花火
「花火、しませんか」
不意にかけられた言葉は、どしゃ降りの蝉の声にかき消されかけた。
「え?」
重たく垂れた百日紅の下の薄暗がりで、ゆづが振り返る。口をつぐんだ仁に、彼は一度眼鏡をかけ直すと、ゆっくり踵を返して歩み寄った。まっすぐで、頭蓋骨の形にそってゆるくカーブする黒い髪に、さっと光の雨がさす。
「しのぶさん、どうしましたか」
後ろ手に白い指を組んで、仁は俯いていた。眼鏡をしていなくて、切れあがった眦の影は、夏でも青かった。こめかみを伝う汗も、雨滴のように冷ややかに見える皮膚の上に、見つめられ続けてわずかに朱がさした。
「……目、そんなに見ないで」
「だってしのぶさんがなにか言うから」
「別に。お墓はこの先ですか、と訊いただけです」
後ろ手に組んだ指が、柄杓と布巾のはいった桶の取手をきゅ、と握り直した。木肌をまねたプラスチックの温度は、掌になじむようでいて、結局ほんの少し低いままだ。仁は息をついて、唇を湿らせた。
蝉の声と一緒に、遠慮会釈ない光の矢が降ってくる季節だ。木陰から出ると、すぐに渇いてしまうだろう。耳も目も唇も、この都市の夏には慣れていない。
眼を伏せないと、奥まで焼けてしまう。
知り合った頃はよく見た黒い服に、鬼百合の花束を抱えたゆづは、不意に振り返ってにっこりと笑った。
「ねえ、しのぶさん」
そっと瞼をあげると、ゆづは黒くてまぁるい瞳で、仁の眼を──それを透したなにかを、見つめていた。
「僕、花火やりたいです。あなたと」
「花火、したことないんです」一度しか、と小さな声で付け加えた。コンビニのレジ前に並ぶ花火セットを手に取り、そのざらりとした素朴なピンクや黄色に眼を細める。妙に懐かしいフォントの「ファミリーセット」の文字が目に沁みた。
「え、本当ですか!?」ゆづが別で売られていた小さな線香花火をかごに入れながら、驚いた声をあげた。
「嘘ついてどうなるんですか。本当ですよ。……大学生のときに、一度だけ」
「へええ、それは……あ、じゃあ○○市の花火大会に行ったり、とか、は」
「無いです」一度も、と今度ははっきりと言い、仁はゆづの手からかごを取る。ついでに大きな花火セットをふたつ押し込んだ。ファミリーセット、のフォントのあか抜けなさに、ゆづはひどく郷愁が誘われる。
昔、家族と花火をした。まだ小さかった妹は父が抱いて、その小さな小さな手に花火を持たせてやって、そして自分も同じ光を手にもっていた。母の笑顔がオレンジや黄色の花に照らされて、そこは優しさの縁取りのなかだった。花束のなかはあたたかかった。
はるか遠い、無音であるのに心をかき乱すその光景は、夢でみる雷雨のようだった。
ゆづは花火の袋を握る指に力を込めた。くしゃっと皺が寄ったビニールは白く光った。
積み重ねる幸福だけが、甘く濁って、過去を煙らせていく。未だ鮮明に浮かぶ水底の景色を、優しく覆ってしまいたかった。そして、隣で手筒花火をためつすがめつしている、不幸な子供だったはずの彼も。
「……○○市、三ヶ月おきくらいに花火大会してるんですよ」
ゆづの言葉に、仁は片方の眉を微かにあげた。「海辺の町ですよね。温泉がある…、そんなに花火あげるんですか」
「ええ。だって、いつでも火は燃えますよ」
仁は少し考え、わずかに口角をあげて頷いた。そうですね、ロンドンでは冬の風物詩とききます、と、ゆづの耳に少し近づき囁く声のトーンにも慣れて久しい。
花火大会へ行こう。あの、幸福な子供時代の夏から遠いところへ。
つめたい空気のなかで見上げる火花は、流星群のようにみえるだろう。
ゆづは、黒い瞳を見上げながら笑った。
「……冬の花火は綺麗ですよ」
嵐が迫っていた。
びょうびょうと、夕闇を裂いてぬるく激しい風が細く吹き付けてくる最中、浜木綿の花茎が砂まみれのアスファルトにくたりと垂れて、自転車がその上を走った轍が、雨雲の影に覆い隠されようとしていた。
「もの悲しいね──」
こういうのが古文で言う「物凄し」なのかな、と、夢吾は花火の入ったビニール袋がばたばたと暴れるのを押さえた。
「なんでこんな日に海にくるんだ。馬鹿じゃないのか。馬鹿か」
「馬鹿だね、お前も俺も」
笑いながら、仁の手から小さなバケツをとると、夢吾は波打ち際に走り出した。闇の奥で、風に吹かれて汀の波打つさまは、どうしてか貝の足のように緩慢に見えた。
バケツに砂混じりの海水を汲み、駆け足で戻ってくる夢吾はいつのまにか裸足だった。白い足首が靄のような夏の夕闇に浮かび上がって、それに波の指が追いすがっていた。親指の爪が光っていた。
バケツを砂浜に置くと、だいぶ水がこぼれる。気にも留めずに花火の袋を破る夢吾の眉骨から鼻梁、唇にかけての、皮膚に覆われた骨の輪郭が、夜を弾くように、青灰色の微細な隆起を蒼白く際立たせていた。こんなに濃い夜に浸されて、それでも耳殻や眦や傷痕には淡く赤が滲み、皮膚の薄さを知った。
「……わっびっくりした。何? 何で見てんの?」
「………お前の面なんて見てない」
ふと隣にやった視線がばっちりと仁と絡み、驚いて頬を擦った夢吾に、すぐに視線を外した仁は低く呟く。そのとき、一際強い風がふたりに吹き付け、思わず目を閉じる。海の荒れる音に混ざって、風が渦を巻きはじめる音がする。
遠くの灯台の火も見えにくく、眼を凝らして仁は舌打ちする。
「台風の日に海に遊びにいって死ぬ馬鹿な大学生の仲間入りは御免だ」
「それな。花火終わったら即退散だ」
結局やるのか、と舌打ちしかけた仁の手首をつかんで、袋の口から引き出した辰砂色の花火を持たせた。まるで藁のように頼りなく感じて、これに火をつけるのか、あっという間に燃え尽きてしまいそうだと仁は思った。手首から離れていった夢吾の指は熱かった。
一時間前まで死体に触れていた指はまだ冷えている。メスで剥いだ皮膚の感触は、必ずこの男の指で塗り替えられる。なかで火が燃えているのだと錯覚する肌の温度と弾力は、骨に電気を走らせ、体の奥底から身震いさせる。
花火の先にジッポーの火を近づけて、夢吾は「顔近えよ」と笑った。「火傷するぞ」
む、とそっぽを向いて、ついでに二歩ほど距離をとった仁に、夢吾が鳳仙花の実が弾けるように笑って、肩を叩いた。「遠い遠い!」
「うわっ危な、火近づけるな」
「わははは」
夢吾の手の先で、かちっと音がする。次の瞬間、辰砂色の花火が、きらきら火の粉を飛ばして回転木馬のように輝きはじめた。思わず、わあ、と小さな声が出る。風に流される火は、まさしくちいさな花だった。体を風上に移動させて、消えないようにと奮闘しているうちに、夢吾が自分のものに火をつける。ぱちんと朱が燃えて、青い瞳が金の縁取りを得て、海のように光った。けして、長くは見つめていられない色をしていた。
視線を外して、頼りなさそうに揺らぎながらも茎にしがみつく花びらのようにしぶとい、オレンジや金の火の束を網膜に焼きつけるように睨んだ。二度と、来ないかもしれない景色だ。
眉間に皺すら寄せて線香花火をのぞきこむ仁を見た夢吾が、唐突に吹き出した。
「めっちゃ眼鏡に反射してる! レンズ光ってる!」
「……うるせえなお前は本当に……」
ふて腐れた顔で仁は、レンズ越しに光の花を睨んでいたが、やがて無造作にブリッジを摘まんで外した。外したら動作に困るほど、視力は悪くない。少なくとも、手元の花火の見え方は変わらない。代わりに、周囲の闇が深まった気がした。
火が消え、バケツに放り込むと、火薬の臭いがした。新しい一本を手に取ると、強まってきた風が髪をなぶる。夢吾も別の一本に火をつけているのが見えた。
淡々と、交互に花火を消費していくのは、機械的に過ごした夏の日を数えあげる作業に似ていた。春に出逢い、初夏は往き、夏は傍らにいた。距離が縮まるのは仁にとって責め苦でしかないのに、時は止まらず、のぼる朝陽の光に容赦はない。留まっていたい夜は、はかなく時の波に押し流される。
砂浜の上を、風が転がっていく。
この花火がすべて燃え尽きたら、狭まってきた闇に飲み込まれてしまうのだろうか。
そうしたら、朝を迎えなくてすむだろうか。
仁は指に力を込めて、シャツの袖をくしゃくしゃにした。手首の傷痕が熱を持っている。花火のせいではない。けして言ってはいけない、意識してもいけないはずの心が、身のうちで明るんで、溢れてしまいそうになる。
花火のように燃え尽きて、バケツに放り込めばそれで終わりでいいのに。
どうしてこうも焦げ付いてしまう。
闇のなかに散る光の軌跡は、花びらというより流星群にみえる、と思った瞬間だった。
顎をとられ、唇に熱が触れた。
目の前にまばゆい青があった。
「────」
触れたまま動かした唇の言葉はどちらのものだったのだろうか。今もそれはわからない。
隔てるもののない、稲妻のような青だけを今も覚えている。傷痕の下から溢れた彼の火の温度は、確かに自分と同じだった。
十二年前の、嵐の前夜だった。
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