闇に降る雨 / 我れは梔子
ああ、これは死ぬな、と思った。痛くない、ただ熱くて、衝撃の余韻が抜けない。関節のすべてが重たく痺れている。
誰かを庇って死ぬ、正直いちばん生産的な死ではないかと思う。誰かが死ななきゃいけないときに、本人が死んでもいいっていう人が死んだ方がいいじゃないか。柑喫ゆづは、そんなことを思いながらずっと生きてきて、今ここで、撃たれて踞っている。
撃ったのは、今時珍しくもない悪魔を信仰する宗教団体に感化された若者で、ヨコハマの繁華街の真ん中につくられたバラックの「教会」に踏み込んだZENOの捜査員に追い詰められた彼は、ゆづもその重さをよく知るありふれた拳銃を乱射した。その弾道を読みきるなどという人間離れした芸当などする間もなく、ゆづは床を蹴って前のめりに突っ込んだ。そこにいた年上の後輩を勢いよく突き飛ばしながら。
年上の後輩こと五十鈴仁が、突き飛ばされた体勢から立ち直る反動で、ホルスターから銃を抜き、若者の手首を撃ち抜いたのを確認しながら、ゆづは衝撃を殺しながら床に倒れ込んだ。
腹から溢れる血は、弾がかすった程度でないのはわかる。いつも背中を預けているARMAの見猿は、今ごろ「教会」の傾いた尖塔の上で悪魔を仕留めている頃だろう。彼にさよならを言う時間はあるだろうか、と思った瞬間に、手を押さえてよろめいた若い男の側頭部を黒光りする革靴が蹴り抜いたのが見えた。え、と思う間もなく、男の体が吹っ飛んで離れた壁際につぶれた。床にはその手から流れたまばらな血痕が流星となっている。
大股三歩、ゆづと同じく踞ってうめく男に近づき、仁はその背骨に革靴の右足を載せた。呼吸を潰された男の喉が軋む声に、仁の低い声が重なった。
「清潔な水二リットル、清潔なタオルをあるだけ、それと破傷風トキソイド」
「な、な、」
何で俺が、とか、何だお前、とか、男がなにを言おうとしたのかはわからないが、仁は這いつくばる男の背を強く蹴り飛ばした。勢いよく男が転がり、身のすくむような激しい仕草に、そんな場合でないのにゆづも驚く。すごい、ヤクザ映画みたいだ。しのぶさん、ヤクザじゃないけど。
「テメェらの都合なんざ知るか、いいから言う通りにしろ。その手で持ってくるなよ、ビニール袋越しにものは掴め、そのビニール袋は捨てろ。言う通りにしなかったら殺す」
仁が革靴の先で指した右手から血を流す男は、いまや床に打ち付けた鼻からも血を流しながら、がくがくと震えて立ち上がって動き出した。「遅ぇ!」ぞっと背筋の凍る仁の声に、木偶のようなぎこちなさではあるが男は駆け出す。
仁は駆け寄ってくると、膝をついて、失礼しますと言いながらゆづの服の前を開いた。飛び散るボタンの音や、血で張りついた布が除かれる感触よりも先に、傷を見分する仁の姿勢が武道の訓練で見た跪座のようだなと思う頭は既にだいぶ靄がかっている。捜査官が携帯する簡易医療キットの箱を開く音がした。
「弾は抜けています。今から圧迫して止血をしますが、あなたがどんな声をあげようと俺は止めませんので。暴れたら手足を縛るかもしれません」
頼りがいがあることで、と思わず震える声で言いそうになった。しのぶさん、実はモグリの医者とかやってました? ヤのつく自由業の人を診たりとか。でも、もう命を預けてしまおうと決めたからか、どんどん眠くなってくる。これは安心か、諦めか、なんなのか。
「ゆづさん、眠らないで。目を閉じたらまず殴りますから、反応を返してください」
ゆづはもう少し優しく起こしてほしいと思ったが、だんだんと侵食してくるぐらぐらと石の上を転がされるような苦痛に歯を食い縛ることしかできなかった。痛いというより、とにかく熱いのだ。昔、祖母にアイロンで焼かれたことを思い出し、じわあと意識が遠退いたところで、一発頬を張られた。本当に殴るのかよ。突っ込みたいのに声がでなくなっていた。かすかすと喉を焼く息からは鉄の臭いがして、体が震えた。寒い。外は炎天下だったはずなのに。
強く圧迫される腹部からじわじわと身中に広がる闇、身を包む重さに耐えかねて落ちる瞼に、今度は殴る掌はなく、代わりに耳元で、はっきりとした低い声だけが聞こえた。
「俺があなたを助けます」
──目を開ける前の薄闇に、梔子のにおいがした。
瞼をもちあげると、淡い模様の病室の天井が目に入る。
甘ったるい空気は、注意深く吸い込んでみれば、ゆづには慣れた煙草の味を含んでいて、煙草喫みの誰か同僚が来たのだろうと思った。
「あ、起きた」
「おわわ」
突然ひかれたカーテンに驚き、思わず身を起こそうとして、包帯を分厚く巻かれた腹部がこわばってぽすんと頭を枕の上に落とすはめになる。枕元の眼鏡をかけると、見慣れた顔が目に入った。
「ゆ、ユーさん」
「あー動かない動かない。はい眼鏡。ドレーン抜けたんだ、よかった。大丈夫? 腹、痛そうだけど」
「大丈夫だと思います…腹筋が足りませんでした」
「あらら。鍛えなきゃな」
くすんだダークブロンド、瞬きするたび火花散る青い右目。底無しの黒い左目は、今日は流した前髪で隠れていた。相変わらず日本人離れした顔立ちの半分を覆う傷痕をぼんやりと眺めながら、ゆづは「外科病棟にいると、この人もそんなに目立たないかもしれない」と思った。
寝転がったまま眼鏡をかけていると耳の後ろが押されて痛いやら安定しないやらなので、結局ゆっくりと注意深く身を起こした。
「離床もう始まってる?」
「というか、もうそろそろ退院っぽいです」
「マジか。早いなぁ」
俺もうちょい入院してたけどな、と頭を掻く夢吾も撃たれたことがあるのだろう。ZENOはそういう職場だ。悪魔ではなく、人によって傷つけられる瞬間がある。
「早期離床っていうけど、別に脳梗塞のご老人でもないんだから、もう少し休ませてくれたってね」
「でも、暇なんで個人的には早く出たいです」
「無理すると今度は過労で入院になっちゃうよ」
「ZENOからもしばらく休めって指示は出てるんですけど、その間も仕事はふつうに溜まるらしいんですよね……」
「あ、なるほど…」
休み明けに見るメールボックスとデスクの上の書類の山ほどの悪夢は存在しない。自然と深いため息が揃った。
はい、と声がして、視線を向けると、枕元に本を置かれた。書店のカバーがかかっていて、中身はわからない。
「これ。しのぶから」
「え」
外にいるよ、と明るい窓を指差され、ベッドからおりて見下ろして探したくなるのをぐっとこらえる。なぜ、と困惑した表情に、夢吾は見えない左目だけをすがめて苦笑した。
「あいつね、病院嫌いなの」
元医者なのに、と思ったが、だからこそなのかもしれない、と考え直した。
今も幻聴が聞こえると言っていた。院内通信機のコール音と、救急車のサイレンと、ドクターヘリの爆音が。残業の最中、不意に顔をあげて廊下の方を見ては、また仕事に戻る姿を、一度となく見た。
「…少ししたら戻ってくると思うよ」
兄のような仕草で、夢吾が本の表紙を撫でた。その指先に、彼と自分の恋人の、過去の蓄積──をみて、じりりと胸の幻傷が焦げる。嫉妬で縫い目が開きそうだ、と、不穏に瞳孔が光を取り込み始める──感情が感覚を研磨するのだ。鋭く鋭く、丸みを帯びた自分の気配が変容し、刺々しい恋人のそれとよく似ていくようになったことを、ゆづは自覚していない。
不意に、袖から露になったその手首から、煙の甘さが香った。あ、と気づく。
「ユーさん、煙草吸うんですか」
切り揃えられた爪の動きが止まる。
「………婚約者が、吸ってたんだ」
瞬間、空気の甘味が凝縮し、ぱちんと海馬で火花が弾けた。この香りは。
──奥田さん、煙草吸われるんですね。
ショートカットの髪に、黒黒と深く、切れ長の目。
──意外かしら。
慣れた手つきで灰を落とす左手には、細い指輪が光っていた。
──いえ、……うーん、はい。意外です。
まだ感情を表すのが苦手だった時期のゆづのほうを、ちらりと見て、記憶の中の女は、左目だけを少し細めた。…
「奥田捜査官、ですよね」と言おうとして、声を出せなかった。四年前に死んだ恋人の話を、そう軽々と第三者に口にされて、快い人間などいまい。
ZENO内部でも、隔離された場所にある喫煙室は、向かう道すがら孤独に迷いそうになるほど遠かったが、たどりつくと必ずそこには誰かがいた。そのなかに、彼女も含まれていた。ゆづにとっては、ただそれだけの関係だったのだ。
しかし、彼女の燻らす煙のその匂いが、今も記憶に染み付いている。
煙草を吸うことを、死神とキスをする、と表現した広告があったことを思い出す。その広告に使われていたアメリカ製の煙草を、奥田茉莉は吸っていた。日本ではあまり好む人がいない独特の香りをもち、ティーンエイジャーのドラッグにも似たやさしい毒のような、道端で踏みつけられた梔子のような、気だるい甘さを無防備に漂わせていた。
その甘い毒は、今、彼女の恋人であった男にまぼろしのごとくまとわりついて、消えない。
奥田茉莉が、十三屋夢吾の婚約者だったと、ゆづが知ったのは、彼女が殉職してからのことである。
ZENOの捜査官は死の危険がある職業だ。警察や自衛隊のように、世間一般の職業よりは、殉職が多い。しかし、前線の軍隊のように頻回ではない。一番残酷な、薄皮一枚で「普通」と繋がった世界だとゆづは思う。
──神さまは気まぐれだから、平和を錯覚してしまう。
奥田茉莉が、十三屋夢吾と出向いた現場で殉職したとき、またあの「死神」が、と言った上司の言葉の鋭さは、ゆづさえ傷つけた。
死神と罵られながら、包帯だらけの手で、恋人のデスクに梔子の花を置きに来た姿を覚えている。
黙りこむゆづの、微笑みを消すと幾分か翳を濃くする、白く幼く見える横顔を見つめながら、夢吾はゆっくりと呟く。
「マリーはね、くろちゃんのことを"煙草がいちばん似合う子"って言ってたんだよ」
「いちばん、にあう、ですか」
「そう。意図は……」マリーしか知らないけど、と夢吾は俯いた。
「俺、今も、家にある灰皿を捨てられない。中の吸殻も。マリーが捨てずに出かけていった灰を」
これ、去年販売終了したんだ、と夢吾はスーツのポケットから潰れた箱を少し出した。ニコチン含有量の規定が変わり、とうとう全米でほとんどのシガレットの生産と販売が禁止されたのは、喫煙者のゆづの記憶にも新しい。二〇五〇年代からこのかた、煙草は世界から、ゆるやかに滅亡しつつある。
二十二世紀も間近な今になってもこれが生き残っているのは、きっと自殺志願者がいなくならない理由と同じだろう、と、腹の傷のうずきを感じながらゆづは思う。
けして自殺など考えないであろう、目の前の人物は、煙草の箱を、どう扱ったらいいのかわからないかのように掌の上にのせて、独り続けた。
「ときどき、どうしても耐えられなくなって、これを吸う。残りが何本なのか、数えたくないけど箱はどんどん軽くなる。マリーがもうすぐいなくなる」
死神とキスをして、婚約者の味を思い出すのと、肺を汚して生きたまま少しずつ地獄に近づこうとするのと、どちらが生に対して冒涜的なのだろう。
「……清ちゃんには云えないよね」
にへ、と笑った顔は、傷痕のせいで不均衡だった。いつか云いたいけど、と煙草をしまう。
ゆづの、学生のようなまっすぐな黒髪が、白いシーツに散らばっている。それを追う左眼が、過去を見ているのだとわかる黒をしていて、ゆづの黒い瞳──その奥底を隠すための瞳──は、きっとその視線がたどる輪郭を映すことができる。柑喫ゆづは、死神とくちづけをする男であるのだから。
白い肌の下、肺に黒を隠し持つ、優しく少しやつれた顔立ちをした青年に、椅子から立ち上がった夢吾は本当に小さな、低い声で囁いた。
「ゆづは、だいじな誰かに、そんな思いをさせたいの?」
──カーテンが開かれる。室内の灯りがあたりを白で満たし、思わずわっと声を漏らしてしまう。
「──テメェなに欧米の距離感で他人の恋人と喋ってんだ殺すぞ」
「声低っ!」
「あ? うるせぇ、人のもんにコナかけてねぇで、とっとと戻って仕事しろや残業太郎が」
「口悪っ!」
職場でも聞き慣れた声色のやりとりに、じいんと腹が熱くなった。濃紺のネクタイに短い黒髪、切れ上がった独特の眦が、今は忙しなく心配と怒りの間を移り変わりながら、ゆづと夢吾を交互に見ている。
笑いを噛み殺す夢吾に中指を立てた仁が、夢吾の脛を蹴りながらゆづの傍らで身を屈める。「起きましたか。あの、俺、…そうですね…コンビニ行ってくるんで、欲しいものありますか。ここ、結構甘いものとか、飲み物とか充実してますよ。それか、本屋とかも近くにありますけど」
「すごい愛されてんねぇ、くろちゃん」
変なあだ名で呼ぶな! と狼のようにうなる仁の手が、白くなるほど自分のシーツを握りしめているのを見ながら、ゆづはにへら、と優しい黒の眼を細める。
「今は大丈夫ですけど、…そうですね。あとで、一緒に買いにいってもいいですか」
「リハビリ、今日から…ですよね」
「あー、はい。でも、若いからってすぐに歩かされそうな気配がするので。そしたら、行きましょう。いっしょに」
「……いっしょに」
「はい」
「……わかりました」
小さく頷いた仁が、ベッド脇にしゃがみこんでいたので、ゆづは、少しだけ甘い匂いが残る椅子を指さす。
「しのぶさん。よかったら座って、──ちょっとだけいっしょにいてくれませんか」
「……あなたがいいなら」
そう云うと、恋人は梔子のなかに腰をおろした。
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