縁切坂のパラディウム篇

第8話 縁切り坂に潜む怪

 その坂を、人は『縁切り坂』と呼ぶ。

 曰く、その坂のはずれにある榎のたもとを通ると、夫婦は必ず分かたれることになる、と。

 事実、そこには今も多くの者が訪れては、悪縁を切りたいと嘆き願うのだ。縁切りの榎がある坂の入り口。だからこそ、『縁切り坂』なのである。

 正しくは『岩の坂』という地名であるこの一帯は、かつては板橋宿として栄えていた。しかし縁切りの伝承ゆえに、宿場町でありながら『いやの坂』と揶揄されたこの坂道は、今は揶揄された通りの見る影もない貧民窟と化している。

 しかし、それは『怪奇』を原因としない。

 なぜなら、板橋宿の衰退はあくまで鉄道駅から離れ、人のにぎわいが消えたためだからだ。板橋宿に鉄道駅を作ろうとしなかったのは、当時の板橋宿の人々のエゴイズムであり、そこに『怪奇』も、『怪奇』を生み出す『霊穴』も関与していないのである。

 ――だから、これは『怪奇』ではなく、『人災』だ。

「独歩さん、あの子たちがいたところです!」

 最初は嫌がって近づきもしなかった『縁切り榎』の袂で、彼女はそう叫んだ。

「ここは大丈夫です。ここまで来れば、大丈夫です」

 彼女の――ハルの言葉を、独歩は信じた。

 縁切り坂の榎には、人の縁を断つ力を持つ。

 その伝えがどうして生まれたのかはわからない。それでも、多くの人が信じた。皇女が降嫁する際にも、避けて通られたほどに。

 だが、長年語られてきた伝承よりも、今は目の前にいる少女の言葉を信じる。

 そして、自分の目に見えたものを、信じる。

 多くの人間の『縁』を切ってきたのは、果たして本当にあの榎であっただろうか。

 縁は人が結ぶもの。つまり、切るのも人間である。

 そこに『怪奇』はない。

 たとえ本当に、この縁切り坂で不可解なる怪事件がおこっているのだとしても、それは独歩の考える『縁切り』の事件とは別件。

 これは、縁切り榎の呪いなどではなかった。

 これは――人間の起こした『狂気』の事件。

「花袋、収二、坂の八分にある家だ! 例の『産院』を名乗るあばら家を探るぞ」

 少年がいた。少女がいた。

 いつも飢えていた。だけど、その瞳には苦境に屈しないだけの命の輝きがあった。

 彼らを探さなければ――。



 この貧民窟では、野菜くずや残飯でも飛ぶように売れる。

 それすらもなければ、彼等はひたすら飢えに耐えながら、日もろくに差さないあばら家で、肩を寄せ合って寝転がっていた。一縷の望みをかけて日雇いの仕事を探す者、拾い物を集めて何とか売ろうと考える者、野犬でもいいからつかまえて食べようと試みる者、ただただうずくまる者。

 貧民の生活は過酷だ。過酷であるがゆえに、この地に行きついた者たちには、不思議とした連帯感がある。

 明日をも知れぬ暮らしの中で、この場所だから許されてきた『暗黙の了解』がある。

 思えば、最初の時点で疑うべきことがいくつもあった。

「独歩! 裏に回れ! 表は俺が行く」

 俊足の花袋が、少し先を駆けていく。

 少し遅れて、独歩と収二が追う。

「兄さん、やっぱり、これって……」

「ああ、恐らくそうだ」

 貧民たちには、暗黙の了解がある。

 そうしなければ生きていけない、哀しい現実と折り合うための、割り切りであり、悟りであり、諦めである。


 縁切坂の怪は、『怪奇』にあらず。その『解』は――。

壱 愛弟、帝都に来たる


 明治三十年。帝都に西洋化の趣きあり、されど人々に変わらぬ生活あり。

 そして人の営みの中に『怪奇』あり。

 明治の幕開けと共に、帝都を騒がせるようになった怪奇事件の数々。それらは、始まりこそ畏怖の対象であったものの、三十年と時を重ねた今となってはすでに娯楽と成り果てた。

「怪奇浪漫画報、これは売れると僕は見ているわけだよ。人間は深淵を覗きたがる生き物さ」

 零細出版社である『独歩社』の片隅。

 この会社の代表であり、作家でもある国木田独歩は、友人の二人に朗々と演説して見せた。

「そういうものか?」

 大柄な体躯に丸眼鏡の作家仲間、田山花袋は、やや冷めた反応である。

 一方、得意げにうなずいて見せたのは、彼の隣に立つ詩人仲間、松岡國男。

「やっと独歩にもオカルトの魅力がわかったとみえるな」

 生粋のオカルトマニアである彼は、怪奇雑誌の創刊にあたって声をかけられたことに気をよくしていた。以前、怪奇がらみの事件で國男を頼って以来、彼はオカルトマニアの本領は自分にありと得意満面なのである。

 もちろん、彼の知識を見込んで依頼をしたのは独歩であるから、彼の面目は立てる心づもりだった。独歩は多少『霊感』があり、『怪奇』を見ることができるというだけで、詳しいわけではない。『霊感』がかけらほどもないとしても、独歩の知人の中で國男よりもオカルトに精通している者はいない。

「國男はともかく、何で俺まで記事を書かされるんだ? 俺はオカルトに詳しくないし、独歩社の社員でもないぞ」

 花袋は釈然としない様子である。

「はっきりと言えば、霊感を持っていて、記事を書けそうな友人が花袋と島崎くらいだからだな。うちの社員は霊感もなければオカルト知識もない。頼りにしているぞ、親友じゃあないか」

「都合良く友情を持ち出しやがる」

 愚痴愚痴と言いつつも『親友』の一言に弱いのが、この田山花袋なのである。

「では、記念すべき創刊号のネタであるが、まずは古くからある帝都の怪異譚をとりあげる。とはいっても、もう既に世に出されているものではない、知る人ぞ知る、だけど身近な逸話が必要だ」

「……ん? ってことは、元々いわく付きの場所をとりあげるってことか? それだと、明治になってから発生した怪奇とは関係なくないか」

 帝都怪奇画法のコンセプトは、文明開化以降に多発するようになった怪奇事件の調査、真相究明である。花袋の疑問は最もなものと

いえる。元々あった怪奇話は、その土地に根付いた伝承であり、厳密には文明開化ーー分冥開化とも揶揄されたそれとは異なるものである。

「初めはそれでいいんだ。必要なのはきっかけだ。リアルタイムで怪奇事件が世間を騒がせているのならともかく、そうそう都合よく事件が起きるわけでもないからな」

「元々あった話ならば、大衆にも想像がつきやすいもんな」

「そうとも。國男はさすがに、その辺はよく理解している」

 國男は元々オカルトマニアであるし、趣味で土地に伝わる説話などを収拾している。この手の話がどういう風に伝播し、伝わっていくのかを理解するには、彼の協力は不可欠だ。

「霊感ごとは僕や花袋、島崎で何とかできる。編集や挿画、写真も、独歩社の人員で用意できる。重要なのは、興味をそそられる程度身近で、好奇心をかきたてる程度にセンセーショナルであることだ。この点は、國男の知識を大いにあてにしているとも」

「お前、さりげなく藤村も巻き込んだな」

「島崎とはもう話がついている。彼はアレで好奇心の塊だからな。意外に乗り気だったぞ。予定さえ合えば付き合ってくれるそうだ」

「と、藤村……」

 花袋は唸り声をあげながら、頭を抱えた。新しい文学を目指すため、日々邁進している彼であるが、この手のことには融通が利かない性格だ。自由すぎる親友たちを前に、深い深いため息をひとつ。

「で、さっそくなんだが、國男から板橋宿の不思議な話を聞いてな。さほど遠くもなく、しかし少し行きづらい場所、ということでなかなかいい立地だと思うのだが、花袋は当然付き合ってくれるよな」

「付き合わせる、だよな?」

「そうとも言うが、僕は一度だって君に強制した覚えはないよ。君が大変に付き合いの良い男というだけだとも」

「ものは言い様とはこのことだ」

 再び頭を抱えた花袋に、國男はニヤニヤとしながら声をかけた。

「行ってこいよ、花袋。お前にはいいと思うぜ」

「……何でだよ」

「板橋宿の岩の坂。縁切り榎を知っているか? 悪縁を断ち、良縁を結ぶと噂の木があるんだよ。せっかくだから、その甘ったるい純愛妄想を断ち切って、女の子との良縁を願ってくるといいぜ」

「そりゃあいいな。何せ花袋ときたら、女の子を目で追いかけるくせに、声をかけられたことなんて一度もないんだ。縁切り榎とやらに、そのまだるっこしい奥手な性根を断ち切ってもらいたまえよ」

「お前ら、なぁ!」

 女の子に声をかけられない奥手さは、花袋自身が最も気にしている点である。独歩は男女問わず気に入ればすぐに声をかける性質であるし、國男も花袋に比べればだいぶ積極的な性格だ。藤村はアレで意外とモテる。というわけで、この手のことに関して、仲間内では一番遅れをとっているわけである。

「大丈夫だ、花袋。君は少しばかり夢見がちすぎるところはあるが、誠実でいいやつだとも。彼女ならばと心に決めた人ができた際には、僕も國男も喜んで手を貸そう。まずは、目移りせずに運命の恋を見つけるところから始めることだ。さぁ、願おう、我らが縁切り榎に。もし悪縁断ちて良縁を成す、が真実であれば、記事の信憑性も増すというもの」

「俺をダシにするな!」

 独歩も件の縁切り榎にそこまでの即効性があるとは思っていないが、花袋を連れて行くにしても理由がなければ取材も適当になろう。なんだかんだ言って、丸眼鏡の奥で花袋の瞳が揺れたのを独歩は見逃していなかった。青年誰しも、年頃の娘と想いを通わせてみたいと思うもの。ましてや、恋に対して初心な花袋ならば、奥底に秘めたものはさぞ熱かろう。

「決定だ、縁切り榎への取材は明後日にする」

「俺の仕事は」

「適当に言って抜けてきたまえよ。親友がまた原稿を持ち込もうとしてうるさいので、嗜めてくるとでも言えばいい」

「お前、ついに自分の原稿の売れなさを利用するようになったんだな」

「君の上司が僕の文学を理解しないのが悪いのさ」

 フンと鼻を鳴らしてやると、花袋は観念したように「はいはい」と頷いて見せたのだった。



 独歩社の社員たちに、新雑誌の挿画や構成の指示を出したあと、独歩は花袋と國男を伴って一度自宅に帰ることにした。

 いつもならそのまま少し酒でも飲んで、といったところなのだが、今日は隣家の榎本家に家賃の支払いを約束していたのだ。さすがに飲みに行ったので支払いが遅れたとなれば、心証を悪くする。

 独歩が住む長屋は、隣家の榎本家が所有している。榎本家は女所帯で、病気がちな母に変わって主なことは長女であるハルが取り仕切っていた。ハルには度々世話になっているし、家賃の支払いに遅れたことが一度や二度ではないため、支払いできるときはしっかりと約束を守るのが独歩なりの誠意である。

「ハルちゃん、よくお前のことを追い出さないよな」

「男手が必要な時は手伝ったりしているし、家賃が遅れた時はお詫びに文学や英語を教えたりしている。僕だっていつでも不義理を働いているわけじゃあないさ。今月は婦人誌の売れ行きがとびきり良かったから、期日通り支払えて良かった」

「お前の会社、本当に婦人誌しか売れてないのな」

「うるさいぞ、花袋」

 図星である。認めたくはない。だからこれから、売れる雑誌を作ろうとしているわけであり。

 独歩の内心の思いはともかく、國男は別の点で好奇心をそそられているらしい。

「なぁ、独歩。ハルちゃんとはどこまでいったんだ?」

「ど、どこまでって!?」

 何故か独歩ではなく、花袋の方が動揺する。そういうところが初心で垢抜けないのだ。

「國男、誤解をしているようだが、僕とハルちゃんとは何もないぞ。ただの隣人、大家と店子さ」

「恋する詩人、国木田独歩ともあろうものが、乙女一人の心も射止められないわけか?」

「恋する詩人は君の方じゃないのか? 君、想い人がいたじゃあないか。そいつの進展を教えてくれるならば、僕もハルちゃんに対してどう想っているか教えてくれてやろう」

「ぐっ、ずるいぞ、独歩」

「ずるいも何もあったものか。話を振ってきたのは君じゃあないか」

 このやりとりの間、花袋は独歩と國男を見比べながら、一人で顔を赤くしたりなど百面相をしているのである。まったく、恋愛話にとくと向かない男だ。

 花袋にとっては幸いなことに、それ以上恋愛話が続くことはなかった。長屋の前に、ちょうど良くハルが出ていて、しかも知った顔を連れていたからだ。

 彼のことは、花袋はもちろん、國男もよく知っていた。

「収二! 収二じゃあないか! どうした? 来るのは明日じゃなかったのか?」

「一日、早く出られたんだ。兄さんのことを驚かせてやろうと思ったんだけれど、成功だね」

 すらりとした長身の、柔和そうな表情をした洋装の男。

 彼の隣にいた榎本ハルは、きょとんとした顔をして彼と独歩を見比べた。

「兄さん? ……ということは、独歩さんの、弟さん?」

「ええ、自己紹介が遅れました。僕の名前は国木田収二。国木田哲夫、いえ、独歩は僕の兄です」

「あ、御丁寧にどうも。榎本ハルです。独歩さんのお隣にすんでいます。この長屋の大家です」

 ハルがぺこりと頭を垂れる。

「ハルちゃんは初めて会うんだったな」

 独歩の弟、国木田収二は、普段は神戸の新聞社に勤めている。独歩の両親も収二が世話をしているので、独歩だけが帝都にいる形だ。

たまに東京に用事がある時は、必ず顔を見せにくるのだが、夜にくることが多いからハルと顔を合わせたことはなかったのだ。

「昔は独歩と一緒に暮らしていたから、俺や國男とは顔見知りなんだよ」

 花袋が軽く口を挟むと、収二は軽く会釈をして「お久しぶりです」と人懐っこい笑みで微笑んだ。

「何だか……兄弟と言われたらわかるけど、あまり……」

「似てないと思うか?」

 独歩はハルにニヤリと笑って見せる。しかし、横から花袋がぽつりと一言。

「身長が違いすぎるもんな」

 無言で花袋の向こう脛を蹴る。「いってぇ!」と悲鳴があがったが、知ったことか。図体の大きい花袋には、小柄な人間の悩みなどわからないに違いない。

 特段、背が低くも高くもない國男と、比較された当人たる収二は、苦笑いをしあっただけである。身長のことをネタにしすぎると、独歩が不機嫌になることを知っているからだ。花袋ほどには思ったことをそのまま口にはしない二人であった。

「そうだ、忘れるところだった。ハルちゃんに家賃を渡さねば」

 独歩が家賃を入れた封筒をハルに差し出すのを見て、収二はそこはかとなく表情を曇らせる。

「兄さん、今月は大丈夫なのかい?」

「お前は僕が常に金策に走っていると思っているのか」

「えっ、走ってますよね、割と……」

 封筒を握り締め、ハルが心配半分、疑念半分といった表情で問う。

「言っていくが、独歩。俺はこの件に関してはお前を庇えない」

 花袋に助け舟を頼もうとしたところで、先回りで封じられた。國男に目を向けると、そっと目をそらされる。

 そしてハルと収二の、何となく残念なものを見るような眼差しよ。

「……せっかく収二が来たんだ、何か食べに行こう。せっかくだからハルちゃんも一緒に」

「ごまかしたね、兄さん」

「何を言う。俺とお前の仲じゃあないか、なぁ、愛弟よ」

「はぁ、愛弟ね……」

 心底呆れた顔をして、だけど収二はため息混じりに歩き出した。

「龍土軒でもいいけど、ハルさんもいるから……鰻屋にでも行こう。この時間ならまだ空いているだろうから」

 そんな収二の姿を見て、ハルはぽかんとした様子。

「どうかしたのか、ハルちゃん」

「いえ……独歩さんの弟さんは、落ち着いていらっしゃいますね」

「えーと、それはつまり、僕が普段落ち着いていないということか……?」

 後ろから花袋と國男が、こらえきれずに噴き出した声がする。

 よほどステッキを振り回してやろうかと思ったのだが、それこそ落ち着きがなかろうと、独歩は辛うじて自分を抑えた。

 紳士的な判断である。



 街中をすこし歩けば、うなぎ飯ののれんが見つかる。

 時間をかけてじっくりと焼いた高級料亭の鰻はもちろん美味なのだが、独歩は庶民的なうなぎ飯が大好きだった。収二もうなぎ飯が好物で、二人で暮らしていた頃はよく一緒に食べにきたものだ。

「澁谷は田舎だから、わざわざ街中に出て食べていたんだよ。兄さんは本当にうなぎ飯が好きなんだ」

「そうそう。戦艦千代田で従軍記者をした時はずいぶんと良い待遇にしてもらえたが、海の上ではうなぎ飯が食べられないことだけがひたすら残念だったな」

「兄さんからの通信、たまに鰻が恋しいって書いていたくらい」

「愛弟、戦艦千代田にうなぎ飯を届けてくれ」

「無茶を言わないでよ」

 美味しいものを食べれば、会話も弾む。ましてや、収二という賓客がいるわけであるから、当然彼が話題の中心になる。

「いや、懐かしいな。戦艦千代田の従軍記で有名になった『愛弟』君だもんな。俺はあれで独歩の名前を知ったんだ、あの頃はまだ筆名ではなく本名だったけど」

「そうそう、従軍記者、国木田哲夫とその弟収二。仲間うちでも、いつか俺たちも従軍して名をあげるぞ! と息巻いていたものさ」

 花袋と國男が口々に言うのを、ハルは呆気に取られた様子で見ていた。

「日清戦争の頃は、子供だったし、あんまり興味がなかったので知らなかったんですけど……独歩さん、本当に有名な記者だったんですね」

「おや、疑っていたのかい、ハルちゃん」

「名をあげていたからこそ、お信さんとの出会いがあったわけだしなぁ。フラれたけど」

「失敬だな、花袋。朴念仁の君にだけは言われたくないね」

 その「お信さん」であるところの佐々城信子とは、つい先日一悶着あったばかりである。酒を一杯ひっかけて口が滑った花袋の言動に、ハルはやや気まずい顔になっていた。

「日清戦争の従軍記はすごかった。独歩がな、毎回弟の収二に宛てた手紙という体裁で出していたんだ。そんな従軍記、今まで誰も考えていなかった。しかも、実際に日本にいた弟の収二がそれを受け取っていたんだから」

「國男さんは、従軍される前からのお知り合いだったんですか?」

「いやいや、俺も花袋も、お信さん事件の後からさ。従軍時代からの知り合いっいうと……独歩社では小杉くらいじゃないか?」

「ああ、未醒は僕と一緒に船に乗っていたからな」

「そうだそうだ。小杉の挿画が載ったんだよ。そして、毎回お決まりの言葉で始まる」

 花袋と國男があんまりはしゃいでいるので、独歩も少しばかり気分が良くなって酒の杯を傾けた。

「愛弟、何よりして語るべき。事実少なくして感情多しとはわが今日までの逢遇にぞある」

「それだ、それ。読んでいる俺たちは、皆、収二君にでもなった気持ちでその通信を受け取った。あの澁谷の丘の上で、お前に初めて会った時に、家から顔をだした収二君を見て彼がかの『愛弟』か、と感激したものだ」

「花袋さんにそういう風に言われるのって、何だか照れくさいなぁ」

 収二も始終笑顔で杯を傾ける。ハルもいるし、まだ夜更でもないので、皆泥酔するほどには飲まない。ゆっくりと少しずつ杯を傾ける。たまにはこういう飲み方も悪くない。

「我々若手の文士にとって、従軍記者はちょっとした憧れになった。あの頃、誰もが国木田に続けと言わんばかりだった。何せあの藤村ですら、一時は従軍先を探していたくらいさ」

「えっ、藤村さんがですか?」

 無愛想で物静かな青年であり、一見すれば戦争などにはおよそ興味のなさそうな御仁が島崎藤村であるから、ハルの驚きも当然といえよう。

「それだけ、名が売れていない文士は立身出世の機会を虎視眈々と狙っているということさ。僕なんて、これでも記者として名をなして、自分の会社まで持っているだけ、だいぶ成功している方と言える」

「兄さん、成功は金策に困らなくなってから言った方がいいんじゃない?」

「収二、お前はどうしてそこまで僕の家計の心配ばかりしているんだ」

「現実に、心配だからだよ。母さんもいつも心配してるよ」

「僕は僕できちんとやっているとも。手紙でも言っただろう。今は新創刊の雑誌で多忙なんだ」

 独歩は「なぁ?」と花袋、國男に同意を求めたが、肝心の親友達と言えば、あからさまに目をそらす。ハルですら、擁護はしかねるといった様子で苦笑いである。

「はぁ、兄さんは昔からそうだ。自分がやりたいようにしかやらないんだから。その新創刊の雑誌、どれくらい見込めると思っているんだい?」

「見込みはあるとも。大衆はいつでも新鮮な驚きを求めている。ただ、新鮮すぎてもダメだ。適度に感心がなければ、理解できなくて終わってしまう。まるで僕の文学のように」

「そこで自分の文学を持ち出してくるあたり、さすがお前って感じがするよ」

 花袋の横やりはさらりと流しつつ。

「オカルト雑誌を作るのさ。大衆は、怪奇ネタが好きだ。怪奇は娯楽だとも。幸い、僕や花袋には霊感がある。國男のオカルト知識も借りれられる」

「さらりと俺たちをアテにしているけど、別にお前の会社の人間ではないからな」

 花袋のぼやきは、再び無視。

「収二、我が社には婦人誌以外の売れ線が必要なんだ。それは新しく、親しみがあり、そして驚きに満ちていなければならない。恐ろしいものほど見たくなる。人間は不可解なことを解明したがる生き物さ。その上に宗教があり、科学や医学があり、文明が花開く」

 朗々と語る独歩に、収二は何度目かのため息をこぼす。

「それで、興味を引くネタはあるの?」

「ああ。ちょうど今日はその話をしていたんだ。板橋宿の岩の坂を知っているか? そこの別名は『縁切り坂』だ。悪縁を断つ古い榎があるという」

「ええ、あの縁切榎ですか?」

 意外にも、反応したのはハルであった。

 この中で、一番怪奇話に興味が薄そうな少女である。男どもが呆気にとられていると、彼女は恥ずかしそうにうつむいた。

「有名です。あの榎の下を通ると、夫婦が別れるって」

「僕が聞いた話だと、悪縁を断ち良縁を結ぶということだったが……。気になるならハルちゃんも行ってみるかい?」

 最終的に良縁が結ばれるなら良かろう。独歩のそれは、おまじないの類を真摯に信じているであろう乙女への気遣いであったのだが、ハルはいつになく激しく拒絶した。

「ぜっったいに嫌ですっ!」

 あまりに力強く拒否されたので、独歩はやや面喰う。

「どうしてそこまで?」

「だって、縁切榎って、和宮様が降嫁される際に、わざわざ回り道したくらいの場所ですよ!」

「ああ……なるほど、そういう話もあったな」

 和宮は、皇室から徳川将軍家に嫁いだ内親王だ。降嫁する際の五〇キロにも及ぶ大行列は、縁切の逸話を嫌っていわくつきの場所を大きく迂回したという。

 和宮は明治天皇の叔母にあたる。まだ江戸の頃であるから、彼女が降嫁した際にはハルはもちろん、独歩もこの世には生まれていない。それでも、こうして乙女の間で噂が立つくらいには、関心を集めているのだろう。

 いつの時代も、恋は人間を夢中にさせる。少しの噂も、男女の仲が絡めば千里を駆け、時に百年でも響き渡る。

「うむ、題材としてはアリだということが証明されたな。収二、これはやはり売れるぞ。縁切り坂の怪、恋の行方も榎次第、とな。あ、もちろん、言ってみただけだから、今回はハルちゃんは付き合わなくても大丈夫だ」

 盃を傾けて闊達と笑う独歩に、収二は胡乱な眼差しを向けた。

「兄さん、僕は今回、少し長めの休暇をもらってね」

「お、そうなのか? じゃあ、ゆっくりしていきたまえ」

「だから、今回は僕も兄さんの取材を手伝うよ」

「……んん? それじゃあ、休暇にならないだろう」

「いいんだよ! 僕が兄さんを手伝いたいんだ」

 やいのやいのと言いあう兄弟を前にして、酒に弱い花袋は日本酒をちびちびと舐めつつ「俺には無条件で手伝わせるくせにな」とぼやいたのだった。

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