第12話 からゆきさんは何処へ

 坂本の持ってきた、横浜から売られる『からゆきさん』の情報と、岩の坂の子供斡旋産院の繋がりやいかに。

「いずれにしても、あまりオカルトには関係ない話ではあるな。坂本は、オカルトに興味を持っているわけではないから、当然とも言えるが」

「せっかくなら、龍土会に連れてきてくれりゃ良かったのに。俺も話したかったぜ、文壇名物男の『ぐれさん』と」

「國男、確かに『ぐれさん』は、文壇の集まりが大好きだが、僕が誘ってもなかなか来ないんだ。誘わなければ、その内来るだろう」

 月に数回の文芸サロン、龍土会であるが、坂本紅蓮洞は顔を出したことがない。

 独歩も何度か誘ったことがあるのだが、妙なところに偏屈な彼は「誘われていない時にしれっと顔を出して、なんだこいつは?」って顔をされるのが楽しみなんだよ」などとのたまった。まったく、食えない男である。

「オカルト的にはともかく、証拠を掴んだらこれはなかなかのスキャンダルであるな。マリア・ルス号から奴隷を解放した栄光の地で、人身売買が行われているというのは、なかなか扇情的な見出しだ」

 龍土会はいつも、洋食屋の龍土軒で行われるのが常であるが、たまたま店が臨時休業なのだと聞いて、彼らは銀座のビヤホールに来ていた。メンツは独歩、花袋、國男、藤村。図らずも、龍土会の中でも岩の坂縁切り榎参りをしたご一行である。ちなみに、収二は神戸の新聞社に連絡を取るとのことで、後から合流予定である。

 というわけで、話題も自然と独歩社が手がけるオカルト雑誌や、それに付随した話題になっていた。

「逆に聞くけれど、独歩君はハルさんがわらべ歌を聞いた話、岩の坂の産院に関係すると思うのかい?」

 藤村は、この一件に珍しく興味があるようだ。

 霊感持ちをあれだけ集めておきながら、ハルだけにしか聞こえなかったその歌は、彼の知的好奇心をずいぶんと刺激したらしい。

「どうだろうな。縁切り榎の逸話は、子供の話と直接関係はない。岩の坂が貧民の巣窟になったのは、ここ十年かそこらの間。少なくとも、縁切り榎に『霊穴』のような『怪奇』を多発させる要素は見当たらない。これをどう見る? 松岡國男先生よ」

「調子のいいことを言うな、お前。俺の見解は変わらない。逸話が伝播するには時間がかかる。俺は縁切り榎の逸話と、子売りの件は別だと思うね。ただ……」

「ただ……?」

 不自然に言葉を濁した國男に、独歩は胡乱な眼差しを向けた。

「往々にして、神として祀られるものっていうのは、一種の人格を持つと考えられる。人は災害を神の怒りと考え、奇跡を神の恵みと考える、ということだ。そういうものの積み重ねで、縁切り榎に一種のご神格みたいなのが宿っている、という可能性はなくもない」

「ふむ、それだと『怪奇』はあくまで『現象』であるという、僕の見方とは反するな。縁切り榎に独自の意思があることになってしまう」

「……それはどうだろうな?」

 意外なことに、そこに口を出したのは花袋であった。

「人間の霊だったらどうなんだ? 独歩、怪奇に憑かれた人間の霊が、縁切り榎を通して何かを訴えるとか、そういう線は考えられないのか? だって、写真には人影が写っていたんだろう?」

 確かに、縁切り榎そのものに意思はなくとも、縁切り榎の近くに留まっていた死者の霊であれば、多少なりとも生前の意思を持っている可能性はある。

 独歩はあの場所に何も見なかったが、ウメ子が撮った写真には写った。『霊穴』のすぐそばではないから、霊感があってもそう簡単に見えることがないほど、弱い浮幽霊。

 それが「女性と相性のいい霊的な場所」である縁切り榎の力を借りて、写真やハルの霊感を通して存在を訴えてきた、という線であればあり得るように思えた。

 霊は生きている人間よりも弱い。強い意思を持つものは、ほぼ皆無といっていい。ただ、『霊穴』がその場になくとも、縁切り榎が間接的にその役割を果たしているなら、女性にだけ感知できる『怪奇』が発生しうるかもしれない。

「となると、子供は本当に売られていたのか? あの場で死んだ子供がいるということになる」

「そりゃまぁ、売られる前に死んだ子もいるだろうし、貧しくて食うに困って死んだ子はいるだろうけど」

 花袋は頭を抱えて唸り声をあげたが、逆に隣に座っていた藤村はそれで合点がいったようだった。

「もし、子供が狙い通り売れなかった場合、どうするんだろうね……その、亀太郎君が言っていた『一ヶ月後』に」

 一瞬、シンとその場が静まり返ったように思えた。

「……ビール頼んでもいいかい」

 ややあって、独歩のやや枯れた声で呟かれた言葉に、その場にいた全員が粛々と従った。



 国木田収二は、銀座にいた。

 勤め先である新聞社に連絡する用事が済んだら、兄とその友人たちがいるビヤホールに向かう予定だったからだ。

 だから、そこを通りがかったのは偶然である。

 偶然であったが、新聞社勤めの職業柄か、収二は何となしに『少し異質な空気』を見付けるのは上手かった。

 人が行き交う街の片隅で、人目をはばかるように建物の隙間で声を抑えて言い合っている男女を見つけてしまった。とはいえ、気にするようなほどのものでもない。

 だ男女の密談などよくある話であるし、よほどの政府高官などであればいざ知らず、その辺の男女の痴情などスキャンダルにもなりはしない。

 彼が足を止めたのは、女の方に見覚えがあったからだ。

 あの縁切り榎のたもとにある茶屋で、子供を抱えていた女。あの産院に子供を預けて、一人暗鬱な表情で駅に向かった女だ。

 男は、あの子供の父親であろうか。身なりのいい男だ。壁際で一服するフリをして、収二は路地裏の微かな声に耳を傾けた。

 子供まで売ったのに。妻に知られた。もう一緒にはいられないというの。次の仕事は紹介してやる。そんなことを望んだわけじゃない。

 典型的な別れ話。立場ある男が職場の女に手を出して、子供が生まれてあせってその子を売りにいかせて、しかし妻に露見して別れ話を切り出した、といったところだろう。

 やがて、路地からは男一人が出て行って、しばらく女のすすり泣く声だけが響いていた。

 収二は少しだけ迷った。通りすがり、見ず知らずの人間だ。彼女の名前すら知らない。

 しかし、どうにも放っておくのは寝覚めが悪い。こういう時、兄だったらどうするだろうか。きっと自然な流れで彼女に近づき、ハンカチの一つでも差し出すに違いない。兄は、そういった人に話しかけるきっかけを作り出すのが上手い男である。

 収二は覚悟を決めた。女が路地裏から出てきたところを狙って、わざと軽くぶつかったのだ。

「すみません、お嬢さん。僕の不注意で」

「いえ、私も前をよく見ておりませんでしたから……」

 泣きはらした顔の娘を見て、やはりここで綺麗に立ち回るほどの気の利いた言葉は出てこない。

 ただ、泣いていることに気づかれたというのは、娘にも伝わったらしい。恥ずかしげに顔を伏せて「それでは」と去ろうとする彼女の手を、収二は慌てて引き留めた。

 上手く立ち回れないのならば、正直の方が武器となる。

「もし、お嬢さん、貴方この間、板橋縁切り榎のたもとにある茶屋でお見かけした方ですよね」

「……どうしてそれを」

 彼女は青ざめた。不義の子を売りに行った。それが露見すればどうなることか。彼女は誰よりもよく知っている。何せ今まさにそのことで言い争っていたのだ。

「大丈夫、他人には何も申し上げません。ただ、あの産院にはよくない噂がある。あそこが子供を預かるのは一ヶ月だけだそうです。その後はどうなるかわかりません。もし、貴方があそこに預けた子を取り戻したいと思うなら、急いだ方がいいです」

 今度は収二の方が「それでは」と立ち去ろうとする。

 しかし、彼女の方が引き留める。

「あの、失礼ですが、お名前をうかがっても?」

「国木田です。国木田収二。神戸の者です。だから貴方の秘密が漏れる心配はしなくとも大丈夫ですよ、こちらに長居はしません」

「そうですか。私はユイ子と申します。ありがとうございました」

「もし気が向いたら、あちらの書店に売っている婦人誌でも買われてください。ほら、あのモダンガールが表紙のやつです。兄が作っている雑誌でね。きっと貴方も気に入りますよ、ユイ子さん。それでは本当に、ごきげんよう」

 さりげなく独歩社の宣伝も添えて、収二は歩きだした。銀座の向こう、ビヤホールへ。ユイ子の方は振り返らなかった。知らぬ他人の痴情のもつれに、深入りして良いこともない。

 そして、兄とその友人たちが待つビヤホールにたどり着き――。

 ぐでんぐでんに悪酔いする男たちの中、唯一素面らしい藤村に「やぁ、収二君」としれっと挨拶をされ、困惑することになった。

「これは一体、どういうことです?」

「うん、少しばかりやりきれない気持ちになったものだから、ビールを頼みすぎてしまってね」

「お強いんですね、藤村さん」

「ううん、僕はゆっくりとしか飲めないから、結果的に残ってしまったというか……ねえ、君。独歩君は君が連れ帰るとして、國男君と花袋君はどうしたらいいと思う?」

「……車を呼びましょう」

 酔い潰れている花袋、歌い出す國男。そしてビール瓶を両手にリズムを取っている自分の兄。

「慣れているね、収二君」

「ええ、酒癖が悪いのは昔からですよ」

「収二君も酒癖はなかなかと聞いたけれど、飲んでみる?」

「藤村さんがお一人で収拾をつける自信がおありなら、喜んで飲みますよ」

「遠慮しておこうか。僕は見ての通り、ひ弱なんだよ」

 泥酔の三人を見ながら、藤村はそれこそ幽霊のような面持ちでうっすらと笑って見せた。



「昨日の記憶が途中までしかない」

「ああ、そうだろうね、兄さん」

 朝、目が覚めたら独歩は自宅で寝ており、呆れ顔の弟に二日酔い覚ましの味噌汁を振る舞われることになった。

「いや、話したことはちゃんと覚えているとも。ただ、やりきれない気持ちになってついついヤケ酒を」

「そのようだね。藤村さんから事情は聞いたよ」

「あいつは大した奴さ。僕らがどれだけ酒にのまれても、自分のペースを絶対に乱さない。だから最後まで残るんだ」

「兄さんは自重しなよ」

 収二は淡々と説教をしてくれるが、この弟も酔ったら相当な暴虐の徒なのである。兄のことを言っていられない。

「それで、兄さんには伝えておきたいことがいくつかあるんだけど」

「ああ、僕が頼んだ神戸新聞への言伝のことだな」

「それもだけど、他にもうひとつ。あの縁切り榎の茶屋で見た子売りした女性と、銀座で偶然会ったんだ」

「……んん? なんだって?」

 収二曰く、彼女はどうやら雇主と不倫の末に子供を産み、関係を隠すために子供を里子に出した。しかし、結局関係が雇主の妻に知られてしまい、別れ話に発展していたのだという。

「子供が置かれるのは一ヶ月以内とは伝えたから、どうするかは彼女次第だけど」

「そうだな。彼女の事情を知ったからといって、彼女の子を僕らが引き取りにいくことはできない」

 一時の感情だけで、見ず知らずの女の子供を引き取って、育てることなどできまい。近所の子供たちと遊んでやるのとは、わけが違う。いくら子供好きの独歩だって、それくらいはわきまえている。

 彼女の子供を助けたところで、次々と子供はあの場所に売られていく。あの産院だけではなく、帝都の至る所でひそかに売られていく行き場のない赤子がいる。その中の一人二人救ったところで、社会が変わらなければどうにもならない。

 姦通罪で罪に問われるのは、ほとんどが女だ。たとえ男の方が手を出してきたとしても、だ。見せしめのように晒されることもある。密かに生んだ子を手放すのは、女性にとって苦渋の決断であると同時に、生き延びる術でもある。

「それと、兄さんが調べたかった件も、電報を独歩社宛に送るように手配したから」

 収二が思い出したように付け加える。昨日、神戸の新聞社に連絡を取るついでに、独歩が頼んでいた用事だった。こちらは岩の坂ではなく「からゆきさん」絡みである。

「ありがとう。それでルートが掴めれば、新聞にスキャンダルが載ることになるな」

「うん。それにしても兄さん、よくこんなことすぐに思い付いたね」

「僕も一度、アメリカに渡ろうとしたことがある。だから、何となく、海外渡航の手続きを思い出したのさ。目立たず噂にもならずに、上手いこと横浜から海外に人を売るルートがあるとすれば、それは国内だろうってね」

 横浜から出る海外への船は、行き先、載る人間の名簿、共にしっかりと管理されている。だから調べればすぐにわかる。坂本が、その程度の裏付けをとらなかったとは考えづらい。

 もちろん、神戸であっても海外渡航における名簿の記載のルールは同じはずだ。しかし、こういったものは往々にして、政府の目が届かない遠くへいくほど、だんだん曖昧になっていくものだ。

 横浜から直接海外へ、年端もいかない日本人の女子を大量に乗せたら何かしら疑われかねない。

 だから、まず船を神戸に出す。神戸から一部を陸路で長崎まで運ぶ。そして日をずらしながら少しずつ船に乗せる。そうすると、一つの船にのる日本人女性はぐっと減り、大量に渡航させている事実が見えづらくなる。

 横浜の人間が手引きしたからといって、横浜から渡航させなくてもいいというわけだ。この点、神戸で新聞社に勤めている収二の伝手が使えたのは、大変に運が良かった。

 神戸港での出国手続きを手に入れれば、横浜から行った人間がどれだけ神戸で出国させられていたのかがわかる。

 そこから更に、長崎へ向かった者の記録を取れたら、「からゆきさん」の出荷ルートがわかるという寸法である。

「この件が掴めれば、僕も神戸に戻った時に記事を書けるかもしれないからね。情報はありがたくいただくよ」

「そうしてくれ、愛弟」

 この件に関しては、オカルト雑誌ではなくジャーナリズムの領域だ。独歩も、場合によっては婦人誌ではなく知人の新聞社を仲介して情報を売ることになるだろう。

 独歩社が直接新聞を創刊するよりも、すでに名のある新聞社の名前を借りる方が良い。作家としてはともかく、独歩は記者として少なからず知名度がある。

 あくまで新聞記者としてなら、独歩の持ち込んだ記事を買ってくれる宛ては十分すぎるほどにあった。

「人身売買に岩の坂の産院が関わっているかどうかは、ひとまず置いておく。ただ、縁切り榎の幽霊写真については、あの産院に少なからず関わっていると見てもいいだろう」

「確信するような理由があると?」

「確信はない。推測さ。かごめ唄の通称は子取り唄。わらべ歌とそれに付随する遊びの多くは、大人たちが行う風習を真似て子供が遊んでいるうちに生まれた、というのが國男の見解だ。とすると、かごめ唄というのは『籠に閉じ込めた小鳥』、捕まえて閉じ込めておいた子供のことかもしれない。少なくとも、あの歌をハルちゃんに聞かせた『怪奇』の発生元は、そういう意思を持っていたと推測できる」

 目に見えるものが全てではない。

 独歩は霊感を持っているが、なんでもかんでも見えるわけではない。花袋だって、いつでも霊の匂いに気がつくわけではないし、『気配』という実態のないものを感知する藤村はなおさら判断がつきかねることが多いだろう。

 現状、あそこに『怪奇』があったとする証拠は、あの幽霊写真とハルが聞いた歌だけだ。

「貧民窟の近くに連れ出すのは申し訳ないが、今回は少しばかりハルちゃんに頼らざるを得ないな。藤村はともかく、花袋は二日酔いだろうか」

「かもしれない。花袋さん、兄さんよりも酒に弱いから」

「だが、仕事は手伝ってもらう」

「兄さん、そういうところ、容赦がないよね」

「いやぁ、僕は花袋のことは一等に頼りにしているんだよ。彼ほど僕を理解する人間はそうそういまい」

 その言葉に嘘はない。何せ、独歩を新聞記者から文学者へと仕立て上げたのは、他ならぬ花袋なのだ。

 詩作はしても、小説を書くつもりはなかった独歩に、小説とはなんたるかを教えてくれたのは花袋だ。

「理解者として信頼していなければ、わざわざ他社に勤めている花袋を連れてくるものか。本当は独歩社に引き入れたかったんだが」

「いや、それはやめておきなよ。花袋さんにだって稼ぎが必要なんだから」

「それと全く同じことを、まさに花袋本人に言われたとも。俺まで金がなくなったら、お前が露頭に迷った時にかけそばの一杯も奢ってやれなくなる、だそうだよ」

「うん、花袋さんが正解だと思う」

「愛弟よ、ずいぶんと言うようになったものだな」

 オカルト雑誌は必ず売り上げを出さねばなるまい。花袋や収二に、懐具合の心配ばかりされるようでは困る。

 そして、坂本が持ち込んだネタも、できれば大々的にとりあげたい。何せ世間はスキャンダルが好きなのだ。

「ハルちゃんと花袋と、できれば藤村も連れて、また縁切り榎参りだ。岩の坂も調べ上げるぞ」

「はいはい、兄さん、今度は財布をすられないようにね」

「鶴亀兄妹には恩を売っておいたじゃないか」

 あの貧民窟で生きていた兄妹を思い出し、独歩はニヤリと笑った。しかし、弟はため息をつくばかり。

「貧民の子を簡単に信用するの、やめなよ。本当に子供には甘いんだからなぁ」

 収二の小言を右から左へと聞き流し、独歩はスーツに着替え、愛用のステッキを片手に家を出た。

 まずは隣家を訪ねてハルをつれだす。それから途中、花袋、藤村を拾って板橋宿へ。

「さて、今度は僕の目にも何かしら映るといいんだがね」



 その頃、岩の坂の片隅では、赤子の鳴き声が響き渡っていた。

 乳飲み子が泣くのは当たり前のことだ。ましてや、十分に乳を与えられていなければなおさら。

 男の苛ついた声が、暗い部屋に響く。

「おい、亀太郎。赤子を黙らせろ」

「お腹がすいているんだ。黙らせたいなら、乳を分けてもらってきてくれよ」

「そんなもん、あるわけねえだろ。必要ならお前がどこかから持ってこい」

 この貧民窟に、牛を飼っている家などない。

 半日歩いた先にある農家に行っても、乳を分けてもらうためのお金がない。

 できるわけがないとわかっていて、あの男は命令する。子供を預かるのは一ヶ月まで。一ヶ月経っても迎えが来なかったら、二束三文で寒村に売りつける。

 一ヶ月。

 一ヶ月は、生き延びられた場合の猶予。

 生き延びられなければ、その時は――。

「今日はお鶴が乳をもらいにいってる」

 正しくは「盗みに行っている」だけど、どちらでも同じことだ。

 お鶴はまだ幼いから、万が一盗みがバレても牛飼い夫婦はきつくは叱らない。この男よりは、まだ牛飼い夫婦の方が優しい。貧民の子を哀れむ程度の余裕がある。

 この男にはそれがない。だから自分がこちらに残る。こちらの方が危険だから。

「今度、俺がいる時に赤子を泣かせたら、口を塞がせるからな」

「そんなことをしたら赤子が死んじまうだろ」

「いつから口答えばかりするようになったんだ? 死なせろ、って言ってんだよ。売れなけりゃいずれにしろ用無しなんだ」

 男は吐き捨てるようにそう言って、出て行った。

 暗い部屋で、赤子が泣いている。

 お腹がすいて、飢えて、渇いて、何もできずにただ泣いている。

 自分の腹も鳴いている。自分も、お鶴も何日まともに食べていないだろう。

「そばは美味しかったなぁ、いつか、また二人で食べに行こうな」

 独り言のように、誰にともなく呟いた。

 あの日、財布を盗んだ自分を許しただけではなく、二人分の蕎麦代を出してくれた、気前のいい男のことを思い出した。

 余裕のある金持ちの、気まぐれな慈悲になんて、いちいち期待しない。

 だけど、あの日食べた蕎麦は美味しかった。残飯や汁かけ飯などよりもずっとずっと、美味しかった。

 願うくらいなら許されるはずだ。

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