第2話 或る女との再会

 独歩は以前、新聞社に勤めていた際に、戦艦に乗りこんで従軍記者をしていたことがある。

 佐々城信子との出会いも、従軍がきっかけであった。佐々城家が主催したパーティーに、独歩も軍の関係者として招かれたのだ。

 一目惚れであった。

 まだ年若い娘ながら、堂々とした気品ある立ち振る舞いの彼女に、独歩はあっという間に心を奪われた。

 そして、猛烈な求愛の末に遂に婚約、同棲にこぎつけたのである。

「だけど、当時、僕はちょうど仕事にあぶれていてな……」

 独歩は当時、まだ作家ではなかったが、従軍記者としてはかなり名が知れていた。

 戦艦から送った従軍記録は、当時同じ新聞社に勤めていた独歩の弟、国木田収二に当てた手紙という体裁のものだった。これは独歩独自のアイデアによるものである。

 弟へ呼びかける斬新な形式のその通信は、独歩の熱のこもった筆致と相まって、日本中を戦時の熱狂に包み込んだ。

 あの頃の独歩は日本でも、指折りの有名記者であっただろう。今でも、独歩といえば「あの従軍記の記者」と呼ばれることが多い。

 しかし、従軍する機会がそう何度も転がっているわけでもなく、そして記者としてあまりに有名になりすぎたこともあり――独歩は新聞社を退職。偉人の伝記を書くなど、小さな仕事をこなして日銭を得ていた。

 愛に困難は付き物であるが、現実は世知辛い。

 従軍記者とご令嬢の運命的な大恋愛は、半年も持たずに破局してしまった。

 信子がある日突然家を出たまま姿をくらまし、ようやく見つけた頃には離縁の意思が固まっていた。彼女の意思は固く、独歩は受け入れざるを得なかった。

 元より、佐々城家にはあまり歓迎されていなかった婚約である。少なくとも、佐々城家側には独歩の味方をする者はいない。信子自身の愛が薄れてしまったら、崩壊はあっという間だった。

「困窮した末に逃げられたんだったな。相手は苦労しらずのお嬢様だもんなぁ」

「作家仲間の間ではちょっと話題になったよね。ご令嬢に逃げられた従軍記者の独歩君。僕らの間では、独歩君に同情的な人が多かったけれど……」

 花袋と藤村が、口々に言って頷く。

 そもそも、売れっ子でもない若い文学者が、金持ちであるわけがないのだ。仲間内では売れている方の藤村ですら、教師など他の仕事をしながら詩作をしていたくらいだ。

 そして、世間は弱者に感情移入をしたくなるものである。

 独歩と信子の大恋愛と悲惨な破局は「佐々城家に引き裂かれ、令嬢に捨てられた哀れな名物記者」という色合いが濃くなって、独歩に同情的な意見が大多数となった。

 そのためもあってか、信子はしばらく帝都から身を隠すこととなり、世間の関心も薄れて行った。

 その後、風の噂で信子が渡米したらしいことを聞いていたのだが――。

 信子との関係をそこまで説明したところで、ハルが静かに深いため息をついた。

「独歩さん、昔から困窮していたんですね」

 これには、さしもの弁舌家である独歩も、一瞬言葉に詰まって顔を引きつらせる。

「ハルちゃん、今の話を聞いた感想がそれ……なのか?」

「だって、先月も家賃を立て替えたばかりですから」

 ハルの少しばかり冷ややかな視線が、針のように突き刺さる。経営している会社が困窮しているということは、当然独歩自身も困窮しているということだ。私財があるのなら、とうの昔に会社を立て直している。

 本来なら、龍土会で酒を飲んでいる場合ではない。

 しかし、社交もある種の仕事である。金策は人の縁からだ。こういう付き合いが、後々役立つわけだ。

 花袋と藤村が同情的になるのも、そういった付き合いのたまものと言える。独歩だって、少し余裕がある時は、飲まず食わずになりかけている仲間に酒と蕎麦の一杯くらいは奢るのだ。

 とはいえ、文士仲間の奇妙な連帯感など、長屋の家主であるハルには知ったところではない。

 独歩が住むこの長屋は、元はハルの父が残したもので、今は彼女が家主として切り盛りしている。

 だから本来なら、独歩は彼女に家賃を払わねばならないのだ。それを、ハルの家のことで男手が必要になった時に手伝ったり、彼女に字や文章、英語などを教えたりして、まけてもらっていた。

 まけてもらっている上で、立て替えをお願いしているのだから、彼女が呆れるのも無理はない。

「独歩さんの、そういう経済観念の危うさが、逃げられた原因なのでは?」

「ハルちゃん……」

「あと、独歩さんはこの前、裏の家の娘さんにも声をかけていましたね。そして昔の婚約者が来るとか……独歩さんの女性関係はどうなっているのですか」

「あー……その、ハルちゃん?」

 信子の訪問と裏手に住んでいる娘に声をかけたのは、全くもって無関係である。信子とは数年連絡をとっていなかった。裏の娘からは一方的に好かれているだけだ。

 独歩も好かれて悪い気はしないし、愛想は良く接してはいた。しかし、まさかこんな形で長屋の大家であるハルに疑惑の目を向けられることになろうとは。

 花袋と藤村は顔を見合わせ、しかし二人とも助け舟を出そうとはしなかった。それどころか、花袋はぼそっと小さな声で「またたらしこんだのか」と悪態をついた。聞こえているのだが。

 この疑惑を晴らすのに、最も手っ取り早い方法がある。

 すなわち、信子の手紙を読むことである。

 いくら、かつて熱狂的に愛した相手であっても、信子が復縁のために独歩の家までやってきたと思う程、甘えた思想に浸かってはいない。

 確実に、何か事情があって訪ねてきたのだ。それでなければ、結果論とは言え佐々城家の家名に傷をつけた男の元に来るはずがない。

 独歩がおもむろに手紙を読み始めたので、ハルは訝しげな眼差しを向ける。

 しかし、だんだん怒りが鎮まったのか、それとも手紙を読んでいた独歩の表情があまりにも奇妙であったのか、彼女は小首をかしげる。

「あの、独歩さん、何て書いてあるんです?」

「……仕事の依頼だ。独歩社への」

 何故、家まで。何故、信子が。

 それはわからないが、ハル、花袋、藤村は揃って首を傾げて声をあげた。

「「「仕事?」」」

 彼等の反応も、無理ない事である。

 独歩社は、婦人誌しか売れ筋の雑誌がない、零細の中の零細である。独歩社を指名した仕事の依頼など、ほとんどないと言っても良い。

 それなのに、このタイミングで、かつての婚約者である信子からなぜ、仕事の依頼が来たのか。

 それは、他に宛てがなかったからであろう。そう、こんなことを取り扱う広告を出しているのは、恐らく独歩社だけだからだ。

 そして、その広告は、信子が手に取ってもおかしくない婦人誌に載せたものである。

「初めてきた情報が、まさかあいつからとは……」

 独歩が思いつきで婦人誌に打った広告。それを見て信子が届けにきた手紙での依頼。

 ――すなわち、帝都の怪現象の調査依頼である。



 夜更けに四人で顔を突き合わせても、依頼人の信子がいないのにどうにかできるわけもない。

 その晩は結局解散することにして、翌日、全員で独歩社に向かうことにした。

 もちろん、花袋、藤村、ハルの三人は独歩社の社員ではない。本来同席するべきではないのだが、この三人はそれぞれ霊感を持っている。怪奇の依頼ならば、もしかすると協力を乞うことになるかもしれない。ということで、独歩が頼み込んだのだった。

「俺だって仕事があるのに、急に呼びつけるのは勘弁してほしいんだけどな」

「すまんな、花袋。しかして、霊感絡みでは一等頼りになるのは君なのだから仕方がない。信頼もできる」

「調子のいいことをいいやがる」

 口ではそう言いつつも、何だかんだで悪い気はしないらしい。花袋の眉間からしわが消えた。

 一方、藤村は特に気にしているわけでもないらしく、いつも通りの憂鬱な眼差しで黙々と歩いている。

「島崎は僕の仕事に付き合って大丈夫だったのかい?」

「お前……俺には聞かないのに藤村には聞くのかよ」

 花袋の横やりが入ったが、独歩は――藤村も、それを聞き流した。花袋にああだこうだ言われるまでは、いつもの流れだからである。

「今は原稿の依頼もないし……。それに、正直独歩君の元婚約者を見てみたい気持ちがある」

「島崎、案外下世話なところに興味を抱くな」

「露悪的に思えるところにこそ、人間の真実が隠されているのではないかと思っているよ」

「なるほど、島崎の言うことには一理ある」

 花袋が「あるのか?」と首を傾げたが、これもいつもの流れなのでさらりと聞き流す。

「独歩さん、私も来る必要はあったんでしょうか?」

 ハルがおずおずおと口を挟む。彼女の表情には、はっきりと不安の色が現れていた。

 しかし、今回の件に関しては、独歩社に協力したいと言い出したのはハル自身なのだ。独歩は最初、ハルは連れて来ないつもりでいた。自分の過去の女絡みのことであるし、危険がないとも限らない。しっかり者で家主であると言っても、彼女はまだ少女なのだ。

「ハルちゃんは、危ないことがあるかもしれないし、嫌だと思ったらすぐに帰ってもいい」

「う……はい、そう……なんですけど」

 いつもテキパキとした彼女らしくない、歯切れの悪い言い方をする。

「つまり……ハルさんは、独歩君の元婚約者が気になってしかたがないということかな?」

 藤村がそう言い添えると、ハルは「ひゃっ」と高い声を上げた。要するに図星、ということなのであろうが。

「正直、僕もできれば会いたくはないよ。わかりあって別れたわけでもないのだからね」

「かなり引きずってたよな。俺が独歩と初めて会った頃、ことあるごとに嘆いていたのを覚えている」

「花袋、余計なことを言うな」

 独歩が釘を刺す。しかし、ハルと藤村は興味を持ったらしい。期待のこもった眼差しで花袋を見る。

「いや、俺も当事者じゃあないから、詳しくは独歩にきいてくれよ。会ったのがちょうど例のお信さんと別れた直後で、独歩が弟と一緒に暮らしていた時だったんだ」

「丘の上の家だな。お気に入りだったのに、収二の奴が大家ともめてしまって、追い出されたんだ。おかげで、失恋の痛みもだいぶ消し飛んだが……」

 独歩の弟、国木田収二は、今は母親と共に神戸に住んで、向こうの新聞社に勤めている。独歩のことを慕ってくれる良い弟である。短気なところがたまにきずだ。

 気の短さに関しては、独歩は人のことをいえないが。

「独歩さん、弟さんがいらっしゃったんですね」

「ああ、今も手紙のやり取りは良くしているよ」

 ハルの興味は、弟の方に移ったらしい。信子のことについてあんまりしつこく聞かれるのも居心地が悪いので、内心ありがたく思いながら話題をそらす。

 そこで、花袋が呆れ半分の声で一言。

「収二、たまに家賃の世話をしてくれるもんな」

「おい、花袋、余計なことを言うんじゃあない」

「…………よくできた弟さんですね」

 ハルの眼差しが、一気に冷ややかなものへと変わった。その冷たさ、木枯らしの如く。

 花袋はふんと鼻を鳴らす。恐らく、先ほど花袋の話をさりげなく無視した腹いせであろう。珍しく花袋に一杯喰わされたというわけだ。普段は独歩の方が圧倒的に口達者であるが、今回ばかりは分が悪い。

 好都合にも、ちょうど独歩社の軒先が見えてきた。

 藤村が独歩社の場所を知らなかったので、集合は独歩の住む長屋だったのだ。

 山吹色の髪紐で髪を結った娘が、独歩社の玄関口を掃き掃除していた。その姿を見て、ハルが駆けだす。

「ウメちゃん! いつ帰ってきたの?」

「あ、ハルちゃん! 久しぶり! 昨日戻ってきたよー。明日からまた、撮影でしばらくいなくなるけども」

「ええ、じゃあ今日来て良かったぁ」

 突然きゃぁきゃぁとはしゃぎ始めた娘たちに、花袋がやや居心地の悪そうな顔をする。

 花袋は女性への免疫がない。ハルだけなら、知らぬ仲でもないので平気な顔をしていられるが、年ごとの女性が増えて困惑している、というのが内心であろう。

「独歩君、君の会社には女性社員もいるんだね」

 言葉を失くしている花袋をわき目に、藤村は珍しく少し驚いたような顔でウメ子を見つめていた。

 それはそうだろう。編集社に女性社員がいることはほとんどない。

「彼女は日野ウメ子。うちの会社の写真師さ。うちは婦人誌が主力だから、女性の写真師は被写体にもなかなかウケがいい」

「気軽にウメって呼んでくださいねー! 女の写真師って珍しいと思いますけど、仕事はちゃんとやりますんでっ」

「女性の写真師か。独歩君の会社らしいね。でも、写真機は重くない?」

 藤村は彼女を無遠慮にしげしげと観察する。ウメ子の方はといえば、全く意に介さず闊達として応えた。

「正直重いですけど、私、体力だけは自信あるんで!」

「ウメ子はその辺の男よりも強いぞ。吉江なんて写真機を運ぶのに、彼女の半分の距離でも車を使いたがったからな。我が社自慢の写真師だ」

 とはいえ、若い女性が写真師となると、それなりにやっかみが来る。独歩は、女だからといって写真の腕前を侮るような輩は相手にしなくても良いと思うのだが、そうも言っていられない場合も出てくる。

 そういうわけで、ウメ子には婦人誌の記者兼写真師として、あちこちの女性相手の取材に回ってもらう機会が多く、普段はあまり社屋にいない。外回りが多いために、独歩社ではなく、独歩の家まで現像した写真を届けにくることも多く、その縁もあってハルとは仲が良いのだった。

「ところで、独歩さん。何かすっごい美人な洋装の女性が、客人だって言って上り込んでるんですけど、あの人誰ですか? 返答次第では、あたしの箒が唸りをあげるんですけど。私はハルちゃん派なんで!」

「…………は?」

 今、何と言ったか。

 洋装の、女性と言ったか。

「独歩君、まずいんじゃないの?」

「いきなりの修羅場か?」

「いや、いやいや、待ちたまえ。僕はもう彼女とは縁が切れているんだ。落ち着きたまえ。純粋なる仕事の依頼だ。修羅場の話ではない」

 独歩が早口でまくしたてる。

 もちろん、一番落ち着いていないのは独歩であるし、ウメ子はそっと箒を握る手に力を込めた。それをハルが、慌てて「ウメちゃん、待って」と制止する。

「独歩さん、私は女の写真技師も分け隔てなく使ってくれたりして、大変に感謝していますけど、そのタラシ根性っていうかぁ、女性に対して軽いところどうかと思うんです」

「火に油を注ぐな! 本当に依頼の話なんだ。ハルちゃんだって、昨晩同席して手紙の内容を見ている。これは僕の問題ではなく、独歩社の仕事の話だ」

 疑わしげな視線を遠慮なくなげつけてくるウメ子を押しのけ、独歩は社屋に入った。

 そこには、確かに彼女がいた。

 狭い編集者だ。応接間と呼べる場所は存在せず、普段はもっぱら近くの茶屋やパーラーを打ち合わせ場所にしているから、彼女が座っているのも急に来客がきた際にとりあえず座ってもらうための、古びた長椅子だった。

 赤いドレス、洋装に合わせてまとめた髪。彼女は扉が開いた音に気が付いて振り返る。

 佐々城信子は、気のない様子でこう告げた。

「お久しぶりですね、国木田さん」



 ――何年ぶりの邂逅だろうか。

 かつて独歩が恋い焦がれた少女の面影はすっかりと消え失せていたが、堂々とした気品ある立ち振る舞いは変わることがなかった。

 しかし、その表情は冷たく凍りついたようで、当然ながら「久しぶり」というその言葉にも懐かしむような響きは一切ない。

 独歩としても、今更彼女に会ったところで恋が再燃するはずもなかった。失恋は痛手だ。恋情は激しいほどに燃えさかり、人生を鮮やかに彩る。その分、失われた後の傷はひたすら深く、底の見えない闇なのだ。

 だから、独歩はまず自分に言い聞かせることにした。これは仕事だ。商談だ。昔のことはひとまず頭の中から追い出しておく作戦である。

「して、佐々城家のお嬢さんが、僕の家までおいでなすったわけでしょうか?」

 作戦が失敗している。いつになく嫌味な言い方になった。

「手紙に書いたはずですけど?」

 信子は涼しい顔で答えた。そうだけど、そうではない。

「仕事依頼の手紙なら、会社に置けばよかっただろうに」

「小杉さんが、今日は社に戻らないから家に直接行った方が早いだろう、とおっしゃったので」

「犯人は小杉か…………」

 小杉とは、従軍記者時代からの付き合いだ。つまり、彼は独歩と信子の顛末を知っているのである。

 会社では気まずかろう、という彼なりの配慮だったのかもしれないが、今のところ裏目にしか出ていない。

「まあ、いいさ。手紙は読んでいるとも。僕は広告を載せた。君はそれを見て仕事を依頼しにきた。だけど考えてみてくれ。僕の会社はご覧の通り、零細の出版社。僕自身も編集者であり、作家だ。広告だって、怪奇の情報を求むというものだった」

 帝都の怪奇・オカルト事象を取材し、記事を載せる予定の雑誌、『帝都怪奇画報』の広告には、少なからず反響があった。幽霊や怪奇の目撃情報であったり、怪奇に対する自分なりの見解であったり――様々なものがあったが、信子の寄越した手紙はそういった類のものではない。

「怪奇事件の解決を頼みたいなら、相応の相談相手がいるだろう。僕は探偵でも、霊能者でもない。確かに多少は霊感を持っているが、君はそのことすら知らなかったはずだ」

「そうですね。初めて聞きました。国木田さん、霊感をお持ちだったのね。それと……このお茶、不味いわ。出がらし? それとも茶葉が安いの?」

 しれっとお茶にダメ出しをされて、独歩は深いため息を漏らしながら、玄関先からちらちらと覗きこんでいたウメ子を見やった。

「ウメ子、信子にうちで一番いい、僕の秘蔵の豆を使った珈琲をいれてやれ。僕の分も――いや、全員分淹れろ」

「え、ハルちゃんたちだけではなく、小杉さんたちの分もですかぁ?」

「ケチな男だと思われるのも癪なのでね」

 イラつきながら答えると、ウメ子は深く理由を聞けば藪蛇になると悟ったのだろう。そそくさと給湯室へと駆けて行った。

「ケチという自覚があったことに驚いたわ」

「君に苦労をかけたことは反省している。今更よりを戻せとも言わない。ただ、僕は別に貧乏だからケチなことをしていたわけじゃない。清貧な生活を目指していたんだ」

「私も、困窮していたからというだけで、貴方と別れたわけではありません。私に清貧生活を押し付けたことを含めて、貴方の傲慢で身勝手なところに嫌気がさしたから。それと、私には今、貴方とは別に婚約している方がいるの。貴方とよりを戻すなんて、考えてもいないわ」

「それはどうも。で、結局どうして僕の元に依頼を持ち込んだのか、そろそろ教えてくれないかな?」

 険悪な元婚約者同士の会話に、はからずとも同席することになってしまったハル、花袋、藤村は気まずそうな様子である。

「僕は君の家の人間には、大層嫌われていたはずだが」

 信子の手紙は、佐々城家で怒っている怪奇現象の調査と解決を依頼するものだった。雑誌社にする依頼ではない。

 婦人誌に載せた広告も、あくまで『取材』のネタになる情報を求めるものであったはずだ。

 できれば断りたい。それが独歩の本音である。

 怪奇現象なら警察は動かないかもしれない。しかし、怪奇が帝都に蔓延ってから、退魔を商売にしている霊能者は次から次へと現れたし、探偵ならば怪奇案件でも受けてくれるところはあるだろう。

 あえて過去の婚約者である独歩に依頼してきたのは、信子なりの理由があるはずだ。

 重い沈黙が落ちたところで、お盆に珈琲のカップをたくさん載せたウメ子が、底抜けに明るく顔をのぞかせた。

「お待たせしましたぁ! って……アレ?」

 さすがの彼女も、異様な雰囲気に気づいたらしい。裏から、カップを片手に小杉、吉江、窪田の三人も顔だけを出して、その重苦しい空気に「これはまずい」とばかりに顔をひっこめた。そこはこの空気を打破する助けをしてくれるところではないのか。

 信子は涼しい顔で、上品にウメ子から珈琲を受け取った後、「どうも」と柔らかな微笑みを浮かべた。

 それは、かつて熱狂的な恋をした少女と、この冷たい顔をした女が、まぎれもなく同じ人物であるという証明である。独歩にとっては、実に始末が悪いことに。

(よりを戻したくはないし、僕にだって腹立たしいことのひとつやふたつ、あるわけだが……)

 よほど困っていなければ、ここには来ない。他にはいけない理由があった。そしてその理由とは、独歩が受けると言わなければ、口にすることもはばかるようなことなのだ。

「ところで、国木田さん」

「なんだ、ついに理由を言ってくれる気になったのか? その珈琲は上等だろう?」

「ええ、先ほどのお茶とは雲泥の差ね。とても、毎月の家賃の支払いにも苦労する会社が出すものとは思えない」

「…………何が言いたい」

 信子は笑った。かつて恋をした少女の顔でもなく、先ほどウメ子に見せたねぎらいの表情でもなく、強かな大人の女の顔で。

「私の手元には、両親から受け継いだ佐々城家の資産があるの。依頼を受けてくれるなら、昔のよしみで融資してあげても良くてよ?」

「……………………」

 まさかの、金銭による強請。

 安いお茶にケチをつけたのは、この話題に持ち込むためだったのだ。

(この僕が出し抜かれるとはな)

 そう、信子は元婚約者だ。独歩がどういう手管で、相手を口車に乗せるのか、自分に有利な状況に持ち込むのかを知っている。

 思えば、小杉は独歩が龍土会に向かったことを知っているのだ。自宅にも遅くまで戻らないことは、当然分かっていたはずだ。

 信子は、あえて独歩社に手紙を預けず、独歩の自宅に手紙を残した。独歩を動揺させ、勘ぐらせることで、即答で断る機会を逃すように仕向けた。

「全く、大した女だな、君は。いいだろう。君の依頼を受けるとも。実際、ごらんの通り、我が社は貧乏なのでね。ただ、広告にもある通り、取材をする以上雑誌に載せることになるわけだが、それは覚悟の上か?」

「ええ、構わないわ」

 澱みなくそう答えた彼女の眼差しは、しかし蔭を帯びたように思えた。

「……僕だって、佐々城家をわざわざ悪しきように書きたてたりはしないさ。過去の醜聞を掘り返すだけだ」

「ええ、そのつもりなら、貴方は記者だった頃に、もっと貴方自身に都合のいいことばかりを書きたてたでしょう。その辺りは信用しているわ」

 苦笑いをしながら、信子はカップを置いた。

 彼女は、覚悟を決めたように真っ直ぐ独歩を見つめる。

「佐々城家で、次々と不自然に人が死んでいるの。私はそれを――怪奇の仕業だと思っている」


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