Sauvignon blanc

 近所のコンビニで買った白ワインに、グラスなど必要あるまいと円筒形のコップを出している間に、なぜかゆづよりも手早くゆづの部屋を漁って、グラスないんですかと仁は言った。

「男の独り暮らしでグラスなんてないでしょ……いや、しのぶさんとこにはあるのかもしれませんけど!」

「ありませんよ。あと多分ある人のところにはあります」

 言いながら、玄関の方へとって返す。「買ってきます」

「は!? グラスをですか!?」

「近所にダイソーありましたよね。売ってます」

「百均に!? ワイングラスが!?」

「脚付きと脚なし、どっちにします」

「な…なしで……」

「了解」

 軍人か、という簡潔さで、振り返ることもなく出ていってしまった。ゆづはあっけにとられていたが、とりあえず惣菜コーナーで買ってきた鶏肉と夏野菜の揚げ浸しを、少しでも見映えよくしようとお皿に盛ってみたが、高さがないのでいまいちな出来になってしまった。まあ、コンビニワインと百均グラスだし、と開き直り、その語感のよさにくすっとする。しのぶさんが帰ってきたら乾杯しよう、と思う。



「俺は別に、三島の文章や主義が殊更好きというわけじゃないんですよ」

 鶏肉をつつくゆづに向かって、仁は幾分砕けた調子で指先をひらっと振った。

「生まれて初めて、小説とかそういうものにのが、三島作品だったと。別にあんな麗々しくてナルシスティックな世界を夢みていたわけではないんです。もっと即物的に、男性を愛する男性を明確に自分の外に発見し、その欲情に同調した、つまり、刷り込みみたいなもので──」

 そこで一度、卵形のグラスをあおる。白ワインがすべて喉に流し込まれ、仁は唇を拭う。

「──言わば、ポルノとして好きだったんです」

 あんまりに明け透けな物言いに、ゆづはぐっと言葉につまり、ワインでその詰まりを解消した。

「……しのぶさん、酔ってますよね」

「酔ってません」

 言いながら空になったグラスを振り、無造作に傍らの瓶から酒を注ぐ。切れ上がった眦にわずかに朱が差してはいるが、目の間からほんわりと熟れたすもものようになっているゆづよりは顔は白い。いや、でも、余人なら酒の席の猥談も男として当然ながら、まさかポルノとかいう言葉をこの人の口から聞くとは思わなかった…とゆづがなんとも言えない気持ちでいると、目の前にラベルが突き出される。カープーカー、ソーヴィニヨン・ブラン。もうなんでもいいやとグラスを出せば、たぶんワインってもうちょっと少しだけ注ぐものじゃないかな、と思うくらいなみなみと勢いよく注がれた。残りは少ない。その水面の揺れを、淡い緑の瓶ごしに睨んでいた仁は、すっと垂直に立ち上がった。

「買ってきます」

「え、これ二本めじゃないでしたっけ」

「買ってきます」

「つよい意志をかんじる…」

「他のも買いますか」

「え、どうしようかな。僕もついていって選びますよ」

「そうしましょう」

 躊躇いなく靴を履く仁の背を見ながら、前は男ふたりで出かけることにすら過剰な抵抗感を露にしていた時期もあったのになあ、と、気づかないうちに長い付き合いになっていることを思う。道すがらの自然体の様子は、すれ違う近所の人々には友人同士にしか見えないだろう、変に距離をとっていた以前よりずっと。皮肉なんだか、そうじゃないんだか、と丸い夏の月をみあげると、電柱についた街灯の眩しさに瞳孔を射られ、つんと目の奥が熱く痛くなった。



「発泡酒…いや、ここはビールですね。しのぶさんビールいけましたっけ?」

「苦いのと炭酸は苦手です。でも注がれれば必ず飲んでみせます」

「そ、そんな苦行に耐えなくても……」

「できます。努力で解決します」

「さてはしのぶさん、結構酔ってますね」

「酔ってません」

「酔っぱらい構文だ。……でも確かにしのぶさん、ビール飲ませたら甕におっこちて溺れ死んじゃいそうなとこありますよね」

「あ?」

「こ、声低っ!」

 吾輩は猫である、ですよ、と付け加える前に、不機嫌そうな面持ちで頬をひっかかれた。驚いて声が出たが、いつも短すぎるほど切り揃えられた仁の爪は痛くも痒くもない。こういうところなんだけどなぁ、とぼやきながら、「水曜日のネコ」という絵本のようなデザインのビール缶を眺めていると、かごが急に重くなった。隣に立つ仁がそのかごをすっとゆづの腕からとり、自分で持つ。

「アイス」

「はえ?」

「アイス、買います」

 この人はなぜこうもカタコト的な断定口調なのか。かごの中を見下ろすと、ハーゲンダッツ、スーパーカップ、アイスの実、MOWなどがかなりの量詰め込まれていた。子供の頃やってみたかった買い方だ、とほっこり眼鏡を直しつつ、傍らに視線を向ける。まだ追加しようとしていた。

「僕、ピノとパルム買いますね。しのぶさん食べます?」

「チョコレートは苦手です」

「そう言うと思ってました」



 ちゃちな作りの、学生の独り暮らしのままのような本棚の背表紙をなぞる指は長くて、白い。三本めの白ワインもだいぶ減った。

「しのぶさーん、人の本棚そんなに見るのはね、スケベですよ」

「見られて困るような本、見えるとこに置いとくほうが無用心なんです。ばーか」

「あっ、バカって言った! あとそれ、被害者を責める論調ですよ、よくないんですよ」

「俺は隠してあります」

「……ねー、しのぶさん、そろそろペース落とした方がいいんじゃないですか」

 いつになく軽口の切れ味がいい仁に、控えめに言ってはみるものの、仁は容赦なくグラスをあけた。

「僕、しのぶさんの本棚見たいなぁ。そんな隠さないといけないような本棚」

「いいですよ」

「いいんかい」

「今さら何を」

 俺の部屋に来たら見せますよ、と目も合わせずに言いながら、本棚からイラストレーション・ブック仕立ての「女生徒」を抜き出す。ぱらぱらと繰る仁の手元をゆづは覗き込む。気鋭のイラストレーターを起用し、センス良く可愛らしく、それでいてほの暗い詩心は忘れずにまとめられた一冊だ。

「こんなの買うんですか」

「太宰、と見るとね。つい」下着の薔薇の刺繍のくだりを、なんの感慨もなさそうに読み流す仁に、学生時代、そこで淡く薫る背徳を感じ取っていた自分を思い返してゆづは真顔になってしまう。

「太宰治って、本人が大衆向けにコンテンツ化されすぎたと思ってるんです。本人の人生がキャラクタライズされて、印象づけられすぎてる。でも、こうしていろんな作品がフィーチャーされて読んでもらえれば、太宰の小説家としての才能がわかってもらえるんじゃないかって」

 照れ隠しに喋るのを、頷きながら聞いていた仁は、ちょっと首をかしげてさらりと本を棚に戻した。ゆづは苦笑する。「しのぶさんは三島派ですもんね」

「……と、いうか。さっきも言いましたけど、男と女の関係っていうのが、まったくぴんとこないので、世で広く名作とされる作品の半分くらいが俺にとっては理解も、共感も不可能です。俺にとっては」

「なるほど。でも、読まないわけじゃないでしょ」それこそ、三島にだって男と女の話があるわけだし、と言う間に、仁はぐっと猫の伸びのような姿勢で、全集の背表紙を眺めている。パラフィン紙ごしに、箔で押された芥川龍之介の文字を、とんとん、と叩いている彼の腰をつかんで揺さぶる。「聞いてませんね、しのぶさんんん」

「んっ。聞いてます」

「芥川、読むんですか」

「芥川はそれほど読んでいませんけど、そうですね」顎に手をあて、目を伏せがちに思案した仁は、「『舞踏会』が好きですね」と言った。おもわず俯いて忍び笑いを漏らしたゆづに、眉間に皺が寄る。「なんですか」

「いや、……それこそ、三島的じゃないですか」

 笑いながら言われて、少しの間、仁の眉間には皺が寄ったままだったが、やがて一瞬だけはっとした表情かおをしたかと思えば、さらに仏頂面になってそっぽを向いてしまった。ゆづはなんとか噛み殺そうとしていた笑いが抑えられなくなり、遂に溢れた風に声をあげて笑った。

「というか、しのぶさん本当ですよ。あれ、フランス人の男の話でしょ。未練たらったらじゃないですか。さては僕に嫉妬させたいんでしょお。このこの」

「人を過去が清算できない男みたいに言うのやめろ。…やめてください」

「敬語外れてますよ、ほーら猫は剥いだ剥いだ」

「ちょっと、変なとこ触るな…さわらないでくだ……あーもう、触るな、こら」

 双方かなり酔っぱらっているので、もう大分わけがわからない。じゃれつかれて押しのけようとして、面倒になってそのまま抱え込んだ。けらけら笑っているゆづの耳をがぶりと噛んで、耳の裏をちろりと舐め、しょっぱい、と呟いた。わー、食べられたー、とふざけて手を降参の形にあげたら、その手首を掴まれた。

「え」

 結構な力でそのまま床に縫い付けられ、ゆづは身じろぎ、少し焦った声を出す。肩胛骨がフローリングに擦れて少し痛かったが、掴まれた手首の熱と、耳の下に触れる唇に気をとられる。

「えーとね、しのぶさん、僕明日仕事が…ていうかしのぶさんもそうですよね!?」

「そうですよ」

「こ、ここは大人しくしておきましょ、お互いけっこう酔っぱらってるし……」

「酔ってないって言ったでしょ」

 ふ、伏線回収、と言おうとして、後半は、人にしてはやたらに長い、真っ赤な舌にどろりと絡めとられてしまった。

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