Aurum
変えられた、と思う。とたんにどっと震えが押し寄せた。冷やりとした汗でシャツが背に張りついていた。
十年越しの韻律のようにもう一度、恋人に刃物を突き立てる夏の闇が、すぐそこまで迫っていたのだった。隣にいた。薄暗がりで、血に滑って光る包丁が見えるようだった。
変えられた。少なくとも、最悪の終わり方の繰り返しは。
俯いて、アルコールの匂いを漂わせながらしゃくりあげる恋人の、きらきら人工的な金髪が無性に憎らしくてかなしかった。見下ろす、陽があたると栗の皮のような濃茶になる、まっすぐな黒髪が好きだった。一体何の色かわからない、見ていると唇の後ろの歯が疼くような、蜂蜜みたいなぐるぐるした色合いはうんざりだった。
昔の男が、今の恋人を浸食していく。
まちがって、
「ゆづさん」
耳殻の内溝に、糸切り歯を引っかけて噛む。鼻梁に触れた、きらきら人工的なイエロー・ゴールドの束を、上唇で耳朶ごと食むと、跳ねた肩を鎖骨ごとおさえて、髪束を咬みちぎった。ぶちぶちっという音がして、悲鳴と、反射で背けられた顔に手を伸ばして、いつもは眼鏡をしている顔に、蜘蛛手に指を置く。
「いいですか」
夢を見た。
よく知った、十年前の夢であった。
あっけらかんとした、春の白い日。
卒業式と入学式のはざまの、宙ぶらりんの季節だった。
椿の北限よりも、さらに北、つめたいばかりの涯てから、はるばると列車に揺られて上京してきた。下宿先に最低限の荷物を運び、大学の敷地内にあるはずの生協で本でも買おうかと思って、やたらにがらんとした、不完全な街のような構内を歩いていたのだった。
白い花びらの先を、紅にちょんとつけたようなひらひらとした春の雪が、風に吹かれて仁の頬をつついた。襟に入り込んだそれをつまんで飛ばすと、またそれは空へ昇っていった。関東では桜がはやいと聞いていたが、これほどとは、と驚いていると、ざあっと景色が薄紅にのまれた。吹き下ろす風に目を閉じ、眼鏡を外して瞼をこする。睫毛にまといついた花びらが落ちると、花の下に誰かがいた。
永遠にただ一度の、そして無限に繰り返してきた一瞬だった。
煮とろかした果実のような、透きとおる暗い金の髪。
映画の中から出てきたような、旧世紀風の出で立ち。
かぎりなく淡い木下闇で、粉砂糖のような木洩れ日をあびて、佇む青年が、ふっとこちらを向いた。寒気のするほど青い瞳の、左の瞼に、傷痕があった。
そのかんばせ!
仁は膝をついて顔を覆いたかった。過去の自分にそうしろと怒鳴り付けたかった。それ以上彼を見るな。お前は自分に呪いをかける。
けれど、十年前の映像はけして変わることはない。
白い光のなか、立ち尽くす若者に、男は屈託なくその─薔薇のかんばせで笑いかけた。
「これ、桜じゃないんだって。
暗い金髪は光に透けて、綿毛に包まれているようなやわらかな白金に、その輪郭は燃えていた。
切り取られたシネマスコープの風景だった。
取り返しのつかないことをした、と今でも思う。入ってはいけなかったところに踏み込んでしまった、と感じたのだった。戯れに開いた門の向こうが修道院だったかのように、精液のまとわりついた指で、愛した画集に触れてしまったかのように。
シネマスコープ・サイズの景色は、何度も何度も見返して、擦りきれ歪んでいても気づくことはできない。それが記憶というものだ。そのままスロウ・ファイアに飲まれてしまえばいいと思うのに、Papez回路は驚くほど精確に機能する。目を閉じれば、巻き戻したように再生される記憶の惨たらしさを他人は知らないと気づいたときの脱力と絶望を、仁は罰に似ると感じていた。
だから仁は、春が嫌いだ。
かちり、と歯車が回った。かちかちかち、と古い映画館の音。上映はまだ続く。新世紀の地獄とはこういうものかもしれない、とぼんやり思った。自分の犯した罪を永遠に上映される、箱のなか。
この金色の光景が心に巣喰うかぎり、自分は恋人を傷つけ続けるのだ。
春の夜。空気のないような、透明な夜。
何度も巻き戻して観た景色は、生ぬるいばかりの宵の匂いにふちどられている。賽の河原に吹く風のような、街中のよどんだ温度に包まれ、かき混ぜられた。
医学部は縦の関係が重要だから、とりあえず何らかのサークルには入るべきであると教えられていた仁は、結局映画研究会に入ったのだった。学部の上級生は後輩を歓迎し、新歓の大義名分を掲げた単なる飲み会に半ば強引に仁を連れてきた。そのくせ道すがらは放置なのだから、一体何がしたいのか。
文字でない酒と喧騒は初めてで、現実とはどうしてこうも軽々しくて嫌な臭いがするのだろう、と思った。途切れた白線の上の嘔吐の痕跡、驚くほど大声で喋る男、皆の口数が増していく生々しい恐怖。秘密がない人間たち。さらけだすことに躊躇のないいきもの。
淵にたまる花びらがまといつくように、少しずつ膨れ上がっていく若者の群れに嫌気がさしたそのとき、古書店の角を曲がって、呼吸が止まった。
鈴蘭型の街灯の下、ひまわりの蜂蜜のような暗い金髪が照りはえていた。寒気のするほど、青い瞳。
「……Salut」
もう、踞ってしまいたかった。これ以上、幾度となく思い描いた記憶など手繰りたくなかった。けれども上映は続く。上級生は彼に声をかけ、肩を組む。
「お疲れさま、主演俳優」
「よく言う。勝手に撮って勝手に編集したくせに。せめてトーキーにしてくれりゃあ」
「お前のファッションが完璧だったんだよ、ムッシュゥ・クラシーク」
まるきり六十年代だった、と返す男に、言ったな、と笑う彼は、仁に目配せすると、唇の端をわずかに上げた。体温が上がった。あのとき、熱病にかかったのだと今ならわかる。
かちり、と音がした。わずかに、鮮明な景色にノイズが走る。おや、と思った瞬間、先を歩いていた暗い金髪が、不意に目映い人工の金に瞬いて見えた。ぎょっと立ち竦んだ感覚があまりにも現実感を伴っていて、余計に動転する。ゆづが。泣いていたはずの恋人がそこにいた。混乱する仁の精神を包む安い酒の匂いは、深山の霧のように感覚を狂わせていく。上級生たちと話している背は、いつの間にか小柄で黒髪の姿と二重写しになる。
後ずさりすると、何かを踏む。
小さな砕ける音に、本能的な恐怖にうなじの毛が逆立った。血が逆流する感覚、これは時が乱れている。じじ、と火花の音がして、ノイズが視界に走った。
記憶が。
変わることのないはずの。
こわい。いやだ。
次第に、繁華街にかぶさっていた煙が幕になり、灯りが消え、スクリーンが点る。空想は止まらない。席を立ちたくても、自分自身が歯車なのだ。
かちり、と、場面が切り替わる。
染みだらけの居酒屋の細い階段、天井、テーブルの上の料理の嘘のような熱さ。学生たちのばか騒ぎの波に打ち付けられて動けない。
顔をあげると、向かいには、あの男が座っているはずだった。まだ覚えている、深い緑のスプリングニットに、広い襟のシャツ。アマーンドの花の下と同じ笑顔。
「退屈?」
無造作なダーク・ブロンドの癖毛の下から、こちらを射抜いてきた、底のない青い瞳に、全身が強ばる。かつては熱狂的に焦がれ、今はその呪いに苦しめられるライト・ブルー。黒がいい、と目を閉じて願った。青も金も、この黒い瞳には過ぎた色だと今なら解っている。
「よく、映画とか観るの」
かちり。
もしも。
かちり。
もしも、あのとき。
─退屈、ですか。
まぼろしの声のおだやかさに、金の糸が切れ、ずぶずぶと空想の煙に沈んでいく。黒だ。この色を知っている、穏やかなこの黒。
あのとき出会っていたのがこの人だったなら、どうなっていたのだろう。向かいに座っていたのが、この人だったなら。
映画研究会の新歓は、騒がしくって猥雑で、厭だった。きっとそれは彼も同じだろう。
黙ってウーロン茶を飲んでいると、眼鏡越しに目があう。そして、先程の言葉だ。かちり、かちり。間違った歯車を噛みあわせたまま、回る。
大人しそうな彼の、口元のほくろに目がいく。穏和そうな顔立ちのなかで、印象的だった。晩春の浮わつきにはそぐわない、黒いシャツを着ている。
お互いにこの空間になじめない毛並みを感じて、おずおずと名乗りあう。それ、本名ですか、と失礼な仁は訊ねて、彼は笑って頷いた。
─よく、映画とか観るんですか。
─そこまででも。先輩がいるから、とりあえずで入っただけ。
─へえ。僕は勧誘を断りきれなくって。でも、一年生のうちは、奢ってもらえるらしいし、幽霊部員も歓迎って言われて、いいかなって。
へにゃ、と笑う表情は幼くて、でもどこか笑った顔の皺に薄闇を感じる。疲れた優しい笑み。その笑みを見つめているうちに、唇がほんの少し、するりとほどける。
─俺も、秋からキャンパス変わるから、そんなにサークル活動とかする気はなくて。たぶん、幽霊仲間。
─へえ? あ、もしかして医学部?
─…うん。
─そっか。大学病院の方にキャンパスあるんだっけ。
─そう。だから、どのみちそんなに来ない。
─忙しそうだもんね。
いつの間にか敬語がほぐれている。質問が探さなくても出てくる。
─文系?
─うん。
─そんな感じがする。
─みんなそれ言うなあ。なんでかな。
───桜が似合うからじゃないか。
そう口にする前に、ぱちん、…とスクリーンが真っ暗になった。
眠りから醒めたとき、船の上にいるようだと感じることがある。ベッドが小舟のように、時間の海に揺られている、伸び縮みする不可思議な夜という時間の海に。
カーテン越しの光は月の温度をしている。朝のほど近い、炎の色はまだ見えない。
夜明けはまだ遠い。
初めて、現実ではない景色を夢で見た。仁は額に右手をあて、左手で、力無く枕元を探る。髪の毛に触れ、その少し傷んだまっすぐな毛先に、胸がつまるような気持ちがした。横を向き、丸まって寝ているゆづの顔を見ることはできなかった。手の甲で、髪の毛越しに彼のこめかみに触れた。あたたかい。
眠りたくなかったので、起き出して電気をつけない洗面所でしばらく、ぼうっと膝を抱え、暗がりに座り込んでいた。
今より若くて、煙草の味を知らないだろう、ゆづのかんばせを思い描く。大学生の頃のゆづのことは知らない。けれど、驚くほど存在は確かだ。
暗い金髪の青年─
ゆづは仁より年下だ。卒業した大学も違うだろう。こんな邂逅はあり得ないのだ、真夏の桜より。
それでも、夢みるのをやめられない。
とうとうここまできたか、と、洗面所の曇った鏡にぼんやりと映る自分を、この上なく醜く、愚かだと思う。
座り込んだ床に、金色の柔い毛が落ちていた。
微かに肩が震え、それから拾い上げ、口に入れた。噛まずに飲み込むと、もう一度膝を抱えた。
暗がりに踞ったまま、朝日が昇って、その瞬間灰になってしまえばいい、と思う。
あくる夜も、夢を見た。
そのあくる夜も。
夢は途中まで、同じだった。
かちり。
ぬるりと、浄土の風が頬をなでるような、春の死骸が腐っていく夏だった。
かちり。
歯車の音にあわせて、スニーカーの足音が絨毯に吸われていく。大学の図書館の床だ、と思っているうちに、進行方向の自動扉が開いた。外は暗い。
図書館を出て、立ち止まる。のしかかるような夏の夜に、はっと濃密な梔子の匂いがさしこんだ。甘い。眼の奥が悦ぶ。記憶がはっきりと記録になる。
これは、解剖学の講義が始まった日だった。レジュメと電子化された教科書のなかで解体された人間は、何より仁を安心させて、図書館で夢中になってページを繰っていたら、真夜中の十時を回っていた。
約束があった、と思い出したのは、見るともなしに、頂をこえる秒針の動きを見ていたときだった。
図書館を出ると、ほの碧くすべてが光っていた。月のせいだったろうか。夜空を見上げなかった。
どこかで球技の音が聞こえる夜の構内を歩いていくと、視線の先、煉瓦を積んだ校門の四角い柱に、誰かがもたれかかっていた。壁に這う花の群れのように白い肌に、白いシャツを着た、碧をうけて蔦のかんむりのように光る暗い金髪の男だった。片手のハードカバーを見つめる横顔の形はやっぱりスクリーンの光景のようで、その瞼の小さな傷痕までがはっきりと見えた。
仁は足を止めて、その横顔を見ていた。街灯がどこかで瞬いて、金髪が火花のようにきらめいた。横顔は彫刻のように動かず、ストップモーションの舞台のようだった。
このまま自分が行かなければ、あの男はいつまで待っているのだろう。
数時間も待たせたくせに、そんな気持ちを起こして、立ち止まっていると、前触れもなく夢吾が本を閉じ、こちらを向いた。目が合い、青が瞬いた。
「しのぶ」
名前を呼ばれて、足をこちらへ踏み出す。
なにか言おうと息を吸い込んだとたん、腕時計越しに手首を引き寄せられた。ぞくり、と背筋に走る感覚を噛み殺す前に、頬を寄せられた。
「おつかれ」
「…近い」
「ふふ、悪い悪い」
「よく待ってたな」
「そんなに。なにか食べてく?」
「……帰りたい。なにも食べたくない」
そ、と頷いた夢吾は、仁の髪を撫でた。身をよじると、彼の反対側の手に持たれている書物が目にとまった。性で、つい注視する。
閉ざされた庭、とタイトルを追うと、その視線に気づいた夢吾がゆらりと目の前に、表紙を差し出してきた。閉ざされた庭。レジーヌ・ドゥタンベル。
「課題」
元々好きな本だから、趣味みたいなもんだけど、と夢吾は夏の夜に似合いの白い頬で云う。仁は黙って、その古びた表紙を見つめていた。
不意に、夢吾が無造作に、読みさしのページに挟んでいた指を抜いて差し出してきた。
「貸すよ」
するりと抜かれた中指の爪が光っていた。
お前の本棚になじむと思う、と、微笑む隙間からわずかにみえた歯は、梔子の花のように蒼白かった。
かちり、かちり。
スクリーンが切り替わる。あ、と思った瞬間に、背後から吹き出した黒い靄が、つぼみの形に仁を飲み込んだ。夏の舌に絡めとられ、ひととき闇に放られる。
目を開けると、溢れる梔子の花、碧い夜、白。本の代わりにタブレットを抱え、元通り孤独に立ち尽くしているのは、どおんと地獄の門のように四角くそびえる図書館の前だった。そして、何にももたれず、目の前に人が立っていた。
碧の艶が夜の森のような色をした、黒髪の若者。口許のほくろに、見上げる黒い眼。夏らしいTシャツはあいかわらず、黒だ。
眼鏡の縁が光り、そのレンズの位置を直しながら彼は─ゆづは、はにかんだように首をかしげた。
─電話しようかと思ってたよ。
─あ、ごめん。
─まあ、僕も教授につかまっちゃってたんだけどさ。
電話はまずいかな、図書館だしなぁって、ためらってたらちょうど出てきたから、と、眼鏡を外して笑ったゆづの頬は、走ってきたのかほんの少し赤かった。この皮膚の下に、血管や筋肉や神経や、その他の結合組織がつまって、柑喫ゆづという青年を形成しているのだ、と感慨深く思う。薄皮いちまいを、脳内で剥ぐ。……その瑞々しい頬をがしがしとこすり、ゆづは眼鏡越しに仁を眺めてふと言った。
─日焼けしたなあ。
─…俺?
─いや、僕!
並ぶと分かりやすいよね、と腕時計をした手首を並べられ、肩が跳ねる。手の甲の血管や、手根骨の形は、仁より華奢かもしれないが、意外なほど男性的だ。
─じゃ、いこっか。
─ええと。…
─え。まさか、忘れた。
─いや。その。
─駅前の中華、夜までやってるから、僕が行きたいって言ったら、行こうって話になったじゃない。
─…そうだっけ。じゃあ、行く。
よかった、僕、おやつ我慢したんだからさ、とゆづが笑うと、背後で自動扉が開く音がした。
ゆづが、あ、と声をあげる。視線を彼と同じ方に向けると、暗い金髪の青年と、黒髪を短く切った女が、暗い図書館から出てくるのがみえた。
─こんばんは、先輩。
ゆづが屈託なく挨拶すると、夢吾は笑顔で、隣の女─
─先輩たちは、デートですか。
─うん、そう。
─馬鹿云わないで頂戴、十三屋。課題よ、この男は。私は趣味。
─けんもほろろってこのことじゃない?
─あはは、尻に敷かれてますね。
─敷いてません。
─それじゃあ、後輩たち。また近いうちに。
─さようなら、後輩たち。
─さようなら。
交わした言葉の余韻が長く残った。そのなかを泳ぐように、二人の姿が消える。後ろ姿を見送りながら、ゆづが顎に指を当てた。
─閉ざされた庭、だね。僕は両方とも読んだことないけど。
─両方?
─作者が違うんだよ。
ひやり、とした。夜が急に青みを増して、首筋にのしかかってくる。振り払いたくて歩き出しながら、返した。─さすが、文系。
からかわないでよ、と笑うゆづは眼鏡をかけ直し、首を捻る。
─レジーヌ・ドゥタンベルと、誰だったかな。
仁はぞっとして、立ち止まった。ひり、と梔子の甘さが背筋を這う。数歩先のゆづが不思議そうに振り返り、不意に丸い目をする。黒い瞳に、星が映っている。梔子の香りがひたひたと、首を絞める。
思い出すな、思い出すな。
─ああ。
息をついて、ゆづはにっこりと笑った。
─ジュリアン・グリーンだ。
──飛び起きた。
ジュリアン・グリーン。
ゆづの明るい声で、はっきりと脳に焼き付いたその名前を、タブレットで調べることもできなかった。もしもその作家が実在したら、どうすればいいのか。墓の中に死体が無いのをわかっていて、棺を掘り起こさねばならないような気持ちだった。張りつくシャツの背とうなじは濡れていて、高熱を出したあとのように悪寒が走った。
恐ろしかった。夢の中と同じ、碧い夜の光が、カーテン越しに何もないフローリングに、平行四辺形の地獄の門を形づくっていた。
こうであったらと、埒もない妄想が性懲りもなく白昼、深夜、夢となって現れているだけのはずだ。すべては、空想の産物に過ぎないはずなのに、自分の知らないことを話すゆづは、一体何なのか?
杏仁形の目を細めて笑う口許のほくろが、脳裏に焼きついている。
憎らしいほどに似合いの二人が持っていた、二冊の、題名が同じ本。
閉ざされた庭。
はいれない、神の庭。
二度ともどれないところ。
あの女性は、夢吾が仁と別れてから四年前まで交際して、婚約していた人だ。仁が映画研究会にいた頃から、たびたび夢吾とは話しているのを見かけた。四年前に、亡くなった。
─さようなら、後輩たち。
あの人のお墓はどこだろう。
まぼろしと死人のいる景色は、見返すほどに鮮やかだ。
憎らしいほどに。
「大鴉って、知ってますか」
はっと、真昼の光のなかで顔をあげると、窓の外の街路樹にとまった鳥を見ていたゆづがいる。黒髪だ。これは白昼夢だろうか。思いながら口は動く。「ポーの?」
「ああ、そうです。"またとなけめ"」
敬語だから夢じゃない、と言い聞かせる。このゆづは、喪服を着て、煙草の味を知っている。
ふたりは廊下に立っているようだった。仁の半ば上の空の様子に少し言葉の速度をゆるめながら、ゆづは続ける。「しのぶさんは、"Nevermore"のほうが馴染みあったりします?」
ネヴァーモア、と口の中だけで復唱し、首をかしげた。
違う。けれど確かに、大鴉はなにかを繰り返していたのだ。海馬にくちづける紅い唇が動く。
ジャメプリュー。電撃のように甦った音は、警告のように首筋の毛を逆立てさせる。
綴りはJamais plusだろうか? 覚えていない、あの男の声でしか知らないのだから。甘ったるくて仕方がないと思っていた、フランス語。
街路樹がざわつき、真っ赤な胸をした鳥が逃げる。あ、と残念そうな顔をしたゆづが、ふと仁の顔を覗き込んできた。
「しのぶさん、大丈夫ですか」
染め直したせいで不自然に黒々とした、以前の仁が好きだった黒とは違う風合いの髪を揺らして、ゆづがこちらを見上げる。黒い瞳の中心に、まるでブラックホールのような瞳孔が、ひどく大きく拡がってみえた。
─悪い夢を見ているんですね。
かちり。
「悪い夢を見たんだよ」
唇の端に乾いた血をつけた夢吾が、赤や紫、黒、治りかけの黄色や緑のまだらになった腕で、仁を抱き寄せた。彼の身体中には、鱗の上に皮膚をはりつけたように色彩が散らばっていた。
「
なにか続く言葉があったのだろう、呼吸のためか独特の音韻のためか、喉が微かに鳴った瞬間、仁はその項を掴んで引き剥がし、青紫の頬を殴り付けた。
白い体が倒れ込み、額にかかった金髪の隙間から、天のように底のない青が、腐敗していくようにまだらの色をした肉体の中で、唯一汚れなく仁を見つめた。体が震える。この瞳。この瞳が。
「 」
唇から滴る血を拭って、淡く笑った表情が、ぼろぼろで泣く金髪のゆづと、二重写しになった。
かちり。
──気づけば、仁は、玄関にぼんやりと座り込んでいた。ゆるんで傷痕を見せている腕時計は、定時帰宅を示している。そういえば、ゆづか、あるいは誰かに、体調を理由に帰されたような気も、する。
スーツの上だけでも脱ごうと思って、靴を脱いでいないことに気がついた。
夏の冗長な夕暮れが、消し忘れたクーラーで冷蔵庫の中のように冷えきった部屋を覗きこんで、乱れたままのシーツや物が少なすぎる床の無機質さを嗤っている。
真っ赤な西日が斜めに通り抜けていく部屋の真ん中に、本が落ちていた。
拾う指が二重写しになる。たまたま開かれているページの文章が目に入る。夕暮れに染まった上の黒く細い影。誰かの台詞だ。
───あるんだよ……そういうことが。ぶたれても……それでも……痛くないってことがね。
モルナール・フェレンツの「リリオム」だった。夢吾の本だろう。仁はこんなにかなしい台詞を知らない。
いいや、夢吾がこの本を置いていったのは、仁が大学生の頃の部屋だ。仁は卒業後、つめたい北へ戻ってしまった。すべてを置いて逃げ出した日まで。
無意識に買ったのか。ゆづが置いていったのか。
それともここは、十年前の夢の中なのだろうか。
限界だった。
世界がぐらりと傾いた。浮遊感、背骨が地軸に引き寄せられて、春の雪、夜の舌、絡めとられた重たい手足が冷えきった壁を這う。あの日から閉じ込められたシネマスコープの箱が、ついに記憶の洪水に飲まれる。窓の外で、金色のネオンサインがあえぐように激しく明滅した。ばさばさと床に散らばった書類が羽ばたいて、鼓動にあわせて瞬く視界のなかで、紫に染まっていく。世界はどんどん傾いて、仁は立っていられなくなった。
冷蔵庫の蓋が開き、鉱水のペットボトルが壁に叩きつけられた。中からは、柔らかな音を立てて球体が溢れだした。仁は瞠目する、なんだ、この大量の果実は。いつ、誰がこんなに、このつめたい箱のなかに。
ごろごろと、増幅する無数の果実が坂になった廊下を転がっていき、仁もくずおれる。心臓の色をした、林檎、柘榴、桃。転がり落ちていく先の闇に触れると、それらはぱくりぱくりと劈開するようにまっぷたつに割れる。飛び散る果汁が、刺すように甘い香りを放った。
不意にすべてを思い出す。これはあの夏の夜だ。変えられたはずの、二度と来ないはずの、あの夏の夜だ。あの夜、俺は部屋にあった優しくて柔らかいものををすべてまっぷたつにして、そしてあの金髪の恋人を、あの、寒気のするほど美しい青い目をしたいきものを、刺して、刃が滑って、いいや、俺の恋人は黒髪で、優しいけれど普通の人間で。決して。殺しなんか。
あ。
金髪。
きらきら、目の前の廊下を滑っていく人工的な光の束に、くらりとゆらいだ目の奥が一層激しく点滅した。とびちる果汁? きらめく蜂蜜? それともネオンサイン? さっきみた色? それとも? このやけに鮮やかな金色は、俺を騙す贋作か、それとも。
それとも。
世界の回転が止まる。壁に背をもたせかけ、しゃがみこんでいた仁の目前には、無機質な床に突き立ったフルーツナイフが、氷のような銀色に光っていた。
仁は震える手を伸ばし、フルーツナイフを掴みとった。手首の内側の古傷が痛むほどに握りしめると、血がせきとめられ爆発しそうに指先で弾け飛ぶ感覚と、そしてこれが白昼夢でないことに気づいた。
仁は扉の開きっぱなしの冷蔵庫の前に立っていた。ひっきりなしに警告音を放つ箱のなかの冷気は、ゆづがいる景色の、慕わしい幻のように、じくじくと仁の足首にまといついた。
ねえ、ゆづさん。
人生のどの段階で、あなたと出逢っていたら、こうならずにすみましたか。
十年前も、今も、あんなことにならずにすみましたか。
あなたを傷つけずにすみましたか。
俺は人でなし、でしょう。自分で最も解っているんです。でも、あなたは俺を見たときから、って言ってましたよね。嘘じゃあ、ありませんよね。
俺はあなたに、十年前に逢いたかった。
あなたは、俺を十年前に見るべきだった。
あれに出逢う前に。
アマーンドの異国の香りがすべてをさらっていってしまって、俺にはもうきっと魂のひとかけらさえものこってない。そうです、俺は知っている。獣になりました、欲望の前に、なけなしの魂はどこぞへ
そんならそれでよかったんです。
お互い、手を伸ばしたのはどうしてですか。
出逢ったことは間違いですか。
俺は、あなたの悪魔ですか。
仁は、握りしめた銀のナイフに視線を落とした。
このフルーツナイフは、いつ買ったものであったっけ。
いいや、買ってなどいないのかもしれない。記憶の二重底の下に隠して、忘却の鍵をかけていたのかも。後生大事に、これで昔の男の胸を裂いた十年前からずっと。
冷蔵庫の中に手を突っ込み、他のものはないのに、それらばかり無造作に詰め込まれていたまるっこい果実を、臓物を掻き出すように床へ落とした。それから手当たり次第にナイフを突き立て、まっぷたつにした。
幻の上に、本物の果実を落としていく。マンゴー、パパイヤ、オレンジ。
半分になった無花果が、ぼとりと足元に落ちる。子宮をメスで両断したときと同じ感覚がした。
膝を、半分のレモンが汚した。
冷蔵庫に残っていたすべての果実を半分にし終える頃には、月は天頂にさしかかっていた。果汁にまみれた甘い掌で受話器を握り、データとして登録されたなかの、果実の名前を選択する。コール音を数える。
握りしめたフルーツナイフの柄は熱を帯びて、皮膚とくっついてしまいそうだった。あるいは、もともとひとつであったのかもしれない。
人でなしの掌。
コール音はまだ続いている。ネオンサインと同じリズムで、点滅している。
あと十。
十数える間に、彼が出たら。そうしたら。
そうしたら。
かちり。
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