映画

「デートって」

 ちりん、と軽いプラスチックのれんげが、ラーメンの器の蓋に当たる。

 麺を啜るために口を開けたまま、柑喫ゆづは固まっていた。というのも、目の前の男の口からついぞ──というのは大袈裟だが、ほとんど聞いたことのない甘ったるい単語が、この社員食堂で発せられたからである。

 しかもそれだけ言って、目の前の男──五十鈴仁はまた黙って油淋鶏をつつきだした。嘘だろ。こんなに続きが気になる引きがあってたまるか。慌てて空中で静止していたれんげを持つ手をおろし、ゆづは「は、はい。デートがなんですか」と訊き返した。

「え? あ、はい」

「嘘でしょ。なんですかその薄味の反応」

「いや。……考え事をしてると黙ってしまう方でして」

 油淋鶏定食についていたゆかりご飯をつつきまわしながら、仁は眼鏡を何度も直した。

「デートって……どういった場所に行くのが定番なんでしょう」

「…あー、」

 ゆづは、仁の真意を図りかねながら──いや、彼の恋人という立場である以上、十中八九自分とのデートの行き先であると想定していいとは思うのだが──少し考えた。

「そうですねえ。まず前提として、絶対的な正解とか間違いは無いとして──お互いに楽しめる場所である方がいいですよね。どっちかだけが楽しいんじゃなくって」

「まあ、そうですね」

「うーん、まあその人といられるならどこでも楽しいってこともあるから、一概には言えませんけど。相手が全然楽しくない場所には連れていっちゃだめですよね」

「やっぱりそう思います?」

「え。なんですかここでの食いつき」

「いや。過去の思い出が」

 神経質そうに眼鏡を直しつつ、仁は、はあとため息をつく。

「ゆづさん、どこだけは嫌ですか?」

「いきなり訊きますね」

 なにかと極端な恋人の問いに苦笑して、ゆづは少し顎を擦って考え込んだ。

「うーん……すごい嫌っていうのは、ちょっとすぐには出てきませんけど。サンリオピューロランドとかだと、ちょっと困るかなぁ」

「サンリオうんたらランドってなんですか」

「アッサンリオピューロランドわからない人」

 昔の彼女と行ったことは伏せ、ざっと説明をしたが、いまいちピンときていない様子だった。検索した画像を見せて、やっと多少概要が飲み込めたようだが、恐らく、以前本人が「千葉にあることしか知りません」と豪語していたディズニーランドと理解度は大差ないだろう。

「ちなみにしのぶさん、USJって知ってます?」

「どこにあるかは知りません」

「大阪ですね…」

 少し昼時からは外れた時間帯のせいか、人が少ない。話してもいいか、とゆづは少しだけ声のトーンを落として、「…あの」と仁に上目遣う。

「さっきのこと訊いてもいいですか? やっぱり」

「どれですか」

「過去の思い出、ってやつ」

 あぁ、とめずらしく歯切れの悪い声を出して、仁は軽く唸った。

「いいんですか? 例の男絡みの話になりますが」

「そんなヴォルデモートみたいな」

 仁の元恋人であり、仁とゆづの現同僚である男の顔を思い浮かべ、ゆづは笑ってしまった。想像の中でも元気よくピースをするその男は、基本的に気の良い男ではあるが、百年ぶんの茨のごとき愛憎が絡まりあった仁との過去をもつ、ゆづにとってはなんともいえない存在であった。

「俺、出かけるのそもそも好きじゃないんですよ」

 それは薄々察していたゆづは頷き、続きを促す。

「バイトもしてたけど、塾講とか。でもそれ以外ほんと出かけなくて。…でも、ときどき、夢吾……あいつと、高田馬場の、早稲田松竹に行ってたんです」

 名画座みたいなものなら、うちの大学の近くにもあったんですけど、と首筋を掻く。視線は斜め下、なにか思い出そうとする時と、気まずい時両方の仁の癖だ。

「あいつ、大学でジャズ研に出入りしてて。部員じゃなかったくせに他校のメンツとも仲良くて。そこに遊びに行くついでみたいでした」

「あー、ジャズ研とかって他大との交流多いですよね。なんならよその大学同士で組んだり、ボーカルだけ女子大から連れてきたり」

「そういうもんなんですか。…で、俺もときどき、そこに…ちっさい映画館に連れて行かれたんですよね。かけてるのはいつも、二本立ての古い映画とか、たまに学生が作った映像作品とか。俺が観た回は外国の映画が多かったかな」

「へえ。最近めっきり減りましたからね、そういうところ。面白そうですねぇ」

「クソつまらなかったです」

「つまらなかったんですか!?」

「正直ほとんどわかりませんでした、価値が。でもそういうものなのでしょう」面白いと感じる人も、そうでない人もいる、と結ぶ。逆に面白いと思ったのはなんですか、と気を遣ったゆづが続けると、腕を組んで考え込んだ末、「…国葬?」と自信がなさそうに仁は言った。ゆづはその場でタイトルを検索した。画面に表示されたのは、二十世紀半ばの独裁者の国葬を納めたフィルム・アーカイブである。

「ドキュメンタリーじゃないですか」

「ドキュメンタリーも映画でしょ。……出かけるの好きじゃないのに、面白くもない映画を観に連れ出されて。あいつ、昔からやたら目立つから、本人だって別に外出は好きじゃなかったろうに」

「まあ、…でも、映画館って暗いですからね」

 何の気なしに言ったゆづの一言に、顔をあげた仁が目を何度も瞬かせた。

「顔は見えないし、他に誰がいるのかも気にしなくていい。黙って、好きな人の隣にいられる。いいところだと思います」彼女には甲斐性ない考え方だって言われましたけど、とゆづは照れたように笑った。

「そうか。…そうか、…なるほど」

 空になった油淋鶏の皿の虚空をつつきながら、仁は何度も頷いている。心配になって「しのぶさん?」と声をあげようとした瞬間、皿をつつきすぎて割り箸が折れた。ゆづが椅子を引いて怯えるのと、仁が眼光鋭く言い放つのが同時だった。

「映画観ましょう、ゆづさん」

「展開が早くないですか!?」

「まあ、俺映画ほぼ興味ないので、ゆづさん観たいもの選んでください」

「あの、シンプルに疑問なんですけど、なんでしのぶさん映研だったんですか…?」

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