第10話 籠の目歌う坂の下

 結局、あの後一番近い駅に行ってみたものの、あの娘は見つからなかった。仕方なしに縁切り榎に舞い戻り、茶屋の主人から榎に関する逸話などを取材して、その日は解散となった。

「しかし、どうにも腑におちないな」

 独歩社の片隅で、若き編集長はひたすら物思いにふけっている。その向かいには彼の弟が座って、手帳に何やら書きつけていた。

 そんな二人の様子を見ながら、独歩社の面々、及びたまたま差し入れを届けにきた独歩の隣人たる榎本ハルは、遠巻きに様子を伺っているのである。

「独歩さんと収二さん、どうしてあんなに難しい顔をしてらっしゃるんです?」

 部外者だからこそ一番口が出しやすい。ハルの素朴な疑問に、すぐ隣にいた写真師のウメ子が「むむ」と声をあげた。

「縁切り榎の取材にいってから三日くらい、二人ともあんな感じなんですよ。私、あそこの写真撮りにいかなきゃならないのに、独歩さんが行くとも行かないとも言わなくて。早くしてほしいんですけど」

「そもそも、縁切り榎にまつわる噂を調べていたはずなのに、帝都でも板橋宿近くに勤める奉公人の女性とか、子供の有無とか調べているんですよ、どうしてなのか教えてくれないし」

 これは記者の一人、窪田空穂の言。

「何にしろ、そろそろ記事の構成くらいは決めていただかないと、他の雑誌の納期もありますので」

 これは記者、及び会計担当である吉江孤雁の言。

「俺も挿画を描いたり、発注したりがあるから、早めにほしいんだけどな」

 これは挿画担当、小杉未醒の言。

 要するに、社員ですら事態を図りかねている、ということなのだった。

 元々独歩は仲間を大事にする性質である。儲けもあまり出ていないこの会社に人が集まるのは、独歩が仲間を認めて信頼しているからこそだ。お金ではなく信頼で結ばれた面々であるからこそ、そしていつも自由奔放に無理難題を押し付けてきつつも、仲間を決して蔑ろにしない独歩の人柄を知っているからこそ、彼らは独歩が鶴の一声をあげるまでは、無理に聞き出そうとはしない。

 その結果として、兄弟が椅子で向かい合わせて何やら考え事にかけくれているのを、ひたすら見守る構図ができあがっているのだ。

 しかし、そこで動きがあった。独歩がおもむろに立ち上がったのだ。

「小杉、吉江か窪田でもいい。誰か花袋と島崎に便りを届けてくれないか? 板橋宿、縁切り榎の茶屋で待つと伝えてくれ」

「今から行くんですか? 板橋は遠いですよ」

 すでに日も傾いている。吉江の指摘はもっともなものだ。さすがに、独歩もこの時間から寂れた板橋宿のあたりまで足を伸ばす気はない。

「行くのは明日だ。それとウメ子、ついでに縁切り榎の写真を撮るから、ついてきてくれ」

「えっ、明日ですか? 急ですね」

 先程までは、早く仕事を終わらせてしまいたいと言ったのを棚に上げて、ウメ子はやや不満そうにぼやく。恐らく、理由は最初にハルが縁切り榎を嫌がったのと似たようなものだろう。仕事となれば行かざるを得ないが、いざ行くとなると及び腰、ということだ。

「安心しろ。縁切り榎で僕は何も見ていなかった。花袋も、縁切り榎に関しては変な匂いを嗅いでいない。少なくとも、あそこは悪いものはいなかった。いたらさすがに気付く」

 独歩は霊を視る眼を持ち、花袋は霊の存在を匂いで感じとる。霊感などない國男と収二はともかく、この二人が行って特に不穏なことが起こらなかったのだから、少なくとも呪いの類は存在しないと見て良い。少なくとも独歩はそう感じた。

「うーん、でもなぁ。私だって一応年頃の娘なんで」

「強いて言うなら、縁切り榎よりもずっと危険なのは、あの坂道の先にある貧民窟の方だ。僕は危うく財布を盗まれるところだった」

「だめじゃないですか! 危ないですよ!」

 声をあげたのはハルの方である。

「ああ、縁切り榎よりも危ない。ので、ウメ子を一人で行かせるわけにはいかない。國男は明日、都合がつかないはずだが、花袋と島崎がくれば、僕と収二を合わせて男が四人。そうそう手を出してはくるまい。特に花袋なんて、いるだけである程度牽制になる。身体が大きいからな」

「前に行った時、男性四人で行ったんですよね?」

 ハルの冷静かつ真っ当な指摘に、さすがの独歩も押し黙った。佐々城家の一件以来、どうにも彼女からの当たりが強くなっている気がする。よく言えば心配されている、悪く言えば信用されていないのである。

「しかも、松岡さんが島崎さんになった時点で、見た目的にはむしろ弱くなっていませんか?」

「ふふっ、くっ」

 思わず笑ってしまった。細い上に生白い肌で、どこか死人のような雰囲気を持つ島崎藤村は、確かに見るからに健康優良な國男に比べれば「弱そう」ではある。ある種の近寄り難さを与える、という意味では國男よりも優秀な人材であるかもしれないが。

「そんなに心配ならハルちゃんも来るかい? 縁切り榎の噂が嫌でなければ、だが」

 あれだけ力強く拒否したのだ。当然、いくら友人であるウメ子が一緒といえども、彼女は嫌がるであろう。と思ったわけであるが、独歩の想像に反してハルは力強くうなずいた。

「独歩さんがそう言うのでしたら」

「……いいのかい、ハルちゃん」

「お財布が盗まれないように、私が見張っておきますね」

「あ、うん……それは別に大丈夫なんだが」

 説得力がないことこの上ないが、ハルは気にした風でもなくクスクスと笑っている。

「私の霊感が役立つことがあるかもしれません。島崎さんもお呼びになったの、そういうことですよね?」

「まぁ、そういうことではあるが」

「それに、独歩さんが縁切り榎に嫌なものを見なかったのなら、多分縁切り榎っていうほど悪いものじゃないんだと思います。悪い縁を切った後は、ちゃんと良縁を結んでくれるんでしょう?」

 確かに、縁切り榎には悪い気配はなかった。それは独歩と花袋が証明している。

 とはいえ、岩の坂にある貧民窟は、霊とは関係なく女性には安全と言い難い。ウメ子には麓の茶屋で待っていてもらうつもりであった。うめこをが、一人待たせるよりはハルと一緒の方が安心できるだろう。

「それじゃあ、ウメ子とハルちゃんには女子代表としてきてもらうか。女子にならわかるものがあるかもしれない」

 あの産院は、恐らく産院として機能はしていない。訳ありの子供を里子に出すための仲介所であろう。貧民窟にある以上、売り渡し先もろくな場所ではない。行先は金はないけれども人手は必要な寒村だろうか。

 もし明日もあの産院に向かう娘が一人か二人いたとして、独歩たちが連れ立って話しかければ警戒される。女性のハルやウメ子なら、話しやすくなるだろう。

「よし、収二。明日はハルちゃんと一緒に板橋宿へ向かうぞ。小杉、怪奇画報のメインは予定通り縁切り榎でいく。そのつもりで表紙を進めてくれ。吉江と窪田は、うちの稼ぎ頭の方を頼んだぞ」

 稼ぎ頭とは、つまり婦人誌のことである。独歩社で唯一まともな売り上げを誇る雑誌だ。それだけに、この雑誌だけは付け焼き刃で作ることは絶対にできない。逆に言えば、新雑誌は最低限の手数で成果をあげねばならないわけだ。

「絶対に原稿は落とすなよ!」

 社長の指示に、独歩社社員たちはといえば顔を見合わせて「独歩さんがそれを言います?」などとのたまった。誠に遺憾である。新雑誌の創刊が遅れたのは、佐々城家の一件が記事にならなかっただけで、自分のせいではない。多分。きっと。恐らくは。



 翌朝、ハルと収二を連れて長屋を出た。

 板橋宿まではなかなか遠い。途中でウメ子を拾い、馬車や人力車を使って板橋宿に着いた頃にはずいぶんと陽が高くなっていた。花袋と藤村は先に着いていたらしい。茶屋で呑気に団子を頬張っていた。

「やぁ、島崎。久しぶりだな。最近は龍土会にも顔をだしていなかったじゃないか。新作を書いていたのか?」

「久しぶり、独歩君。つい昨日、書き上がったところだよ。気晴らしに出歩きたかったから、ちょうどよかったね」

 小説に根を詰めていたからなのだろうか。ただでさえ青白い藤村の顔は、幽霊の如き青白さである。そんな死体のような顔で団子をもりもりと食べている姿が、何とも言えず滑稽だ。

「藤村さんって、あの若菜集の島崎藤村さん?」

 収二が小首を傾げる。藤村の詩作であるところの『若菜集』は、かなりの話題を集めた品だ。今こそ藤村は小説ばかりを苦心して書いているけれども、元は詩人なのだ。それも、ここにいる誰よりも売れっ子である。独歩の影響もあって少なからず文学に親しんできた収二が知っているのは、当然と言えるかもしれない。

「そうとも。彼が若菜集の島崎藤村さ。こんな幽鬼みたいな顔をして、切ない恋を歌うんだ」

「どうも……君はどちら様だい? 見たところ、独歩君の身内みたいだけど」

「国木田収二です。兄がいつもお世話になっています」

「ああ、なるほど。確かに少し雰囲気が似ているよね」

「本当か、藤村。独歩と収二、相当似ていない兄弟だと思うんだけどな」

「それは見た目の話でしょう?」

「おお、島崎、いい勘をしているじゃあないか。こいつは、ある意味僕よりも短気だぞ。酒を飲んだら大暴れだ」

「……兄さん」

 収二の顔が引きつる。明らかな間違いであれば、即座に兄を諫めるのがこの弟である。一日二日の付き合いでもそれがわかるほどであった。つまり、否定できないのは収二自身がそれを認めているからだ。

 ハルとウメ子がぽかんととして顔を見合わせる。そんな中、元々知った仲である花袋は串団子をかじりつつそっけない様子で国木田兄弟を見た。

「とりあえず、酒はなるべく飲ませないようにしておくな」

「花袋さん……」

「そんなことより、疲れたから私もお茶とお団子食べます。ハルちゃんも食べるでしょ?」

 写真機一式を持って疲労困憊しているウメ子が、藤村の横にポンと腰掛けた。ウメ子は一度藤村と顔を合わせたことがあるとはいえ、年頃の娘が遠慮もなく若い男の隣に腰かけたことに、藤村はやや驚いたようだ。珍しく目を見開いている。

 ウメ子の方は、普段から男所帯の独歩社で過ごしているだけあって、全く気にかけた様子がない。

「ウメ子さん、面白いね」

「えっ、私から見ると、団子を食べているのに霞を食べているような顔している島崎さんの方がだいぶ面白いですよ」

「僕は仙人ではないのだけど」

 戸惑う藤村をよそに、独歩と花袋はにわかに吹き出した。確かに島崎藤村は、霞でも食べそうな雰囲気の男なのだ。

「縁切り榎っていうからもっと物々しい感じなのかと思ったら、こんな風に茶屋があるんですね」

 ハルはウメ子の隣に腰掛けて、ほうじ茶と串団子を頼む。独歩は収二と向かいの席に座って、ぜんざいと番茶を二人分頼んだ。

「縁切り榎の手前までは、比較的綺麗なんだ。坂道を登れば貧民窟だから、ウメ子とハルちゃんはそっちには行かないようにしてくれ。何せ男四人で行ってもスリが出たんだからな」

「縁切り榎よりもそっちの方が怖いんですけど」

 ウメ子がぐちぐちと文句をつける。独歩社の専属写真師と言えど、彼女がいつも撮っているのは婦人誌用の小洒落た風景や、着物、歌舞伎の美丈夫などである。怪しげないわくがある場所まで、せっせと写真機を担いでくるのは不本意だったに違いない。

「いや、ウメ子。僕はこれで一応、君にはすまないことをしているとは思っている。だが、知りうる限りの霊感持ちを集めたのも、独歩社専属の写真誌である君をわざわざ連れ出したのも、きちんと理由あってのことさ」

「独歩さんの考えってたまぁに、すっごく突飛な方向にいくじゃあないですか。オカルト雑誌だってそうだし。身内じゃないと頼めないって、霊感持ちを集めたって、いやぁな予感しかしないでーす」

「鋭いな、ウメ子。さすが我が社のホープだ。そうそう、オカルトマニアの國男が面白いことを教えてくれた。なんでも、霊感がある人間が写真機を持つと、たまに霊を写真に写すことがあるらしい」

 國男がいうには、日本ではほとんど知られていないものの、海外ではすでにいくつもの事例があるのだという。

 写真機がまだまだ普及したばかりの日本でも、少ないものの先例はあるとのこと。なんでも、写真機を覗き込んだ時にはなかったはずのものが、現像してみると浮き上がってくるのだという。

「えー、独歩さん、私に何やらせようとしてるんですかぁ」

「そう嫌がるな。少なくとも悪さをするような怪奇があるのなら、先日いった時に僕や花袋が何かしら感じ取っているはずだ。ウメ子は気楽に写真だけを撮ってくれればいいさ。上手くいけば、縁切り榎の御神霊が映るかもしれない」

「なんか罰当たりですねぇ」

 ハルも呆れ顔でため息をつく。写真機を通して神霊を観測できるなんて、独歩としては好奇心をそそられるネタなのだが、うら若き乙女たちにはどうにも不評のようだ。

 そんなやりとりをしている内に、茶屋の主人が団子や茶をお盆に乗せてやってくる。

「縁切り榎はこの辺では昔から有名だ、別れたい男がいるならあの榎木の皮を削って、煎じて相手に飲ませりゃいい」

「え、ええ……それはちょっと」

 ウメ子が引きつった顔をする。仮にも、社を建てて祀られている神木とも言える存在である。無作法に樹皮を削るなど罰当たりと考えたのだろう。

「しかし、幽霊の話は特に聞かないねぇ。悪いものと縁が切れて、スッキリするから恨みつらみも残らないんじゃないかい?」

「そ、そうですかー……」

 今度はハルが引きつった顔になる。

 どうやらこの茶屋の主人、思いの外客人の話に耳をそば立てている様子である。行儀がいいとはいえない。

 貧民窟のすぐ近く、しかも縁切りに用事がある人間ばかりくるとあっては、それくらい神経が太くなければやっていけないのかもしれない。

 居心地が悪くなったのか、ウメ子はそうそうに団子を飲み込むと、写真機を抱えてスッと立ち上がった。

「先に写真撮ってきます」

「おい、花袋、ウメ子の護衛にいってやってくれ。僕はぜんざいを食べるのに忙しい」

「お前なぁ」

 愚痴をこぼしつつも、花袋も立ち上がった。ついこの前、男だけで来た時もスリがでたわけだから、若い娘を独りにするわけにはいかないと感じたのだろう。その辺りは、実に誠実な男である。下心を出すほどの甲斐性もなし。

「あっ、私もいきます!」

 ハルがそれを慌てて追いかけて行き。

「島崎は行かないのか?」

「僕、まだ団子を食べ終わっていなくて……」

「食が細いな君は」

「独歩君はよく食べるよね」

 独歩はすでにぜんざいを半分ほどたいらげていたが、先に来ていたはずの藤村はようやく三色団子の三個目である。女子よりも遅い。

「それに、興味深いと思っていたから。幽霊話は聞かないって、独歩君が前に言っていた『霊穴』の発生条件と矛盾しているでしょう」

「ふむ。さすがは島崎だ。僕もその辺りは少なからず気になっていてね。写真を撮りにきたのは、手がかり探しでもある」

 帝都に怪奇あり――。

 文明開化をきっかけにして帝都で頻発する様になった怪現象の裏には、『霊穴』の存在がある。

 それは指ひとつ入るほどの穴のこともあれば、一帯を包み込むほどに巨大化することもある。暗くて何も見えない、観測しえない何かへと繋がっている穴。

 その『霊穴』を中心として『怪奇』は発生し、そして怪奇は人やモノに取り憑いて伝播していく。

 『霊穴』の発生条件については諸説あるが、現在確認されている限りでは二つのケースがある。

 神社仏閣など、元々霊的な要素が強い場所。そして薄暗くジメジメとして人が嫌う場所、殺人や事故などで人が死んだ場所など、負の感情が付き纏う場所だ。

 岩の坂は、その二つの条件を満たしており、いつ『霊穴』が発生してもおかしくない。

 ただ、少なくとも縁切り榎においては独歩も花袋も何も察知しなかった。藤村も、何かを感じたならすぐに言うだろう。縁切り榎には『霊穴』と、それに付随する『怪奇』が存在しないということになる。

「いかにも怪奇が起こりそうな場であるのに、かえって不自然というわけだ」

 茶屋の主人は独歩たちの話を聞いて、けたけたと声をあげて笑い出した。

「そりゃあアンタ、あの坂道を登ったんだったらわかるだろう? あっちでは毎日、その日暮らしの輩が物乞いや喧嘩や盗みに明け暮れているんだ。ちょっとくらい何かがあったからって、怪奇だどうのと騒ぎゃしないよ」

 要するに、そもそもこの岩の坂は『怪奇』があるかどうか、観測できる状態ではないのだ。

 貧民窟では、人が倒れるのも死ぬのも日常である。

 原因が何ともわからぬ病気もあれば、劣悪な環境に気がおかしくなってしまう者もいる。縁切り榎の逸話も加わって、何もかもが日常となって『怪奇』を認識できない。

「ここは縁切り榎様のおかげで、それなりに繁盛しているがね、あちら側に交番ができたから貧民窟のやからは降りて着たがらない」

 歩くにはだいぶ遠い駅の方角をさし、茶屋の主人は苦笑いである。

「それで、縁切り榎を境目に、坂道の上と下でまるで様相が変わっているわけか」

「そういうことでさぁ」

 一応、貧民に暮らすならず者達にも、警官を恐れるくらいの気持ちはあるらしい。貧民窟の暮らしでも、ひとつ間違えば北の果てまで送られて、足枷を嵌められたまま重労働に殉じるよりはマシというわけである。

「貴重な話をありがとう。こいつは少しばかりの礼だ」

 団子とぜんざいと茶の値段に、少しだけ色をつけて店主に渡した。収二が「兄さん」と非難がましい口調で呼びつけてきたが、ここは茶屋の主人に恩を売る方が吉だ。

 こんな場所で上手いこと商売をする人間であるから、相当に強かに違いない。こういう人間は、そこそこに機嫌をとっておくと良い。後々、良い情報を引き出せる可能性があるからだ。

 収二も、深く追求しなかったのは、記者として独歩の思惑は理解できないでもないからだろう。

 はぁ、とため息をひとつついて「晩ご飯は僕が奢るから」と小声で耳打ちしてきた。神戸から帝都まで、汽車代も馬鹿にならない。そこまで気を使ってくれなくて結構なのが、弟は納得するまい。

「独歩君、出るのかい」

「ああ、縁切り榎はすぐそこさ」

 藤村と収二を伴って茶屋を出て、角の曲がりにある縁切り榎へ。

「元は大名屋敷の庭にあったらしいが、何をどうして縁切りの逸話を持ったのだろうな」

 榎の枝は青々と繁り、そこから少し離れた道の端に、写真機を三脚で立てて覗き込んでいるウメ子、その後ろで興味深そうに榎を見上げているハルと花袋の姿があった。

「江戸時代からあったわけだから、文明開化によってできた『霊穴』が原因ではないわけだね、ここは」

 藤村は、榎そのものよりも、『怪奇』の有無が気になるらしい。

「そういうことだな。とはいえ、和宮の降嫁で避けられた逸話があるせいか、ハルちゃんですらこの榎のことは知っていた。語り継がれることが『霊穴』の発生に寄与するならば、ここにはそれに近しいものがあるかもしれない」

 ただ、独歩は何も見ていない。花袋も妙な臭いを嗅いではいない。そして、見たところハルや藤村が異常を感知している様子もない。

「榎そのものが霊的な力を持っているわけではない? それとも、縁切り伝説は『霊穴』から発生する『怪奇』とは全く別の種類に属するものなのか?」

 首を突き合わせながらウメ子たちの元へ行くと、彼女が写真機から顔を上げた。

「独歩さん、写真機の前に立たないでくださぁい」

「いや、すまない」

「三枚撮りましたよ」

「あと二枚撮ってくれ」

「もったいないですよ、写真の現像にもお金がかかるんですからね!」

 ウメ子は一応、それなりに良い家柄のお嬢様であるはずなのだが、困窮する独歩社に籍を置いているからなのか、どうにもケチなところがある。経営者としてはありがたいことだ。しかし、今は節約するところではない。

「いいんだ。今回は実験だから」

「実験? まさか、本当に幽霊写真撮らせる気ですか?」

「怪奇雑誌なのだから撮れた方が都合は良いのさ。まぁ、撮るだけ撮ってみたまえよ」

 ウメ子は渋々と写真機に向き直った。

 幽霊写真実験が成功するかはともかくとして、本当にこの場所に『怪奇』はないものか。

 ――何もないのが、かえっておかしい。

 その時、ハルが不意に坂の上を振り返った。

「あっちは危ないから、行かない方がいいぞ、ハルちゃん」

「あ、いえ……わらべうたが聞こえた気がして」

「うん……?」

 貧民窟には、老若男女がひしめき合っている。日雇いの仕事に明け暮れる人々、芸人、物乞い、やせ細った子供ももちろんいる。だけど、歌など聞こえてこない。

「あんまりこの辺では聞かない歌ですよ」

「この辺に伝わる歌なのか?」

 他の面々に目をやったが、一様に不思議な顔をしている。つまり、ハル以外には聞こえていない。

「ハルちゃん、どんな歌だった?」

「ええと……かごめ、かごめ……って」

 ――かごめ、かごめ、籠の中の鳥は

 いついつ出やる 夜明けの晩に――

 かごめの歌は、國男から聞いたことがある。手つなぎ遊びから生まれたわらべ歌の一つだ。地域によって派生があり、一部ではこう歌われる。

 ――鶴と亀がすべった

 その時、ふとあの幼い兄妹のことを思い出した。

 亀太郎とお鶴。

「独歩さん、何か私、いけないものを聴いちゃったんでしょうか……」

 不安げな眼差しを向けるハルに、独歩は生返事で「いや」と短く返した。

 子供を預かるのは一か月だけ。亀太郎は確かにそう言った。それは『怪奇』ではなく、『現実』であろう。

 以前、國男から聞いた話によれば、わらべ歌の多くは成立した当時の世相を反映している。子供は大人が思っている以上に、様々なことを見聞きし、理解している。たとえば、江戸時代であれば大名行列や厳しい年貢を揶揄しやような歌が、子供たちの間でそれとなしに流行ったりする。

 かごめの歌は、一説には――子取りの歌とも呼ばれている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る