、違う出版社に勤める親友の田山花袋であることを、この場にいる全員が正しく理解している。それと同時に、この国木田独歩という男が、強引でわがままで、そうと決めたら譲らない男であることも、当然理解している。

「……というわけで、小杉、今編集中の婦人誌の奥付に募集要項を載せておいてくれ。帝都に潜む怪奇の目撃情報を求む、オカルト雑誌新創刊の報だ!」

 社員たちのうろんな眼差しをものともせず、独歩社の主は今日も自由に強引に、企画を押し通すのだった。



 田山花袋は、独歩の親友である。

 独歩にとっては、小説を書くきっかけを与えてくれた人物でもある。

 従軍記者として少しばかり有名になった独歩の家を、興味をもって訪ねてきてくれたのが最初の出会いだった。

 それから、事あるごとにお互いの家を訪ねて歩き、時には仕事の世話をしてもらい、そして仲間内を集めて共に酒を酌み交わす仲となった。

「いや、今回も世話になったなぁ、花袋よ」

「もうしばらくは無理だからな。うちの上司は、お前の作品だとわかると、急に不機嫌になるんだ」

「君の上司には、未だに僕の芸術が理解できないと見える」

「そういうことだけど、そういうことじゃない」

 花袋はビールを一口ずつ、舐めるように飲みながら独歩の感謝とも自賛ともつかない口上に反論する。

 もったいない飲み方をしていると思うのだが、彼は酒に弱いので少しずつしか飲めないのである。

 花袋は身体が大きく、いかつい体格だ。しかも目が悪くて、丸眼鏡をしていてもやや睨んだような目つきになっていることが多い。

 それだけに、舐めるような酒の飲みかたが、本人の風格に似合わず奇妙な空気を醸し出していた。

 独歩は、この花袋のどこか滑稽な酒飲みの様子を眺めることを、密かな楽しみとしている。

「花袋は独歩をすぐに甘やかすなぁ」

 花袋と独歩とは向かいの席についていた松岡國男が、こちらは豪快にビールを飲み干しながらからかうような調子でそう述べた。

「甘やかしているのではなく、理解が深いんだ。花袋は僕の作品の価値をわかっているから、多少の無理も聞いてくれるというわけだ。実に感謝している」

「そんな調子のいいことを言っても、俺がお前の作品を売り込むのには限界があってだな……」

「おや、花袋は僕の作品など売る価値のあるものと認めないと、そう考えているのか?」

「そうは言っていない。お前の作品は個人としては好きだし、もっと認められるべきだと思っているが、俺が上司を説得する苦労は別問題だと言っている」

「ああ、理解しているとも。まぁ飲みたまえ」

「足すな! 俺はお前らと違って酒は強くないんだ。味わって飲むんだ」

 ビールを注ぎ足す独歩を、花袋は慌てて止めようとする。

 その様子をじっと見つめているのが、國男のとなりに座る男である。陰気でじっとりとした雰囲気を持つ彼は、騒がしい他の三人とは対照的に、黙々とフォークを動かしていた。

 ビフテキをひたすら細かく切り分けて、口に運ぶ。

「島崎、そんなに切り分けたら、せっかくのビフテキがメンチになってしまうだろう」

「食べやすいから……」

 このビフテキを細切れにしている男は、共通の友人である島崎藤村である。前髪が長めで、しかもややうつむき気味に食べているものだから、表情すらよくわからない。

「一番の売れっ子作家である君が、そんな貧乏くさい食べ方をするとは。もっとがぶりといきたまえよ」

 島崎藤村と言えば『若菜集』で浪漫派詩人として名を馳せ、近頃では小説も書きはじめている。

 はっきり言って、独歩や花袋などよりもよほど売れている作家なのだ。

「詩も小説も、島崎は仲間内では一等賞だ。もっと堂々としたまえ。僕はこれで、世間の流行に与しない君が、いっぱしの詩人であり作家であることを評価している」

 独歩の言葉に、藤村は初めて顔を上げた。死人のような瞳に、やや光が宿る。

「独歩君に評価されると、割と嬉しいね……」

「そうだろう、そうだろう。僕ははったりは言うけれど、ばかばかしい嘘やまやかしは言わない性質なのでね。とはいえ、君の小説は僕には陰鬱がすぎる。読みたくない」

 評価するといった口で、読みたくないと口にする。

 花袋と國男は揃って呆れた表情になったものの、当の藤村はビフテキを切り刻む作業に戻っただけだった。しかし、表情は先ほどよりもやや明るい。

「そういう点を包み隠さず言う独歩君だから、評価は信用に値するものだと思っているよ」

「島崎は、そういうところが好ましいな。作風も本人も暗いけれどな」

「独歩は一言多いけれどな」

「花袋、これが僕だ。島崎はこういう僕を信用している。だから僕はこれでいい。國男もそう思うだろう」

「まぁ……いつもの独歩だな」

 そう、こんなやり取りはいつものことなのだった。

 龍土会――洋食屋『龍土軒』で行われるこの食事会は、若手の詩人や文士が集まる文学サロンである。

 今日のように数人だけのこともあれば、十人も近く集まって飲めや歌えやの騒ぎになることもある。独歩と國男が中心に開催しているサロンだけに、二人ともと親しい花袋、藤村は常連となっていた。

 龍土軒は、麻生龍土町のフランス料理屋である。

 最初は國男の家で行われていた会合が、集まる面子が多くなるにつれて洋食屋で行われるようになった。

 最初は快楽亭という洋食屋に通っていたのだが、途中で移転し、この龍土軒となった。店の移転と改称に合わせて、この文士たちのサロンも『龍土会』と名をあらためた。

 詩人や作家だけではなく、時には画家や音楽家も参加している。独歩社の社員も、度々この会に顔を出しているので、当然ながら独歩のやっている出版事業は、龍土会に参加する全員が知るところである。

 もちろん、その売り上げがかんばしくないことも。

 よって、「また花袋が独歩を甘やかした」という、國男の反応に至るわけなのだ。金に困った独歩が、花袋の勤め先に作品を買ってくれるように頼みこむのは、もう何度も繰り返されているということである。

「独歩、君、また新しく雑誌を始めるそうだな。どうして俺に何も言わないんだ?」

 國男が出してきたのは、つい先日発行されたばかりの、独歩社発行の婦人誌である。独歩の会社で、唯一まともな収益をあげている主力誌だ。

 独歩社では、文芸誌、漫画誌、グラビア誌、娯楽誌と、様々な種類の雑誌を出している。多くは売上不振で休刊、廃刊となるばかりで――つまり、独歩が新しい雑誌を考案することなど、何一つ驚くべきことではない。

 國男がいつになく食いついてきたのは、それが怪奇事件に関する雑誌であったからだ。

「怪奇と言えば俺だろう。仲間内では俺が一番詳しい」

 彼は――松岡國男は、オカルトマニアなのである。

 元々、日本各地の土着の進行や風習などを研究していた彼は、帝都で度々起こる怪奇現象にも興味津々だった。怪奇事件が起こった時の新聞記事を、いちいち全部切り抜いてとっておいているくらいだ。

「でもなぁ、君……確かに怪奇には詳しいが……」

 いつも強気な独歩も、今回ばかりは気まずそうに顔をそらす。花袋はまた一口ビールを舐めるように飲んで、あきれ果てたようなため息をもらした。

「お前、全くといっていいほど『霊感』がないんだよな」

 欲しいと思っている者のところには、なかなか好機は訪れない。独歩の作る作品や雑誌が売れないのもしかり、そして國男に怪奇に遭遇する機会がないこともしかり。

 帝都に怪奇現象が起こるようになってから、三十年。

 人は順応する生き物で、不思議と霊穴がもたらす怪奇を察知しやすい体質の者が多くなってきた。『霊穴』を感知するということで、『霊感』が強い、弱いなどと言われたりもする。

 ほかならぬ独歩も霊感は強い方で、度々怪奇を『見る』ことがあった。花袋などはもっと奇妙で、怪奇の『匂いを嗅ぐ』という霊感の持ち主だ。

 しかし、怪奇ネタが大好物の國男は、全く、ただの少しも、霊感を持ち合わせていない。

「何だ、二人とも霊感があるからといって、怪奇ネタで俺を仲間外れにしようっていうのか? この中で俺の気持ちを理解する奴は島崎だけなのか?」

 別に仲間外れにしたわけでもないし、二人が霊感をもっているのはたまたまなのであるが、怪奇好きの國男には納得がいかないらしい。

 突然話を振られた藤村は、細切れの肉を口へと運ぶ手を止め、顔を上げた。

「國男君……実は、僕にも霊感はあるんだ。こう、見えるとか聞こえるとかそういうのではなく、何となくそこにあるのがわかる……という感じなのだけど」

「…………は?」

 國男は愕然として、そしてうなだれた。

 もちろん、龍土会に参加する面子が全員霊感持ちというわけではない。現に、龍土会参加者の一員たる独歩社の面々など、誰一人霊感をもっていない。独歩だけだ。

 ただ、藤村に関して言えば、いかにも霊感を持っていそうなたたずまいであるから、むしろ今まで話題に出なかったのが不思議とも言える。単に、藤村が自分から話すことがほとんどないせいかもしれないが。

 元々、『霊穴』や、それにまつわる怪奇が起こるのは、陰の気が強い場所と言われている。

 そう考えれば、見るからに陰気な藤村が霊感を持っているのは何ら不思議ではないし、怪奇が好きというだけで性格も見た目も明るい好青年である國男が霊感を持たないのもまた、何ら不思議なことではなかった。

「う、裏切者ぉ……」

「裏切りも何も、霊感は好んでいれば身につくものでは」

 独歩は、國男の落胆などどこ吹く風で、すっかり藤村の霊感に好奇心を刺激されてしまっていた。

「島崎、もっと詳しく教えてくれないか、君のその霊感とやらを!」

「別に構わないけど……役に立つかどうか」

 身を乗り出す独歩に、花袋はどこかげんなりとした様子で友人たちを見つめる。

 怪奇雑誌に國男が口だししないはずがないし、霊感があるとわかって、独歩が藤村を巻き込まないはずがない。

 そして、往々にして、それぞれの方向に自由気ままで迷走が激しい彼らの調停役になるのは、花袋の役割になるのだった。



 龍土会を解散した後、独歩は花袋と藤村とを誘って自宅へと帰ってきた。

 もちろん、藤村を誘ったのは、霊感について詳しく聞くためである。國男もついてきたがったが、どうしても外せない用事があるとかで、泣く泣く会を辞した。

 自宅である麹町の長屋の前に来ると、隣の家の灯りがほのかに見える。

「ん? ハルちゃん、まだ起きているのか?」

 隣家は、この長屋の大家である榎本家だ。榎本家の娘は三姉妹で、父親を亡くしている。女ばかりで母親も病気がちとかで、若干十六歳の長女、ハルが家長として家のこと、長屋のことを仕切っていた。

 独歩も、度々ハルの世話になっている。

 とはいえ、独歩は仕事やサロンに立ち寄って帰りが遅いことが多いので、毎日顔を合わせるというわけではない。いつもなら彼女は、この時間にはもう寝ている。

 しかし、明かりがついているということは、家長のハルは起きているということだろう。

 声をかけるか迷っていると、榎本家の玄関が開いた。

 行燈を持ったハルが、ひょっこりと顔を出す。

「あ、独歩さん、やっとお帰りですね。花袋さんもご一緒でしたか」

「ハルちゃん、こんな時間まで起きて、何かあったのか?」

「言伝を預かっていて……。ところで、そちらの方は?」

 ハルは、家によく来る花袋とは面識があるが、藤村とは初対面だ。藤村が陰気な声で「どうも、島崎藤村です」と頭を下げると、釣られたようにハルも「どうも、榎本ハルです」と礼をした。

「で、ハルちゃん、言伝って?」

 懐から封書を取り出すと、ハルはそれを独歩に手渡した。

「ええと、洋装の……ご婦人が、これを独歩さんに渡してほしいと言って、置いていったんですけど」

 ハルは「ご婦人」というところで、行燈の薄明かりでもわかるくらいに顔を曇らせる。あまり良い印象ではなかったようだ。

 それにしても、洋装の女性というのが気になる。

 明治も三十年。西洋化が進んで、男性の洋装はそうめずらしくなくなった。独歩も、家にいる時以外は洋装であるし、國男も今日は洋装だった。

 しかし、女性の衣服は小物では西洋のものを取り入れつつも、基本は和装なのである。女性の洋装は男性のそれよりも面倒が多く、しかも高価であるから、あまり普及していない。

 それだけに、洋装をする女性と言うのは、それだけで目立つ。自分を宣伝して歩いているようなものだ。鹿鳴館の舞踏会ならともかく、こんな庶民的な長屋に現れるとはどういうことか。

「ハルちゃん、ちょっとこれを借りる」

 何となく嫌な予感がして、独歩はハルの行燈を手に、手紙の署名を確かめた。見覚えのある字だった。

 ――そして、できれば二度と見たくない名前だった。

 その手紙の差出人は、佐々城信子。

「あの、つかぬことをお伺いしますけど、この方と独歩さんはどういうご関係で?」

 戸惑い混じりのハルの質問に、独歩は答えることができなかった。

 花袋が脇から覗きこんで、無言で立ちつくす独歩の心情

を察し、頭を抱える。

「ああ……例の『お信さん』か……」

「独歩君、お信さんって例の恋愛事件の……」

「その話はやめてくれ……もう過去のことだ……」

 いつも自信たっぷりの国木田独歩が、ほとんど泣き落とすような声音でそう呟いた。

 佐々城信子。

 かつて、従軍記者だった独歩と激しく燃えるような恋をして、駆け落ち同然のことまでして、しかし結局真の理解を得ずに終わった女。

 ――彼女は、国木田独歩の元婚約者である。

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