第18話 惨劇の残り香を追って

 神楽坂の和菓子屋女将の殺人は、表立っては自殺として処理された。

 なぜかというと、女将の遺体が見つからなかったからである。牛込橋に女将のものと思しき血痕が見つかった。しかしそれだけで、肝心の女将本人は行方が知れない。

 彼女は夜間に、用事があると言い置いて自分から出て行ったのだと聞く。その時に来ていた紫の小袖の切れ端が、血痕と共に残されていた。遺書めいた書き置きが彼女の部屋から見つかり、橋の上で首をかき切って川に身投げをしたのではないかと推測された。

「使用人への当たりが強くなったのも、商売ごとでの悩みがあったからではないか、ということなんだが、どうだね」

「到底、信じられないことですね」

 意見を求めた独歩に、鏡花はどこか怒りを秘めた表情で答えた。

 例の和菓子屋は、さすがに休業している。血痕のことを考えれば、女将が生きている望みは薄い。遺書もはっきりそうと決まったわけではなく、目撃証言がないから暫定で自殺とされているだけだ。有力な証言が出れば、覆る。

 警察もそこまで馬鹿ではないから、自殺説は恐らく騒ぎの拡大を防ぐための建前だろう。よほど怠惰な警官が担当しているのでなければ、怨恨や通り魔の線での捜査も行なっているはずだ。

 何せ神楽坂は繁華街である。牛込橋には噂を聞きつけた野次馬が、ひっきりなしに足を運んでいる。店を閉めざるを得なかったのは、女将の行方不明だけが理由ではないだろう。

「どう思う、花袋、藤村。何か『怪奇』の気配はするかね」

「相変わらず人が多すぎてわからん」

「僕も」

 独歩が話を振ると、花袋と藤村からはなんとも頼りない返事が返ってきた。

 かくいう独歩も、この人混みの中から『怪奇』だけを見分けろというのはなかなか難しい。

 鏡花とは違い、明らかな異変ならばはっきりと『怪奇』とわかる独歩ですらそうなのだ。匂いや気配といった他と混ざりやすいものを察知する彼らがわからないとして、どうして責めることができようか。

「ここでわかりやすく青ゲットの影でも見えれば、これは『怪奇』の仕業かといえそうなものなのに」

「そんな都合のいい話はないだろう」

 愚痴をこぼすと、秋聲が呆れまじりに口を挟んだ。『怪奇』に興味もなければ、特に霊感があるわけでもない。リアリストな彼にしてみれば、『怪奇』の仕業であるよりも、人間の仕業であると考える方が自然に思えるのだろう。

「秋聲君、これで『怪奇』というのは一見すると荒唐無稽に思えるが、舐めてかかるわけにはいかないものなのさ。『怪奇』は人や場所に憑く。が、あくまで憑くだけだ。『怪奇』は事故や事件を誘発する。だが、その事件や事故を起こすのは人だ。魑魅魍魎の類ではないわけだよ」

 以前に独歩がいくつか関わった事件でも、『怪奇』そのものが意思を持って事件を起こしたようなことはなかった。『怪奇』の影響を受けて、事故や事件を引き起こすのは人間だ。『怪奇』は観測者や実行役を伴って初めて、その脅威を発揮することになる。

 『怪奇』の発生源となる『霊穴』にしてもそれは同じで、そこにあるだけで何かがどうにかなるわけではない。

「しかし、わずかにではあるけど、青ゲットのことを噂している人もいるみたいですよ」

 鏡花が難しい顔で口を挟んだ。自分が見たものが他人にも認知されたとはいえ、なじみの店の女将が失踪して、しかも死んだ可能性が高いとなれば穏やかではないだろう。

「青ゲット説はまだ噂の段階で、広く流布されているわけではないようだ。単純に、橋の上で起きた謎めいた事件に紐づけて、深読みして騒いでいるだけかもしれない」

「では、この事件の青ゲットは『怪奇』ではないと?」

「今の時点では、何とも言えないな。青ゲットが『怪奇』であるというなら、観測されるに値する人間の意思が必要だ。泉君が観測しやすい体質であるというのは、人の負の感情への機微が人より敏感である証左かもしれないね」

「つまり、私が見た時も『怪奇』に影響されていた人間がいて、それがたまたま青ゲットの姿に見えていた可能性があると?」

 鏡花は首を傾げたが、独歩は鷹揚に頷いた。

「可能性のひとつではある。たまたま福井で青ゲットを観測したことがある泉君に観測されたから、そういう姿になったという説だ」

 鏡花が福井で観測した時は、もちろん青ゲット殺人事件という強力な噂の出元があったわけだ。連想する対象としてさほど不思議なものでもないだろう。

「では、本来は青ゲットでない。もしくは他の人には別の見え方になるのでしょうか」

「ううむ、それはどうだろうな。僕らはすでにここに出現した『怪奇』が、青ゲットだという先入観を持っている。そして、そういった噂がすでに出ている。他の人間が『怪奇』としての青ゲットを見ていない、という証拠もない」

 ここが『怪奇』調査の難しいところだ。誰でも同じように『怪奇』を観測できるという保証がない。しかし、少なからず噂話が『怪奇』の伝播に影響することはわかっている。

 だから、今はまだごく一部の人間による与太話だったとしても、どこかの新聞が「帝都に青ゲットあり」と報じれば、この神楽坂の事件と結びついて『青ゲットの怪奇』として完成してしまう。そうなると、泉鏡花個人の観測結果という問題ではない。

 橋の上で惨殺されたと思われる痕跡、殺害されたと思しき人間の行方不明。共通点があれば、どうしても結びつくのが人の噂である。誰も目撃していないのに、青ゲットが帝都に現れたことになってしまうのは、時間の問題かもしれない。

「これが『怪奇』に憑かれた人間の仕業だとすれば、女将は自殺も他殺もありえるだろうな。『怪奇』に憑かれた人間は、自殺方法も常人が思いつかないような突飛な方法をとることがある」

「でも、それだと遺体が見つからない理由にはならなくない? 川に落ちたとして、警察だって調べないわけでもないでしょう?」

 藤村が、人混みだらけの牛込橋の様子を眺めながら、ぼんやりと呟く。

「川に身投げした遺体が三日くらいあがらないとか、さほど珍しくはないだろ」

「普通の状況ならね。でも、ここは神楽坂だよ。吹雪の夜の、福井の村ではない。花街だってある。夜とはいえ、誰にも見つからずに大量の血痕を残して、遺体もあがらずなんてこと、あるかな?」

 藤村が疑問に思うのも無理はない。花街があるということは、夜もそれなりに人通りがあるということだ。

 そんな繁華街の近くにあって、刃傷沙汰に気づかないものであろうかという疑問は残る。それが『怪奇』ゆえだとしても、確証は何もない。

 人混みをかきわけて、もっと橋に近づいてみるべきか。考えあぐねていると、急に花袋が「ちょっと」と一言言いおいてどんどん橋から離れていった。

「おい、花袋。いったいどういうことなのか、説明したまえよ」

「何か変な匂いがした……気がする」

 ずんずんと進みながらそう答える花袋の背中を追って、独歩は藤村と顔を見合わせた。花袋の霊感について、話を聞いただけの秋聲と鏡花は、わけがわからない様子でただついてくる。

 そうする内に、休業中の和菓子屋の前までやってきた。和菓子屋が出元かと思えば、花袋はさらに進む。たどり着いたのは、和菓子屋の裏手にある井戸だ。

「ううむ、ここ、な気がするんだけどな」

 花袋がしきりに首を傾げている。匂いがここだとはっきりわかるのなら、彼はそういうだろう。言わないということは、出元を断定できないのだ。

 試しに井戸を覗き込んでみたが、一般に使われている井戸と大差がないように見えた。つまり、独歩の『視る』霊感にはこの場所に反応していない。藤村を横目で見ると、彼も首を横に振った。

「泉君は、この場所で妙なものが見えたりするか?」

「いえ、特におかしいところはないように思います」

 鏡花は念を入れて、眼鏡をかけたり外したりしたが、特になにごともないようだ。

「気のせいではないと思うんだがなぁ」

 花袋は鼻を鳴らしていぶかしむ。もちろん、花袋の鼻を信用していないわけではない。この場所に引き寄せられたのは、事実であろう。

「考えられるとしたら、この井戸そのものではなくここを利用する人間に『怪奇』がついている。もしくは、この井戸に来るまでの過程で途中まで行き先を同じにしていた『怪奇』憑きがいたかだな」

 どちらもということもありえよう。場所についた『怪奇』や『霊穴』がひとりでに移動するとは考えづらい。『怪奇』は人間に憑いている可能で胃が高いのだ。

「その『怪奇』っていうのは、ほとんど必ず人間に憑くものなのかい」

 秋聲の言葉に、独歩はかぶりを振る。

「いいや、そうでもない。特に発生源となる『霊穴』は場所に憑くことの方が多いと思うが……」

 神楽坂は賑やかな街だ。『霊穴』や『怪奇』は負の感情、静かでジメジメとした暗鬱な場所に憑きやすい。これは『怪奇』の基本性質であるから、そう簡単に例外が出ることはないだろう。

「神楽坂のような陽の気が強い場所で『怪奇』が憑くとしたら、場所よりも人間だと思う」

 牛込橋も、通り沿いの和菓子屋も、『怪奇』や『霊穴』の発生条件を満たすには賑やかすぎる。この井戸はやや条件にあっているように思えるが、繁華街の共用の井戸であるからさほど『怪奇』が好む場所とはいえないだろう。

 だが、そこに行き来する人間に憑くのであれば、可能性は広がる。

「花袋の鼻が嗅ぎつけたということは、この近くの住人かもしれない。もういないとなると、入れ違いか。さて、どうしたものかな」

 五人組は、思案顔で立ち尽くしている。

 その、一本道を挟んだ向こう側で、少しずつことが進んでいることに彼らはまだ気がついていなかった。



 時は少しさかのぼり、朝。

 ハルは軒先に出て、先日長屋の住人から分けてもらった大根を吊るして干していた。沢庵でも漬けて、上手くできたら長屋の住人におすそ分けをしよう。そんあことを考えていると、道の向こうから見知った顔が歩いてきた。

「ハルちゃん、独歩はいるか?」

 洋装に帽子を被った健康的な容貌の青年は、独歩の友人、松岡國男である。

「独歩さんなら、花袋さん、藤村さんと連れ立ってお出かけになりましたよ。神楽坂で、作家仲間の方と待ち合わせだそうです」

「ああっ、あいつらまた俺を除け者にしやがったな!」

 國男が怒り狂いながら地団駄を踏む。言われてみれば、あの顔ぶれの中に國男がいないのは、奇妙に思えた。

 あの面々をそろえておきながら國男が呼ばれないとしたら、理由はひとつくらいしか思いつかない。それは。

「もしかして『怪奇』絡みですか?」

「そうだよ! 俺が一番『怪奇』のネタに詳しいってのに、霊感がないからっていつも後回しだ!」

 國男は大変なオカルトマニアで、霊感を持っている独歩や花袋、藤村たちよりも『怪奇』への造詣は深い。とはいえ、彼本人にはかけらほどの霊感も備わっていないため、霊感が必要な現場では呼ばれないことも多々あるのだった。國男はまさにその現場にいたいにも関わらず、である。

「あの、今回は私も呼ばれていないですし」

 それが慰めになるのかはわからなかったが、ハルはひとまず國男を宥めることに注力した。が、國男は何故か表情を輝かせた。嫌な予感がする。独歩ほどではないが、國男もまた、行動力の化身なのである。

「ハルちゃん、あいつらのところに、神楽坂に行こう」

「ええっ?」

「そうだ、大人しく待っているなんて俺らしくない。行先がわかっているんだから、俺たちの方からいけばいいんだ」

「で、でも、神楽坂は人が多いですし、簡単に見つかるとは……」

 一応、止めたのだ。ハルは自分に言い聞かせた。止めても聞かなかったのは、彼なのだ、と。

「大丈夫だ、ハルちゃん。いくら神楽坂の街中でも、男が五人もぞろぞろ歩いていたら目立つ。それに、花袋が一緒だ。あいつは身体がでかいから一層目立つ!」

 そういう問題なのだろうか。困惑するハルをよそに、國男は完全に行く気になっている。

「あっ、ハルちゃん、もしかして忙しかった?」

「いえ、そういうわけでは」

 ここで忙しいと言っておけば、この後の展開も随分と違っていただろう。

 しかし、何の因果か、そうはならなかった。ハルは國男に流されるままに、神楽坂に向かうことが決定していた。

「ハルちゃんも、独歩に振り回されてばっかりいるんだから、もっと文句をつけてやっていいんだぞ」

 今まさに、絶賛振り回している國男がそんなことを言うので、ハルは苦笑いをするしかなかった。



 和菓子屋の片隅で、一人の男が頭を抱えていた。

「どうしてくれるんだ、お袋のことがとんでもない騒ぎになってしまった」

 彼は青ざめた顔で、ひたすらに恨み言を重ねていた。

「お袋の言う通り、正吉が死んだ時に、お前を他所にやれば良かった……ちくしょう」

 傍にいた少女は、身を縮こまらせて、寄る辺なく立っていた。彼女は、彼に言い返す言葉を持たなかった。立場が違いすぎて、口答えなどできるはずもない。ただただ、理不尽にひたすら耐えた。

「お前が誘ってきたのだろう、なぁ、お鈴」

「それは……」

 違う、と彼女は口にしかけた。だけど黙り込んだ。もうすでに、この場所は何一つ彼女にとって利益がないことはわかっていた。しかし、他に行く場所がないこともわかっていた。

 貧農の子供だ。わずかな米と味噌のために、姉弟で売られた。正吉が生きていれば、まだ望みもあっただろう。だけど、生き延びたのは自分の方だった。女が一人、郷里に戻っても必要とされない。元々、弟のついでに売られたようなものだった。母親は、いらなくなったら花街にやってもいいと、そう言ったのだ。

 哀しかった。死んだ弟の正吉が恋しかった。彼が生きていた頃は、辛い仕事も何だって頑張れた。彼がいた頃は、庇ってもらえることもあった。優しい姉想いの弟だった。

 何故、自分は女なのだろうと持った。女は番頭になれない。いくら頑張っても、弟の代わりにはなれない。

 弟は結核で亡くなった。

 食べ物を扱う手前もあって、結核患者が出たというのは聞こえが悪い。流行りの風邪で急になくなったということにしよう。そう言い出したのは、この若旦那であった。

 弟が結核にかかったと知れた途端、使用人部屋から追い出された。納屋で寝起きをする生活で、弟はあっという間に悪くなった。

 最初は、結核だから仕方がないと諦めていた。世間で肺病の人間がどんな風に思われているのか、知らないわけではない。一度は医者に見せてくれただけ、ありがたい。追い出されなかっただけありがたい。そう言い聞かせて生きてきた。

 若旦那は弟を納屋に追いやったが、自分には使用人の部屋を使わせた。そして、関係を迫った。

 彼と結ばれて、この店の女将になりたいなんて、そんな大それたことは考えていない。自分はまだ成人もしていないし、女学校にすら行けなかった奉公人の身だ。

 女将は、若旦那が自分に言い寄っているのを見て、いい顔をしなかった。当然だと思う。つらく当たられても、仕方がないと思う。

 つらく当たるようにはなったけれど、姉である自分が弟の世話をろくに見られないのはおかしいと、若旦那に忠告もしてくれた。

 仕方がない。肺病にかかったのは、弟のせいではない。仕方がない。肺病を治すような金を、奉公人が持っているはずもない。

 仕方がない。仕方がないのだ。若旦那は、弟を亡くした自分に寄り添ってくれようとしているのだ。女将は立場上、それを認めるわけにはいかなかったのだ。

 郷里に帰れないのは、実家には病気の弟と結納金も用意できない女子を養うお金がないから。仕方がない。

 全て、自分の境遇のせい。誰も悪くない。ただ、運が悪かった。巡り合わせが悪かったのだと思う。

 少女は――鈴子は、目の前にいる男を見ていた。

 彼の歪んだ顔を見ていた。

 仕方がない。

 女将さんはもう、いないのだから、仕方がない。

 諦めて、耐えて、それから――何処へ行けば、自分は報われるのだろうか。

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