殺人鬼のアノニマス篇
第15話 龍土会に珍客ありて
ガス燈のぼんやりとした灯りの下で、青い人影がぐらりと揺れた。
『怪奇』に憑かれた哀れなる者の末路か、それとも『正気の狂人』か。
「どうして、どうしてですか。私は貴方を信じていたのですよ」
彼の嘆きが、薄暗い通りにこだまする。
ガス燈、橋の上、血塗れの遺体、青ゲットを被った人影。
「ねえ、国木田君、あれはやっぱり、怨霊か何かってことはないの?」
嘆く彼の背を見て、もう一人の彼はそう言った。信じたくないものを見る時、人はそれを未知なる不可解な存在であると定義する。そうすることで、守れるものもある。
だが、今この時においては、それは単なる希望観測に過ぎない。
何故なら『怪奇』は現象であり、意思を持たない。人間の認知が『怪奇』によって歪むことがあっても、『怪奇』が人のように意思を持ってことを成すことはない。ましてや、特定の人間だけを狙って、特定の場所で、そっくりそのままのやり方で人を殺すことなどありえない。
よって、あの青ゲットの人影は――。
「あれは『怪奇憑き』か『正気の狂人』だ。どちらかは僕にもわかりかねる」
国木田独歩は、そう述べた。
杖に仕込んだ短刀を抜き、かつては福井の田舎で住民を恐怖に陥れた顔も知られぬ怪人を、その意思に囚われた青ゲットの殺人鬼と対峙する。
顔なき、名前なき殺人鬼であるというのは、『青ゲットの殺人』という概念によってつくられた虚構である。
「あれは間違いなく、幽霊ではない。僕らを害することができる、生身の人間なのさ」
それがたとえ『怪奇』憑きであっても、生身である以上、無貌にして無名の存在ではない。正体を解明できる、生きた『人間』でしかない。
「だから、裁かれるべきだ。それが『怪奇』によるものであったとしても、帝都の青ゲットの殺人鬼は現実に存在する人間だ。福井の殺人鬼と同一人物であっても、別人であっても、人間である以上、あれを野放しにすることなどできない」
青ゲットの影は揺れる。
ゆらゆらと、ゆらゆらと。
血の滴る鉈を携えて、まるで嘲笑うかのように揺れている。
だが、その青ゲットの向こう側には、確かに人間の顔がある。
弓なりにそった笑顔を貼りつけた、邪悪にして狂気を宿した人間の顔が――。
◆
独歩社は、今月を乗り切れるかも怪しい貧乏極まりない零細の出版社である。しかし、最近では社屋の家賃の心配がなくなる程度には稼ぎが出るようになった。
「ほら、見たまえ。僕の着眼点は間違いではなかった。世間は刺激を求めている。探究心に飢えているのさ」
社長、国木田独歩は得意満面にそう宣言した。
独歩社が苦肉の策として創刊した『帝都怪奇画報』は、社員達の懸念をよそに、そこそこの売り上げを出した。ほとんど唯一売り上げを支えているといっても良かった婦人誌には及ばぬものの、赤字を打ち消す程度の売り上げを確保することには成功したのである。
「まさか本当にうれるとは思いませんでした」
会計担当を兼任する記者、吉江孤雁は半ば呆然としながら帳簿を見つめている。
「なんといっても、ウメ子の撮った幽霊写真が効いたな」
怪奇画報の誌面をめくりながら、挿画師の小杉未醒が感心したように息をつく。
「俺、最初は独歩さんが何か仕掛けでもしたのかと」
記者の一人、窪田空穂の言葉に、独歩は激昂してステッキを振り回した。
「いくら金に困っていたからといって、そんなインチキをするものか。窪田、君は僕のことをそんなチャチな詐欺師だと思っていたのか」
「いえいえ、とんでもないです! 真実をありのままに、それが独歩さんの主義ですよね」
「わかっているんじゃあないか。邪推は慎みたまえよ」
フン、と鼻を鳴らした独歩の後ろで、そっと雑誌を閉じた小杉は胡乱な眼差しを向けていた。
「ところで、初手から幽霊写真なんて出してしまったからには、次はそんじゃそこらのネタでは食いついてくれないと思うが、策はあるんだろうな、独歩」
独歩のステッキが、静かにすっと下に下された。カツン、カツン、と床を打ち鳴らす。
「君たち、何かこう、パッと派手なオカルトネタはないのか?」
「独歩さぁん!」
これは窪田の泣き言まがいの悲鳴である。
「独歩だな……」
これは小杉の呆れ半分のぼやきである。
「……独歩さん!」
これは吉江の会計担当ゆえ痛恨の呻きである。
「まぁまぁ、落ち着きたまえ、君たち。今日はちょうど龍土会の集まりがある。ここはひとつ、國男あたりにでもとっておきの怪奇ネタを持ってきてもらおうじゃないか」
「結局他人頼みじゃあないか」
小杉の真っ当すぎる指摘を、独歩は聞かぬフリでやり過ごした。
◆
独歩社で、婦人誌と文芸誌の編集をある程度片付けた後、独歩は龍土会の集まりへと向かった。
途中、やはり勤め先の博文館で仕事をこなしてきた帰りの親友、田山花袋と合流する。
「怪奇画報、売れたんだってな。良かったよ」
「まぁ、次のネタにさっそく困っているわけだが」
「お前のことだ、また急に突飛なネタを拾ってくるだろう」
「そうなら良いのだけどね。結局は人脈こそが僕の真骨頂だ」
独歩の人脈は幅広い。記者や編集仲間、文士の仲間はもちろんとして、政治家や実業家にも知己が多い。
あちこち仕事を転々としながら、独歩は決して手は抜かない。どの仕事も全力で打ち込む。友人達は皆、独歩はわがままで横暴であると口をそろえるが、それと同じくらいに人情家であるとも理解している。
独歩は一度仲間と思った人間には、とことん正直で実直で、力を貸すことを決して厭わない。だからこそ、自分の周りには常に人が集まるのだと自負している。
「俺は、お前の斬新な発想は、もっと評価されるべきと思うんだけどな」
「世間がついてこないのだから仕方があるまい。幸い、僕は仲間には恵まれている。実にありがたいことだ」
洋食屋「龍土軒」で行われる文士達のサロン、龍土会は、元々は独歩の友人である松岡國男が中心となって始まった。今でこそ独歩は國男と並ぶ中心人物の一人であるが、実は途中から仲間に入れてもらった立場である。
独歩は、作家としては全く売れていない。当初は國男の詩人仲間であったことと、独歩の名前を世に知らしめた従軍記者としての名声が、龍土会へと招かれたきっかけだ。
「作家の僕も、もう少し評価されて良いと思うわけだが、世間はまだ紅露ばかりだ」
「本当にな。って言っても、俺も尾崎紅葉の門徒を叩いたことがあるから、あんまり言えたスジではないんだが」
花袋は、上京した当初、尾崎紅葉の門下に入りたくて、彼の元を訪ねたという。今では独歩と一緒に、尾崎紅葉、幸田露伴の二人の大家を崇め奉る世間に牙を向いているというのにだ。しかし、彼の行為を責めることはできない。高名な師に見出されなければ、文壇に名を連ねることすら叶わない。ひと昔前まで、そういう空気が文壇を支配していた。そしてその空気は、今でもまだそこかしこに残っているのだった。
「花袋は結局、江見水陰氏のところで学んだのだったか」
「ああ。まぁ、正直にいうと尾崎先生とは性格も合わなかったんだな。そういう意味で、自分の直弟子ではなく江見先生のところに俺を寄越したあの人は、人を見る目はあったと思うよ」
「なるほど、なるほど。さすが門下生が押し寄せる人気の先生は、見え方が違うと」
くつくつと笑う独歩に、花袋は少し困ったように目を逸らした。
「ああ、尾崎紅葉の話はこれでしまいだ。龍土会ではその話題は出すなよ。俺だって気まずい中で酒なんて飲みたくない」
「おや、ということは、今日は尾崎門下の誰かが来るということか。風葉君か? それとも秋聲君?」
「秋聲の方だな」
「そうか、秋聲君か。彼の書く話は、真実の物の見方をよくわかっている。僕は例の四天王の中では一等好きだね」
「確かに、あの中ではお前の好みだろうなぁ」
徳田秋聲。彼は尾崎紅葉の門下の中でも、四天王と呼ばれる存在である。しかし、他の三人に較べるとあまりにも質実な作風であったために、最も目立たない存在でもあった。
尾崎紅葉が起こした硯友社は、戯曲の流れを汲んだ前時代的な作風が多い。尾崎紅葉、そしてその門下生たちが新しい文学を志していることはわかる。
しかし、西洋の自然主義のような、真実をありのままに表現する文学を目指す独歩から見ると、彼らの作風はあくまで読者の楽しみのためにかかれた華々しい作り話であり、非現実的であると思う。
その点で、地味な作風ながらも真実に近い人々の営みに目を向けた徳田秋聲の作品は、独歩には親しみを持てるものだ。
「そう、秋聲がな。折り入ってお前に相談があると言うんだ。それで、知人の文士を連れてくると言っていたんだが……風葉じゃないんだったら、誰だろうな。尾崎門下か、別の文士か」
「秋聲君の知人の文士?」
「そうだ。あいつ、内気な割に面倒見はそこそこいいから、知り合いは多いんだよな。誰だろう」
「龍土会に顔を出しそうな秋聲君の友達は、僕も風葉君か島崎くらいしか思いつかないな」
「藤村なら、わざわざ言ってこないだろう?」
島崎藤村は、もともと花袋や独歩、國男との付き合いがあるのだから、秋聲がわざわざ連れてくるなどとは言わないはずだ。
となると、有力なのは尾崎紅葉の門下生の誰かであるが、門下生も多々いるわけである。
「行けばわかるさ。心配するな。いくら僕だって、文学論議に熱がこもりすぎなければ、喧嘩することはあるまいよ」
「それが心配なんだけどな」
独歩の気楽な発言に、花袋は頭を抱えた。
かくして、二人は龍土軒にたどりついた。そこには國男や藤村がすでに待っており、そして見知った顔と見知らぬ顔が二人ばかり立っている。一人は、紺の着物に灰色の羽織を纏った、色の白い青年。もう一人は整った顔立ちに、少しばかり神経質そうな眼差しを持った、眼鏡をかけた袴姿の青年。
「久しぶりだね、秋聲君。初めて見る顔がいるけど、紹介してもらえるかな」
独歩は愛想よくそう述べたが、後ろで花袋が小さな声で「うげっ」と呟いたことには気がついていた。
色白の青年が、徳田秋聲。メガネをかけた神経質そうな美青年、彼は――。
「初めまして、貴方が国木田独歩さんですね。田山さんはお久しぶりです。私は尾崎紅葉先生の門下生、泉鏡花でございます。以後、お見知りおきを」
泉鏡花。尾崎紅葉一門の四天王の中でも、最も著名で、天才と名高い作家。その作風は怪しくロマンティシズムに満ちたものであり、他に類を見ない幻想的な筆致が多くの者を魅了する。
――これはずいぶんと、大物が来てしまったな。
それが独歩の素直な感想であった。
尾崎紅葉をはじめとした硯友社の作家たちがもつ作風を、独歩は嫌っている。しかし、彼らの成した文学の価値は、大いに認めている。独歩が真に気に入らないのは、流行ばかりに目を向けて、新しい文学の価値を探ろうともしない者たちである。
そう言った意味では、師匠である尾崎紅葉の影響を多分に受けつつも、独自の路線を開拓し、しかもその路線で確かな人気を確保した泉鏡花は、尊敬に値する先達と言っていいだろう。
問題は、独歩など目の端にも入れていないであろう人気作家、泉鏡花がどんな理由でここにやってきたのかだ。
「僕は国木田独歩。すでに聞いているかもしれないが、作家であり、詩人であり、記者でもあり、編集者でもある。お会いできて、素直に嬉しいよ、泉鏡花氏。立ち話では落ち着かない。中に入って詳しい話を聞こうじゃないか」
「ええ、このような場所で立ち話をしていては、着物も汚れてしまいますからね」
そう述べて、泉鏡花は我先にと店へと入っていく。
それを見送ってから、独歩は後ろにいる花袋に小さな声でぼやいた。
「なぁ、花袋。君、泉鏡花に対する率直な印象を手短に教えてもらえるか。それによって僕の出方が決まるんだ」
「潔癖、神経質、尾崎紅葉の極限の信奉者」
「ありがとう、参考にする」
そのやりとりを見て、秋聲が実に気まずい顔をしたわけだが、そもそも連れてきたのは彼である。気まずいのは覚悟の上であろうと、独歩は見ないフリを決め込んだ。
しかして、この出会いはまさに、帝都におかえる新たなる『怪奇』との遭遇の予兆であったのだ。
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