第16話 霊感青年、かく語りき
泉鏡花は、今最も売れている作家の一人であろう尾崎紅葉の門下生だ。門下生の中でも実力、作家としての人気共に頭ひとつ抜きん出ている。今では尾崎紅葉が立ち上げた硯友社の作家の中でも、花形といってもいい活躍ぶりだ。
同じ門下生、同じ金沢出身といっても、徳田秋聲はおよそ対極にいる。よく言えばリアリズムに満ちた、悪く言えば華がなくて地味な作風である。彼は尾崎紅葉に認められるのも、その作品が世に出たのも鏡花より後だった。
「そうは言っても、僕は秋聲君の作風が好きだよ。特に女性の描写が上手い。息遣いが感じられるようだ。湿っぽい作風でなければ、うちの雑誌で一本書かないかと誘っただろう」
「持ち上げたとみせかけて落とすのは、君の悪い癖だよ、独歩君」
秋聲は酒杯を傾けながら拗ねたように愚痴をこぼす。
今回の本題は、秋聲が連れてきた鏡花の話を聞くことであるわけだが。
出会う人間は絶対的な味方にするか、そうでなければ絶対的な敵にするか。大抵の場合、どちらかになる独歩の弁舌が鈍っているのは、鏡花の言動がいまいち読みきれないからである。
今も出された日本酒突き返して、煮えたぎるほどの温度にしてもらっている。自前で持ち込んだらしいアルコールランプで、カツレツを炙っている姿については、どう受け止めていいのかわからない。
秋聲は、それも慣れたものらしい。「またやっているのかい?」と呆れ混じりのため息をついた。
「鏡花は酷い潔癖症の気質でね。こんな風に、何でもランプで炙ってからじゃないと食べられないんだよ。ちゃんと火が通っているものにまで、こうやって炙るんだ。これじゃあモノの味もわからないじゃないか、ねえ、そう思うだろう、花袋」
秋聲は、少しばかり門下の繋がりがある花袋に話を振る。花袋はいつになく困った様子で肩をすくめた。
「まぁ、腹を壊すよりはいいんじゃないか?」
「そうは言ってもね、先生のために用意した菓子すら炙ろうとした時はさすがに止めたよ」
「秋聲、尾崎先生のお身体にもしものことがあったらどうするのですか。この世は想像以上に不潔なのです。良く洗った皿にすら菌がつくのですから、気をつけるくらいでちょうどいいのですよ」
……と、このように一品出てくるたびにランプであぶり始める鏡花を前に、さすがの独歩も会話の切り口に迷い、秋聲に話題を逸らした次第である。食事の作法について言及するのは、秋聲に任せておいた方がよろしいと判断したわけだ。
とはいえ、食事作法に気を取られて、本題に入らないのはまずい。尾崎紅葉を良く思っていない独歩の内心を承知で、わざわざ秋聲が連れてきてくらいである。独歩に会わなければならないような事情であったに違いない。
本日の龍土会メンバーは、いつもの独歩、花袋、藤村、國男に加えて、秋聲と鏡花。好奇心の強い國男など、あからさまに期待の眼差しを独歩に送ってくる。早く泉鏡花に論戦を仕掛けよ、と言いたいわけである。
独歩も泉鏡花の文学論には興味を惹かれたが、まずは本題、秋聲がここに鏡花を連れてくるに至った理由の方が重要だ。
「ところで、秋聲君。そろそろ、泉君をここに連れてきた事情について話してくれないか? 何せ、僕らはみんなそのことに興味津々なのさ。島崎君なんて見たまえ、待ちきれなくてカツレツをメンチにしている」
藤村がカツレツを刻むのは、いつものことである。しかし、話のダシに使われたことなど気にするでもなく、藤村はその生気のない眼差しの奥に彼自身が本来持つ興味好奇心の光を宿しながら鏡花を見ていた。
「それは僕も気になっていたよ。秋聲は頻繁に龍土会に顔を出す方ではないし、その上客人を連れてくるなんて珍しい。しかも大物だしね」
「そう。大物だ。文壇の寵児、泉鏡花氏がこの国木田独歩にどんな用事かな? 気になりすぎて首が伸びそうだ。ろくろ首になれる」
けらけらと笑って流すと、鏡花はやや緊張した面持ちになった。思わぬ反応に、独歩も笑顔を引っ込める。
「それなりに深刻な話かい?」
「秋聲から、貴方は怪奇現象を調査する雑誌を作るなど、その筋の調査をされていると聞きました。それと、龍土会に参加される松岡國男氏はオカルティズムに大変造詣が深いお方であると」
「お、オカルトの話か? 任せておいてくれ。俺は帝都に限らず、日本全国あらゆる場所のオカルト、魑魅魍魎、妖怪奇怪の情報を収集しているんだ。もちろん、独歩の雑誌にも協力している」
「そういうことさ。知識だけなら、僕よりも國男の方が役に立つかもしれないね」
表面上、平静に独歩はそう答えた。が、内心では驚いている。まさかこんなところで、怪奇ネタに通ずるとは思わなかったのだ。
思えば、泉鏡花は妖艶な怪奇趣味の作品を手がける作家である。『怪奇』に興味があっても、なんらおかしくはない。
「このようなことを言えば、私の作風ゆえにこのような思想を持っている風に見せているのだと邪推されたり、はたまた作品が私の狂気によって生み出されたなどと誤解を受けかねない。それゆえ、言葉にすることは慎んでおりました。しかし、貴方は真実をありのままに受け止めることこそ是とされる方と聞きました。ならば、私もこの荒唐無稽な話を真実として受け止めてくれる方にお話しようと考えたのです」
それは、泉鏡花が己の作家生命をかけてこの場に来たということを意味する。売れ筋ではないというだけで、独歩社は怪奇雑誌だけではなく、文芸誌、文化誌など様々な出版に手を広げている。そして、編集長である独歩は新聞社にもコネクションを持っている。
自身にも災難が降りかかることを覚悟で、信子とのスキャンダルを報じた。そもそも、独歩は作家としてよりも記者、ジャーナリストとしての方がよほど名前が通っている。人気作家の情報を独歩に渡すことが、どれだけ勇気がいることか。鏡花は、自分の不利を承知で独歩を信用すると言っている。
「安心したまえ、泉君。僕は友人の友人を、その意思に反して売り渡すようなことはしないよ。僕の神に誓おう、アーメン」
シャツの中から十字架を出して、祈りの仕草をとる。プロテスタント信者にとって、神の御前で誓うことがどんな意味を持つか、彼なら知っているだろう。
秋聲はちらりと隣に目をやった。鏡花はそれを受けて、静かにうなずいた。
「お話しましょう。私は『怪奇』を見る目をもっているのです。それは金沢の故郷にいた時から、ずっと変わりません。それどころか、帝都にきてからますますその力が強まっているのです。それが帝都の人々に『怪奇』と呼ばれる類のものであると理解したのは、つい最近のことでしたが。そう、貴方の編集した怪奇画報がきっかけです」
「君はあれを読んだのか」
「ええ。ご存知の通り、私の作風は怪奇趣味の傾向があります。私が想像する物語の『怪奇』と、今帝都で騒がれている『怪奇』にどのような認識の差があるのか、興味を持ちました。『怪奇』は現象であり、それを見る聞く臭うと感じる人々は、生来持った『霊感』によって決まると。今までばく然と語られてきたその概念を、民衆に向けて広く知らしめた。貴方の解釈は、私が幼少期より不可解に思っていたこの体質に対する一種の答えであったのです」
帝都でそれが『怪奇』という名前を得ただけで、恐らく『怪奇』そのものは、全国に妖怪譚、神異譚として津々浦々に受け継がれている。帝都という場所において、それは『霊穴』の存在と結びつき、一定の割合で『怪奇』という現象を発生させる。
それは独歩が「怪奇画報」に載せた、帝都怪奇現象に対する仮説だ。
怪奇現象自体は非常にまれであるだけで、元々霊感を持っている人には場所を問わず観測されていた。それが帝都に『霊穴』が多くできるに至って、人々の概念と結びつき、帝都独自の『怪奇』として認識されるに至った。
「ふむ、それでは泉君は僕と同じ、見る『霊感』持ちか」
「貴方も『怪奇』が見えるのですか」
鏡花はきょとんとした顔になった。丸眼鏡の向こうの瞳がくりくりとして、神経質な印象から一気に童顔の印象へと変わる。
「そうさ。僕は見える方。そこにいる花袋は霊がいる場所は変な匂いがするという。島崎君は何となく気配を感じるそうだ。知り合いには霊の音が聞こえるという子もいる。意外に霊感は身近なものだよ。帝都には、特に多いようではあるが」
「そうなのですか。私だけが妙なものを見ているのかと思えば、意外に同じ力を持つものがたくさんいらっしゃるのですね」
「程度の差はあるがね。文士に多いように思えるのは、文士になるような感受性の持ち主に、霊感が備わることが多いからかもしれないよ」
単純に、独歩の知り合いに文士が多いという点を差し引きしても、近場にこれだけの霊感もちが集まっているのは『霊感』の持ち主には一定の素質というものがあるのだろう。文士は己の文学のためなら、時に暗澹たる深淵を覗き見ることを辞さない性質である。陰鬱なものに引き寄せられる傾向のある『怪奇』を見る力が、文士に多いのはそういう理由であるのかもしれない。
「泉君はどの程度『見える』んだい?」
その問いに、泉鏡花は一瞬、息を飲んだ。再び秋聲と目配せをし、少し息を吸ってから覚悟を決めたかのようにその言葉をつむぎだす。
「ほとんど全て、です」
「全て、というと?」
「私は、貴方たちのいう『怪奇』とやらが、どうやらそこらを歩く人間と同じように、はっきりと鮮明に、見えているようなのです。見えるだけではない、声、気配、息遣いまで感じるほどです。触れるまでわからないことすらある」
それは、たとえ幽霊妖怪の類であっても、それが完全に人間の姿をしていれば、鏡花には見分けがつかないということだ。そんなことがあるというだけでも驚きだが、そこまでくると逆に鏡花が『怪奇』と普通の人間を見分けるきっかけが何だったのかが気になる。
「触れるまでわからない、ということは、実際に触れたことがあるわけだね?」
「ええ、何度か。でも、最近は触れずとも見分ける方法がわかりました」
「ふむ、それは一体?」
鏡花は丸眼鏡を外す。神経質そうなその目で、龍土軒の店内をぐるりと見回して「ここにはいませんね」と述べた。
「なるほど、眼鏡を外しても『怪奇』ならばはっきりと見えるわけか」
「ええ。私は近眼ですが、『怪奇』には人の身の不具合など関係ないようです」
花袋も目が悪いが、彼の霊感は嗅覚にある。そして見る霊感持ちの独歩は、眼鏡が必要ない視力の持ち主だ。なるほど、視力で怪奇を見分けられるという発想は、興味深いものであった。
「泉君の霊感は、非常に興味深いね。独歩君、僕らの霊感と比べてみて、どう思う?」
藤村はメンチと化したカツレツを少しずつ口に運びながら、口を挟む。こういう時、いつも前のめりになって話に参加するのは國男であるから、彼のそんな様子に少なからず驚いた。
「独歩君、僕は霊感が何たるかについて、たまに考えているんだ。國男君がいうように古来より人の持つ力で、それがたまたま帝都において『霊感』という言葉を得たのか、独歩君が言うようにそれに加えて帝都という場所による力が働いて『霊感』として発現しているのか。僕も花袋も独歩君も、この力を『霊感』として認識できたのは帝都にきてから。でも、泉君は故郷の金沢にいた頃から見えていたという。ねえ、國男君はこの差についてどう思う?」
話を振られた國男は、ううむ、と考え込んだ。ここにいる誰よりもオカルトに詳しいのに、ここにいる誰よりも霊感に縁遠いのが彼である。
「そうだなぁ、俺は元々一定量、人間には『霊感』が備わっているんだと思っている。日本全国、どこに行っても怪奇譚は存在するからだ。だけど、独歩がいう『現象として帝都に集中する怪奇』ってのが、全く同質のものとは限らない」
「帝都で『怪奇』が多く発生するのは、絶えず海外から『怪奇』や『霊穴』の元になるものが流入するから、っていうのが独歩の説だったよな」
花袋もしきりに首をひねりながら、思案している。
「そうだ。『怪奇』の海外渡来説だな。これはまだ怪奇画報にも載せてはいないけれど、文明開化とともにやたらと帝都に『怪奇』が増えたのは、『霊穴』の原因が海外から渡ってきたためであるとする説だ。元々概念的な存在であるから、帝都に『怪奇』ありという民衆の思想によって、その辺に転がっていたちょっとした『怪奇』が存在感を増している、と考えている」
現象としての『怪奇』は、どこにでもある。帝都でその『怪奇』が特別視されはじめたのは、明治の開国以降のことだ。つまり、新しい文化の流入と、常に刷新されていく人々の意識が、海外文化の流入によってもたらされた新しい種類の怪異譚を『怪奇』として認識し始めた。
「卵が先か、鶏が先かという話さ。泉君がみてきた金沢の怪異と、この帝都の『怪奇』は本質的には変わらない。どちらかが嘘ということもないだろうし、本質が同じでも完全にイコールとは言い切れない」
その回答に、泉鏡花が納得を得たのかどうかはわからない。
秋聲はじっと、鏡花を見ている。どうやら、まだ話には続きがありそうだ。
つまり、独歩が鏡花の霊感話を信じるかどうかは『前提』であったということだ。まだ話の主題ではなかった。
「それで、僕に聞かせたい『怪奇』の話はあるのかな、泉君」
彼は、丸眼鏡をかけ直して、まっすぐに独歩を見た。
「私は金沢にいた頃、所用ででかけた隣県の福井で、『青ゲット』を見たことがあります。そして、それと同じものをこの間、帝都でも見ました。それが偶然なのか『怪奇』であるのか、私には判断できなかったのです。眼鏡を外す前にその『青ゲット』は姿を消してしまいました。だけどそれがもし『怪奇』であれば、近々人が死ぬのかもしれない……」
福井県の『青ゲット』と言われれば、それが示すのはひとつだけである。
ゲットとはいわゆるブランケット、海外渡来の毛織物のことであるが、福井ではかつて青いゲットを被った不審者が連続殺人を起こした事件があった。
青ゲットを被った男が、猛吹雪の晩に訪ねてきて、家族を一人ずつ近所の橋の上に呼び出して惨殺した。
一人ずつ呼び出していくという奇妙な手口と、その残酷さに反して怨恨の筋も金銭狙いの筋も見えないこと、最初に呼び出されたはずの家主の遺体だけ見つかっていないなど、謎の多い事件である。
数々の憶測をもたらしながら、未だ解決をみないその事件は『青ゲット殺人事件』として、日本中を恐怖に陥れた。
顔もわからない、目的もわからない、青ゲットの殺人鬼が帝都にいる。それは『怪奇』であるかもしれない。
「なるほど、それは警察にいうわけにもいかない。僕向きの案件というわけだね」
国木田独歩は、文士であり、詩人であり、編集者であり、ジャーナリストである。
「殺人鬼の正体を調べる。なかなかに惹かれる題材だ。怪奇であってもなくても、僕は君のいうことを信じるよ、泉君。帝都に青ゲット殺人鬼有りとなれば、世間の混乱は十分に予測できる」
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