Q.V. fragmentum

しおり

L'absinthe

 似合うな、と言われて顔をあげた。アブサン、とこの国では呼ばれる緑は、それ自体が発光しているように、薄暗い店内で異様にあざやかであった。

 銀の匙にのせられた角砂糖の上から、とろとろと注いでいた水を途切れさせ、白く濁ったそれのグラスに目を落とす。「鳴神さんの方が似合いますよ」

「よく言う、モンマルトルの血が流れている顔をして」

 そのとき、まるで図ったように「さくらんぼの実る頃」が店の隅のレコードプレーヤーから流れ出した。ユーゴは苦笑し、長い時が皺となって彫刻された先達の横顔を見た。彼はその横顔が好きだった。大樹の年輪のような、積み重ねてきた生に憧れていたから。彼の周囲にはないものだった。

 ぽつりと、鳴神が呟いた。

「昔は飲まなかっただろう」

 突然の言葉に、動きが止まった。

 彼はすべて知っている。だからこそ、これまで何も言われたことはなかった。昔は飲まなかったこの悪魔の酒を、何を境に飲むようになったのか。何を忘れたくて、悪魔の瞳の輝きのようなこの液体を、毒杯のように仰ぐようになったのか。

 店内にはひび割れたシャンソンが流れている。鳴神はゆっくり回るレコードの方を見て、「ピアフか」と呟いた。ユーゴは黙って、今は見慣れたアブサンの壜を押し戻した。

 どんな顔をしていたのだろうか、と、濁って何も映らないアブサンを見つめていた。




(鈴春°さんより、鳴神捜査官をお借りしました)

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