第11話 文壇名物男、曰く

 かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に――


 ウメ子の撮った写真が現像された時に、独歩はひとつの推測を立てた。

「縁切り榎には確かに霊的な力があるのだろうさ。ただ、それはいわゆる『霊穴』によるものではない。土着信仰の類なのだろう。そして、それを感知できるかどうかは、霊感だけの問題ではない。恐らくだが、女性の方が感知しやすいんだ。男女の縁切りのいわくがついたのも、女性がより強くあの場所の力を感じられるからだろう」

 独歩も花袋も藤村も、縁切り榎に特に何も感じなかった。ハルだけが歌を聴くという体験をした。

 女性だけが感知しやすいのなら、説明はつく。

 茶屋の主人や、古くから板橋宿の近くに住む者への取材を行い、國男が知っている情報をすり合わせる。

 恐らく、縁切り榎は最初から男女の縁切りに使われていたわけではなかった。すっかり恋仲や夫婦仲を切るご利益として名を馳せているが、病魔との縁切りのご利益もあるという。樹皮を煎じて飲むというのも、漢方薬などで使われる手法であるし、女性に強く感知されるという性質から段々と噂が変容していったのであろう。

 現像した五枚の写真を、独歩者の面々、そして花袋、藤村、國男、ハル、収二という面々で覗き込む。

 小さな社屋の一室で、数枚の写真を大人数で囲んで回し見ている様は、端から見たら異様だろう。

「なーんで、最後の二枚だけ妙なことになってるんです?」

 写真師であるウメ子の言葉に、ハルは困惑の顔である。花袋も解せない顔をしていたが、藤村はふと納得したように頷いた。

「先の三枚を撮った時には、花袋君とハルさんがいたでしょう?」

「ええ、そうです」

「後の二枚は僕と独歩君、収二君が来てからだ。花袋君とハルさんの霊感は『匂い』とか『音』で、写真に撮りようがない。でも、僕の『気配』を感じる霊感と、独歩君の『視る』霊感なら、間接的に写真に影響したとしても、おかしくはないと思う」

「なるほど、女子の方が縁切り榎との相性がいいなら、ウメ子が撮った写真に僕と島崎の霊感が影響する、というのはありえるように思えるな」

 最初の三枚は、ただの榎が写っているだけのもの。

 残りの二枚には、子供と思しき人影が数人、木のたもとに写っている。

「これは見事な幽霊写真だ。試してみるものだな」

「私は何かイヤですよぉ」

 泣き言をいうウメ子を、藤村が「悪いものではないよ」と慰めた。実際、花袋もハルも独歩も、この幽霊写真そのものには何かを感じるところはない。不思議な人影が写っているだけで、この写真自体は安全と見える。

「國男はどう思う? ハルちゃんが聞いたかごめ歌について、何か思うところはあるか?」

「うーん、とはいってもなぁ。あの手の歌自体は、割りかしよくある部類のものなんだ。ただ、写っているのが子供で、わらべ歌が聞こえたとなると、子供に関するいわれが何かあるのかもなぁ」

「ふむ、縁切榎にまつわるものは、男女の縁切りの話ばかり。古い話も病魔祓いとくれば、縁切り榎と子供とはあまり関連がなさそうにも思えるが」

 そこで独歩は黙りこくった。國男と花袋、収二が微妙な顔つきで視線を交わしたのは、あの不審な産院を思い出したからであろう。とはいえ、岩の坂が貧民窟になったのは明治に入ってからのこと。縁切り榎の逸話と関連するには、時代が浅すぎるとも言える。

 むしろ、文明開化後の事象である『霊穴』が発生するとしたら、縁切り榎よりも岩の坂の方ではあるまいか。

「なあ、独歩。この幽霊写真、雑誌に使うわけか?」

 小杉が二枚の幽霊写真を手に取った。独歩はうなずく。せっかく撮ったのだから、使わぬのは損だ。

「印刷に上手く出ると思うか?」

「まぁ、何とかしよう。いざとなれば俺が図解もしよう。そのための挿画師だろう」

「頼りにしているぞ、小杉。吉江と窪田も、概要だけはまとめておいたから、記事を半分作っておいてくれ。縁切り榎についてのことは、國男も協力してくれるから、色々聞いていいぞ」

「おい、独歩、丸投げすんな」

 國男の抗議を「まぁまぁ」と軽く流す。オカルトになど、興味もなければもちろん知識もない独歩社の面々である。独歩とて、霊感があるだけで詳しいわけではない。

「専門家の監修は必要だ。きちんと原稿料は出すから、協力してくれ」

「原稿料は売上が立ってからでいい。そのかわり龍土会ではビールを奢ってくれ。専門家として名前が載るのは悪くないな。その内、また東北あたりの逸話を収集しにいきたい。雑誌を監修した肩書が役に立つこともあるだろうさ」

「さすが、國男は話がわかる」

「松岡さん、お手数おかけしますが、よろしくお願いします。何せ我が社の社長はこの通り自由が過ぎるので」

「独歩さんはその名の通り、独断専行の男だから俺たちではなんとも」

 吉江と窪田が救いを求めるような眼差しを國男に向けるのを見て、独歩は不満げに腕を組む。

「吉江、窪田、君たちは僕のことを何だと思っている?」

「国木田独歩だろ」

「小杉、君は僕の名前を独裁者の代名詞にするつもりか」

「いいや? わがまま駄々っ子の代名詞だと思っている」

 小杉の返しに、花袋と國男、ハルが吹き出した。藤村ですら「ふっ」と一瞬息をついたので、彼のジョークはよほどの面白さであったとみえる。怒り心頭になるわけにもいかず、独歩はぐっと言葉を飲み込んだ。

「いいだろう。駄々をこねているだけではないことを、この雑誌で証明するとも。というわけで、花袋、藤村、収二、これから少しばかり浅草まで付き合いたまえよ」

「なんだよ、俺は仲間外れか?」

「國男は雑誌の手伝いをしてほしいんだ。悪いな、取材と雑誌の制作を同時進行しなければならん。それと、浅草には取材とは別件の用事がな。しばらく顔を出してなかった坂本が戻ってくるというものだから」

 坂本、の名前に、独歩社の面々があんぐりと口を開けた。その反応に、今度は社員以外の者たちが驚いている。無理もない。

「坂本は独歩社の社員だ。といっても、本人はすぐ放浪の旅に出てしまうから、ほとんど幽霊社員だがな。花袋や島崎、國男あたりは名前を知っているんじゃないか? 坂本紅蓮洞だよ」

「あー、あいつか!」

 花袋が声をあげ、國男と藤村もなるほどといった顔をする。収二は顔を見知っていたので、名前を聞いて腑に落ちたようだ。文壇とは関わりないハルだけが、困惑の眼差しを各人に向けた。

「その、紅蓮洞さんという方は、そんなに有名なのですか?」

「有名というか……文壇の名物男だな。作品がどうというよりは、奇人として有名だ。ハルちゃん、会ってみるかい?」

 一人だけ知らないというのが気づまりだったのか、純粋に興味があったのか。ハルの心中はともかく、彼女は珍しく独歩の誘いに食いつくように迫った。

「ぜひお願いします!」



 独歩、花袋、藤村、収二、ハルという不可解な面子で銀座に降り立った。愛用のステッキをカツンと鳴らして、独歩は浅草の駅前を先頭に立って歩いていく。

 浅草には、明治十三年からやっている神谷バーがある。洋酒を置く大衆居酒屋の先駆けといってもいいだろう。

 ビリビリと痺れるような刺激を持つ神谷バー名物の度数が強い洋酒は、当時西洋文化の象徴であった電気のイメージと合わせて『電気ブラン』と名付けられた。

 立ち飲みのバーに、若い娘が行く機会などそうそうない。神谷バーに入るなり、ハルは目を白黒させていた。

「ハルちゃんは僕たちのそばを離れないでくれるか。酒を飲む店だと、どうしても荒くれた性分の男も多いのでね」

「は、はい……」

「心配しなくても、坂本を見つけたらここはすぐに出るさ。もう少し落ち着けるところに行こう」

 そもそも、ぞろぞろと大人数で来るような場所でもない。独歩は目的の人物をすぐに見つけた。着流し姿でボサボサの髪を紐で括った、野性的な三十路がらみの男が酒杯を傾けている。

「社長を浅草まで呼び出しておいて、先に酒を煽っているとはさすがだな、坂本」

「俺は休暇中なもんでねぇ」

 ケタケタと上機嫌に笑い、彼は無精髭の目立つ顎を撫でさする。

「つもる話なら座れるところに行こうぜぇ。少なくとも、ここはお嬢ちゃんにはちょっと早いからなぁ」

 店主に酒代を渡すと坂本は声をかけてくる酔っぱらいの男たちをいなしながら、下駄を鳴らしてずんずんと出口へと歩いていく。

 独歩たちもそれを追った。かれは店外に出ても振り向くことすらなく、やがて一軒の大衆食堂の暖簾をくぐる。

「ここなら嬢ちゃんでも大丈夫だろ」

「お気遣い感謝するよ、坂本。だが、行動よりも先に一言くらい目的地を言うべきだ」

「誰よりも早くすっ飛んでくことに定評のある社長様が、それを言うかねぇ」

 やはりケタケタと大きな声で笑う。こういった振る舞いをしても下品にはなりすぎないところが、この坂本紅蓮洞という男の不可思議なところである。

「ここは、あんみつが美味いんだよ。お嬢ちゃんもきっと気にいるぜ。ところで、お嬢ちゃんはどちら様だい? 社長のいい人かい?」

「い、いえ、私は……ええと、独歩さんのお隣に住んでいるだけで」

「彼女は榎本ハルちゃん。僕の隣家に住んでいて、長屋の大家だよ。時折僕の仕事も手伝ってくれていてね。器量よしの子なんだ、手出しは無用だよ」

「おっと、社長の牽制が入っちまった」

 ケタケタと特徴的な笑い方をするのに、それが不思議と下品になりすぎない。本当は下心のかけらも持ち合わせていないのであろうことが信じられるのも、この男の不可解なところである。最初はおどおどとしていたハルも、今では何だか気の抜けたような笑みを浮かべている。

「どうも、僕は初めてお目にかかるかな。島崎藤村。詩人であり、作家です。文壇名物男の坂本君が、急に独歩君を呼び出した理由というのが気になるのだけど、僕らが一緒に聞いていても問題ないことかな」

 藤村がすすっと腰をあげて前に出る。物静かな男に見えて、彼は知的好奇心の虜である。文壇名物男と名高い坂本の急な来訪に、彼なりに浮き足立っているようだ。

「俺は確か、前に何度かあったな」

「ああ、田山花袋な。覚えてるぜ。社長によく呼び出される、世話焼きのお友達君」

「その言い方はやめてくれ。藤村は、俺と独歩の共通の友人だ。怪しい奴じゃあない」

「おや、花袋くん、それだと僕が怪しい自己紹介をしたみたいだね」

「そうとは言わないが、急にぐいぐいといきすぎだって言ってるんだよ。俺の友人はみんなこんなんばっかりだ」

 苦い顔をする花袋をよそに、坂本はまたあの奇怪な笑いを振りまいて、肩をすくめてみせた。

「俺は文壇のあちこちに顔を出しているからな。初対面だが名前は知っているさ。北村君のお仲間だな、島崎藤村氏」

「ああ……彼の知り合いだったんだね」

 藤村は納得したようにうなずき、しかしそれ以上のことは問わなかった。坂本はもちろん、独歩も、花袋も、収二ですらその話題は続けず、事情を知らぬハルだけがきょとんと目を丸くする。

 北村透谷。藤村の詩人時代の友人。そして、すでに今は亡き人だ。

 今回の話題には関係ないし、藤村の過去を掘り返す意味もない。坂本も知っているということを、端的に示しただけでそれ以上のことは求めていない。ハルは空気を読める娘であるから、何となしに触れてはいけない話題だとは察したようだ。ちょうど頼んだあんみつが出されたので、手を合わせて「いただきます」と頭を垂れる。

「ところで社長、オカルトに手を出してるってのは本当かい? 死刑囚の手記といい、うちの会社はついにキワモノ出版じゃなけりゃあ稼げなくなっちまったのか?」

「婦人誌は売れている。婦人誌は、な。何か売れ線が欲しいと考えた結果、怪奇について調べるに至ったわけだ。まぁ、以前出した死刑囚の手記がきっかけであったのは認めるところではある。ちなみに、アレの発案は窪田だ」

「お、意外だねぇ、空穂はそういうのに興味があるようには見えないが」

「弁護士に知り合いがいたようでね」

 数年前に起こった、少年の臀部を切り取る猟奇事件。その犯人の手記をまとめて出版した時は、事件の話題性もあってか飛ぶように売れた。

 もっとも、世間は忘れるのも早いから、売れたのは本当に最初だけだ。しかし、怪奇の観点から臀肉事件の推察をしたおまけの部分に、思いのほかの反響があった。

 人間は、自分の理解の範疇を超えたものを観測し、究明したいという本能的な欲求があるのだ。

「戦争需要も尽き、民衆は飽き足りている。新しい時代の文学はまだ民衆の心を捉えていない。人情噺、愉快噺など、古臭い劇作家じみた物語を好む。もちろん、全てを否定はしないさ。僕だって水滸伝は好きだ。馬琴だって読んだ。文学がまだ僕らの目指すところに追いつかないとしても、雑誌はあくまで今の民衆の興味を引くべきだ。怪奇は古今東西、あらゆる民衆にとって興味対象さ。人間はいつでも正体のわからないものを恐れ、疑い、時に反発し、狂信する」

「ふむ、さすが、社長の論説は思わず納得してしまうような説得力があるな」

「素直に納得してくれたまえ。僕らは真剣にやっているんだ。幽霊写真も撮ってみせた」

「お、そいつは俺も興味あるねぇ。見せてくれよ」

「それなら、僕を呼び出したりせずにちゃんと社に顔を出すことだな。特に吉江なんて、数字に強い君が戻ってこないもんだから、経理もやらなければならなくて半泣きだ。とはいえ、幽霊写真そのものは、待っていれば雑誌に載せる。買って売り上げに貢献してくれてもいい。僕らはアレのために、岩の坂くんだりまで通ったのだから」

「岩の坂。あの貧民窟かい?」

 坂本は、貧民窟と化した岩の坂の現状を知っているらしい。彼は基本、文壇のあちこちを行き来しているが、世捨て人ではない。貧民窟に出入りする趣味があるようには思えなかった。とはいえ、顔が広いことにおいては、独歩以上だ。

「坂本君は、岩の坂について何か知っているのかい?」

 この話に横から口を出したのは、意外にも藤村だった。

「うーん? 何かといっても、ぼんやりとした噂がいくつか、かな。それも貧民街ではよくある話さ」

「子供や女性に関することは?」

 ここまでくれば、その場にいた誰もがなんとなしに藤村の意図を理解した。

 要するに彼は、男女の縁切りのご利益がある縁切り榎と、ハルが聞いたわらべ歌の関係性を、榎ではなく岩の坂だからこその逸話に見出そうとしているのだ。

「あそこは、縁切り榎があるからか、よく子供が捨てられるんだ。最近は、それで一儲けしようってんで、養育費を取って赤子を引き取る商売ができた。飯もろくに食えないような寒村に売られるってよ。でも、本当に他人に言えなくて困っているような娘さんは、わざわざ岩の坂まで行っちまう。貧農の子になっても、生きてくれれば、っていうのは親心って言えるのかねえ」

 その話自体は、坂本の言う通りよくあることなのだろう。養子の受け入れを行なっている産院はいくつもある。新聞に赤子を譲るという広告がずらりと並ぶことも珍しくない。表立って里親を募集することすらできないとなれば、よほどの事情であろう。

 縁切り榎の逸話と合わせれば、確かにそういう「どうにもならない事情で密かに手放す子」の受け皿があの場所でも不可解ではない。

 藤村は、顔をあげる。彼の眼差しには、普段にはない強い光が宿っているように見えた。

「貧農って、ある程度育った子ならともかく、働き手にならない月齢の赤子、欲しがるものだと思うかい?」

「産院を仲介にして、間接的に養育費を受け取るのが目当てだろうな。運がよければ働き手になって、運が悪けりゃ……って感じかね。まぁ、それこそ田舎にはよくあることだろう。『神隠し』とかな。養育費の払いがいい相手がいるなら、赤子をうっかり死なせてしまった場合、代わりの赤子が必要になる。金を受け取るためには、お宅の子供はまだまだ元気ですよ、と言わないとならないからな。似た月齢の子を探すわけだ」

「……わかっていはいたけど、ろくでもない話だね」

 藤村は、それ以上追求はしなかった。独歩や花袋、収二も、坂本からそれ以上聞き出すことは無意味だとわかっていた。ハルだけが、気が滅入る話を聞いてしまったためか、あんみつをすくうさじを空に止めたまま、気まずそうな顔をしている。

「おっと、お嬢ちゃんにはちょっと刺激が強い話だったな。いや、俺はこんなことを言うために社長を呼び出したわけじゃねえんだ」

 縁切り榎の話ですっかり横道にそれていたが、そもそも坂本の方が浅草まで独歩を呼び出したのであった。

 社員として名を連ねているものの、社内で働いていたのは最初のひと月だけ、その後は気ままに放浪生活をしながら、文壇のゴシップや面白いネタが拾えた時に、稀に社に戻ってくるのがこの坂本紅蓮洞という男である。

「君が僕を呼び出すくらいだから、面白いネタが拾えたんだろう?」

 独歩の問いに、坂本はにやりと笑った。

「そうそう、この間、横浜まで飲みに行った時に聞いたんだよ。社長は『からゆきさん』の話を聞いたことがあるかい?」

「ふむ、女子を洋行させて海外で働かせるのだったか。西の方の話なら、収二の方が詳しいか?」

 ああ、と収二は頷く。

「九州の島原や天草地方の娘が、よく行くらしいね。男児も、シベリアの方で鉄道工事に従事させるために連れて行かれることがあるようだけど、おおむね女性ばかりだったかと。神戸にも港があるから、九州ほどではないけどそういった船が出るという噂は立っていたよ」

「あの、その『からゆきさん』ってなんですか?」

 ハルは知らなかったらしい。男性陣はそろいもそろって奥歯にものが挟まったような顔になったわけだが、坂本はさして気にした風でもなく、彼女の素朴な疑問に答えた。

「貧乏な農村から女子供を買い取り、海外で仕事をさせるという名目で売り飛ばすのさ。女は東南アジアに行く場合が多いな。海を渡って唐まで出稼ぎにいく。だから『唐行きさん』ってわけだ。年頃の女の子の前でこういうことを言うのもなんだが……要するに、身売りをさせられる」

「ああ……やっぱり、そういうのなんですね」

 ハルはため息をつき、あんみつのさじを置いてしまった。食が進まなくなってもいたしかたあるまい。坂本は「悪いね」と謝ったが、ハルは気丈にかぶりを振った。

「聞いたのは私の方ですから」

「そうかい? しかし、この『からゆきさん』の斡旋が横浜でも秘密裏に行われているって話なんだよなぁ。もしかすると、さっきの岩の坂の貰い子の話も、この話に噛んでいるかもしれない」

「横浜は、マリア・ルス号の一件があるから、人身売買への取り締まりは他の港よりも厳しいはずなのだがね」

 マリア・ルス号事件は、明治初期に起こった。

 横浜に寄港したイギリス船のマリア・ルス号から、清国人の労働者が海中へ脱出し、近くにいたイギリス軍艦に助けを求めたのだ。清国からの出稼ぎ労働者が中心だったその乗組員たちは、奴隷も同然のひどい扱いを受けていた。日本政府はマリア・ルス号の清国人乗組員を救助・保護し、事件は国際裁判に発展したのだった。

 こういった経緯があるため、横浜では人身売買に関する取締りが他の港以上に強化されることとなった。マリア・ルス号事件と同年に発令された、芸娼妓解放令の影響もある。少なくとも、帝都にほど近い横浜では、無闇に脱法行為をすることははばかられたということであろう。

「やれやれ、いつの時代も人間が一番怖い」

 坂本は笑った。独歩も苦笑いをこぼす。

 死刑囚の手記を発行した際、独歩は彼の手記に自論による解説を乗せた。死刑囚の主張は『怪奇』によって影響されたためのものであり、自分の意思で人を殺したわけではない、というものだ。それに対し、独歩派凶行の原因に『怪奇』の影響はあれど、『怪奇』は現象であり人の内心を根底から覆す悪魔にはあらず、と述べたのだ。

 誠に恐ろしきは『怪奇』に理由を見出して凶行を肯定する人間の悪心である、と締めた。

「意思を持って人間に害をなすのは、人間の業さ。そして人間を救うのも、人間の善良なる心だよ」

「社長はプロテスタントを信じているんじゃなかったのかい。神様はどうしたよ」

「神は善良なる人の心に宿るんだよ。そして善良さは豊かさに宿る。明日を生きるのにも大変な人間が、神に祈るものか。君に幸あれ、アーメン」

 豊かでなければ、一杯十銭のそばも食べられずに、人から金を奪う。一厘の残飯や薄めた汁物に群がる。まともに働くことを諦めるものもいる。貧困は怠惰の温床だ。何をしても無駄だと感じれば、人は努力をする価値を人生に見出さない。

「そこに『怪奇』があったとして、それを理由に悪事を行うのは人の心だ。縁切り榎に悪縁断ちを願うも、里子に出した子供を海の向こうに売り飛ばすのも、人の心が成したことだよ。オカルトは世情が求める幻想なのさ。それでも、文壇ゴシップよりは俗物的ではないかもしれない」

「そんなものかねぇ」

「そんなものさ。人の心に棲まう悪鬼を見るよりは、幽霊写真に一喜一憂する方がよほど健全だとも」

 坂本は何とも言えない顔で、眉を上げた。それを、ハルが興味深そうにしげしげと見ているのだった。



 坂本はまだまだ飲み歩くつもりだというので、独歩たちは彼と別れて暮れなずむ浅草を歩いた。ずいぶんと時間が経っていたらしい。

「これは急がないと、帰りが夜中になるな。せっかく浅草まで来たのだし、ハルちゃんに凌雲閣でも見せようと思ったのに」

 浅草の名所といえば、十二階建ての煉瓦造りの楼閣『凌雲閣』だ。花袋は遠目に凌雲閣の影が夕空に馴染むのを眺めながら、ため息をつく。

「ああ、帝都じゃあそこより高い建物はないというもんな。収二だって見たかっただろう」

「僕は、一度兄さんと登ったことがあるよ。兄さん、新しいものが好きだからね」

「俺とも行ったことがある。何だ、独歩、お前何度も行ってるんじゃないか」

「そりゃあ、あんないい眺めで、しかもハイカラな場所ときたら何度でも行ってみたいじゃあないか。島崎だってそうだろう」

「僕も一度登ったよ。素晴らしい眺めだった」

「ほら、この島崎ですら行ったことがある。ハルちゃん、今度は坂本抜きで浅草に来ような」

「別に私は、凌雲閣を見にきたわけじゃないですよ。確かに少しは……いえ、だいぶ、見てみたかった、ですけど」

 ハルはごにょごにょと言葉を濁す。

「そういえば、誘ったのは僕だけど、どうしてハルちゃんは坂本に会おうと思ったんだ?」

「皆さんが口を揃えて奇人だとおっしゃるので、どんな人なのか気になって……それと」

「それと?」

「なんか、また歌が聞こえたように思えたんですよね。独歩さんから坂本さんの話を聞いた時、例のかごめ歌が……」

 坂本には恐らく、霊感はない。文壇の名物男、奇人として有名な彼だが、魑魅魍魎を信じるような性質ではなかった。信じているなら、オカルト雑誌に國男と同じくらいに食いついたはずだ。

「ハルちゃんに、教えたい事があったのかね」

「それって、縁切り榎がってことですか?」

 果たして、縁切り榎に意思などあるものか。

 ――だが、あの幽霊写真には、子供の姿があった。

「いや、縁切り榎に、ついていた子供が、かな?」

 榎に『怪奇』があったとして、あの写真に影を見せた子らには、子取りの歌を唄う理由があったのだろうか?

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