Lucifer
お前の顔は、いくつもの太陽がめぐる「諸世界」のなかで、夜の庭園にたったひとつしか存在しないようだ!
─ジャン・ジュネ「花のノートルダム」
顔が見たい、なんて、甘い囁きを口にするほど、目の前の存在は近しいものではなかった。
対悪魔用の兵器に「ルシフェル」と名づけた人間は一体どんな顔をしているのか、ユーゴは常々見てみたいと思っていた。悪趣味というより、正気の沙汰ではない。それがまかり通ったこの組織も。それとも、毒を以て毒を制す、とでも云うのだろうか。
頭上で花房のように揺れる、十二枚の羽は七枚のヴェールよりなお神秘的で、黎明の星の名を冠する大天使の、内側からあかるむような姿を覆っていた。天使長の威厳に相応しい、二メートルを軽々と超すだろう身の丈は、古代の彫像を見上げるような気持ちになる。だからこそ、その隠されたかんばせに心惹かれるのだ。人は尽きぬ謎に焦がれる。ヴィーナスの腕や、ニケの首のように。
頭上で、羽が揺れた。雪をつもらせた木々が震えるような、無音のざわめきの向こうから、長い腕が現れる。
「…Lucifer」
そして、顔が見えないのに、どうしてか解るのだ。こちらを見ている、と。
「………夜よ」
背丈に見合う大きな掌が、傷痕の上に翳された。盲いた左眼には映らないその影を、眇めた右眼でとらえようとすると、掌を横にされ、視界をすべて覆われた。翼のような手に顔を隠され、耳元で羽が擦れる音と、囁き声がした。「また相見えたな」
「……仕事が長引いてね」
薄暗い廊下の死角は、先ほどからなんの音も聞こえない。エア・ポケットのような空間で、天使の囁きだけが脳髄にひたひたと満ちていく。人のように血潮が透けることのない、石膏のような手の造り出す乳白色の闇の向こうから、するりと優しい声が差し出される。
「未だ悪夢を視るか」
静かな問いかけの形をとった言葉に、体の力を抜く。視ない夜など来ないだろう、と思う。消えない傷痕と同じように、月日の分だけ、この瞼の裏に見えない悲しみが降り積もっていく。だから明星を待ち侘びるのだ、冬の嵐のような思い出に首を絞められ、眠れぬ夜は。
だから、曙光の一筋を見たときに感じる安堵は、いまわの際にみる光の慈悲に似ているのだ。眼に見えるものでなく、触れられるものでもない、盲いた瞳にしか映らぬもの。
「暫し眠るといい、翼の下で」
堕天使の指が瞼に触れ、受け入れれば、今度は真の闇が訪れた。
そして、庭園に軽やかな木々があるように、お前の顔の上には、手で触れることのできないあの悲しみがある。
─ジャン・ジュネ「花のノートルダム」
(稲さんの、ルシフェルさんをお借りしました)
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