Scapegoat
もしも、××××××と、望まない日はなかった。
十年前のある季節、もしも、死体と暮らせたら、と、望まない日はなかった。
正確には、冷たい死体が置かれるべき状況で、生きた人間と接することなく存在できたら、と望み続けていた。
鍵のかかる夜の底で、解剖台に横たわって、泥のように眠ることがしたかった。
十年前に仁が通っていた医学部には、病理解剖室や法医学解剖室とは異なる、古い学生用の解剖室があった。
解剖室の窓は磨りガラスで、光以外がそこから入ってくることはなかった。半地下の冷たい部屋には三十弱の銀の解剖台が並び、同じ数のホワイトボードと、移動式の書架がすべて見えない冷気のヴェールに触れられているように静まり返っていた。水のなかのようなその半地下の空間には、いつも消毒液とカルキの臭いがして、三方の壁をシンクがぐるりと囲んでいた。
蛇口のひとつから、水が滴り続けている。
ぽとん、ぽとん、と、銀のシンクに水滴が重たく当たり、飛び散る音がする。
壊れた蛇口の傍らには、いつも花瓶が置かれていた。解剖台の横に置かれた、小さな金属製の一輪挿しとは違う、大きくて厚いガラスの花瓶だった。
そこに活けられていたのは、仏花の類いではなく、アンスリウムや、マドカズラや、アガパンサスや、複雑でどこか神秘的な──ひどく静かで、永遠じみたグロテスクさを備えた花花であった。
やわらかく鞣された陽光をあびて、花は光っていた。グリーンのトルコキキョウや、ラナンキュラスの自然界の造形の精巧さといったら、そのけして人間の手では生むことのできない湿り気となめらかな脆さを持つ花の中央を、指で引き裂いて蹂躙してみたいと思わせた。
いつでも、光の花束はそこにある。屍のかんばせを見おろし、視線をあげたその先に。規則的に、今も記憶の底で聞こえる水滴の音によって、ほんのわずかに震えている、銀のシンクの上に。
解剖台に横たわる。体の左を下にして、冷たさがだんだんと肌の温度に侵蝕されていく金属ごしに、自分の鼓動を聴く。
そんな夢をみる。
「──あなたの隣にいると」
そう言い終えると、シーカンスの紫色の指が鳥の羽のように動いた。今の手話は、成る程、という意味だっただろうかと思っている間に、彼の腕がするりと視界を横切り、傍らにおいてあったメモ帳とボールペンを引き寄せる。
─解剖室というのは馴染みがないから、つい手術室を連想してしまうね。ドラマや、小説の。やはりだいぶちがうのかな
「まあ、かなり。少なくとも、生きた人間が寝て心地よいようには作られてない」
─だろうね。
そこで一度ペンが止まり、またさらさらと動いた。─私の隣で眠ってくれるというのは、心を許してくれたということだと自惚れていたのだけれど。そんな夢を見るのは、何かあるのかな
「ああ、いや……」仁は眼鏡をはずすと、少し首をかしげた。「俺にとってこの夢は、けして嫌な夢ではない。なぜなら、………」
仁が言葉を選ぼうと視線を泳がせると、すっと掌が眼前に向けられ制止される。ボールペンの音がする。
─若き解剖学者は、いつも私のなかを探りたがるのだものね。
仁は眼鏡を置いた机に肘をつき、肩から力を抜いた。
「とてもやりやすい、あなたとの会話は。俺は相手の細かなレスポンスにとらわれずにまとめて喋ることができるし、あなたがまとめた言葉を何度でも読み返して、これはこういう意図かと訊くことができる」
─時間に余裕がある会話というと聞こえはいいが、待たせてしまっているようだ
「この間がないと俺は本心を口にできない」
メモ帳が一杯になったのを破ったシーカンスの手元に、仁は私物のタブレットを差し出した。いいのかな、と手話で確認され、頷き、そのままパスワードを入力してロック画面を解除する。目を閉じるのが間に合わなかった、と苦笑しながら伝えてきたシーカンスに、しばしきょとんとしてから、そういえばこれはARMAとの接触に関する規則に違反していたかと思う。タブレットの設定を確認したが、インターネットとの接続を切ってあるので、咎められはしまいとまた差し出した。メモアプリを起動させようとした仁の手元を、シーカンスが指差し、それは? と手を動かした。
「……ああ、これは、学生の頃に使ってたもの」
人体模型の顔面が映し出されたアイコンをタップし、アプリを起動する。ややあって出てきたのは、成人男性の全身像で、その図を二本指で拡大する。ノートほどの大きさのタブレットの液晶では、黒い背景のなかで、くるくると、皮膚を剥がれた赤と白の人体が回転していた。筋肉の束や、それを止める細いリボンのような腱を、二度タップすると、まるでセロファンでくるまれたように像の色彩が青く変わり、内部の血管だけが現れた。自在に神経の一部を消したり、あるいは骨に肉付けしていったり、電子の世界における未来のイヴをどう造ってやろうか考える新世紀のヴィクターのようだった。
動静脈だけが菌類の根のように蔓延って、人間の形を成す3Dのグラフィックをサングラス越しに見ていたシーカンスは、感心したように指を動かした。
─実に現代的だ
「教科書は重いし、実習室に持ち込むと汚れるから。ほとんどの学生はこうしていた」
─これも汚れるのでは?
「俺はジップロックに入れてたし、最悪この類いは洗える。防水でなければ問題だが」
紙の本は汚れたらとれない、と言えば、納得した、という風に顎に手をやって頷いた。
彼の肉体の内部に触れるようになったのは、彼と出会い、その能力を見せてもらったときからだ。画像診断検査のマーカーに似た、切り取り線にそって、どこか貴族か道化をおもわせる長手袋の手が動くと、何もない空間から不意に潮の香りがした気がした。血の鉄臭は薄まると、潮に似ていると仁は感じる。さわってごらん、と深くやわらかな声に促されてふれた人差し指と中指は、ぬるりと濡れた肺下葉の表面に触れた。
思うがまま、表皮も筋肉も腹膜も自在に切り開いてみせることのできる能力に、仁は我を忘れて、呼吸にあわせ溢れる肺と、絶えずうごめく小腸と、弾力に富む肝臓と、力強く鼓動する心尖に触れてまわった。痛覚が鈍いのだ、と伝えられるまで、相手の痛みのことも考えられなかったことを恥じたが、自分の白い手袋の隙間から皮膚へ伝った透明な体液が、手首の傷痕に触れた瞬間、燃える感覚が脊髄を貫いた。
透明な生きた肉体。
それは、魂そのものであった。
血の通った臓器を好きに探ってみたい、という欲求の実現は、仁にとって己の恋愛対象を明かすことと同様に禁忌だった。生きたまま体を開き、内臓をこねくり回せば、当然、人は死ぬ。
横隔膜の下から引き出した指の透明な艶を見つめていると、手を洗っておいで、と彼は言った。その声音に、泣きたくなった。
仁はシーカンスの一種の「献身」により、ARMAという存在の異質性を実感し、かえって愛着を知った。ここには物質を超えた、ただの人間とは違うものがある。目には見えずとも、確かに生があることの神秘は、悪魔という存在のおぞましさと対照する、懺悔室の静けさと似たものを心にもたらした。
昔の男は違った。目の前にいて笑って触れあう肉体の、卵色に桜色や薄翠やらのまたたくような白っぽい中身のみずみずしい肌、あの言い様のない風合いに織りあげられた皮膚に指が沈み、その下の組織をいつも思い描いていた。胸元に舌を這わせるとき、心膜を破り、その激しく脈打つ塊をねぶり歯をすべらせ、わしづかんで引きずり出せたらと思っていた。
あの昏い欲情をつぶさにおぼえている。それは、透明な血にまみれた手を、嘗めてみたいと思う瞬間とよく似ている。
ああ、なんだ、静けさだなんだと云っておいて、やはりそこに宿る本性の瞬きは同じである。仁は不意に気がつく。この繰り返しを、何度も辿っている。
結局は、外からみえない
そうでないと、信じることなどできない。
そうして考えているうちに、いつも、解剖室の銀の台に意識がかえっていく。そして目覚めて、必ず傍らにいるのは、殺してしまいたいと望む恋人ではない。
傷つけることは、愛なのだろうか?
以前、会話の切れ目にふとそう訊ねたときがあった。
─誤解を恐れずいうと、恐らくそれは愛であるよ
いつも、丁寧な答えをくれる彼にしては簡潔すぎる解答である気もしたが、そこで言葉は途切れた。眉や唇の動きでもなにかを伝えられる表現豊かな彼は、彫像のように動かなかった。
とんとん、と指が机を叩く音に、我に返ると、メモアプリが起動されたタブレットの上に、シーカンスが指で文字を書いていた。
─外科室、という小説を読んだ。きのう
鰻のようにするりと下に延びたきのう、の、うの字をみて、仁は「泉鏡花の?」と問えば、口許に笑みをたたえてシーカンスは首肯した。
─ふとおもいだしてね。読みかえしたのは何回めかだが、あなたと出会ってからははじめてだ
「外科室──」仁は眼鏡をかけ直すと、タブレットを手元に引き寄せて、ダウンロードされた電子書籍の一覧を確認した。あいにく見当たらない。
代わりに、三島霜川の「解剖室」という短編が入っていた。
いつ購入したのか、それとも元々入っていたのか覚えていない。ただ、ぞっとして、仁は電子書籍のページを閉じた。
─顔色が悪いよ
黙って、仁のことを見つめていたシーカンスが、身ぶりで示した。仁はかぶりを振って顔をあげる。濃い色眼鏡ごしにかすかに透ける外斜視の、虹彩と白眼の境目に映った自分がふたつに割れていた。
「いいや、何でも。………」
一瞬言葉に詰まったように唇が震え、その実相手には十分に意図が伝わっていると知っている小さな吐息を漏らす。結局、この望みを明確に言葉にしたことはまだない。
無言の受容とともに、紫色の指が、透明な皮膚の表面を撫でた。
潮の香りがする。
+ + +
もしも、兄がいたら、と、望まない日はなかった。
それは、五十鈴の家を継ぐべき長男が他にいてくれれば、自分はこの家から出られるという実に現実的な理由からでもあったし、幻想的な理由からでもあった。言い換えると、数えきれない夢が人の形をとって、漠然とした憧れの、愛の、優しさの、つまりは仁にとって生まれついて与えられることのなかった、すべての感情の対象となる「家族」を、彼は「兄」と定義した。幻の兄が、彼の欠落を補うべき空虚の形をした人形となって、常に彼の脳みその影に巣食っていた。
──兄がいたら。
──俺はこの家から出られる。
──女と結婚しなくていい。
──子供を作らなくていい。
──いなくなったってかまわない。
──逃げたい。
──愛したい。
──誰かと、一緒にいたい。
──話してみたい。
──好きなこと、新しく知ったこと、いろんなことを。
何かに集中しているときに、どうしてかぼんやりと無関係なことを考える自分がいるのを感じる。臓側の漿膜を開いてもらって、直接肺腑をつかみながら、幽体離脱のように、兄について考える己を感じる。鈍いとはいえ、痛覚が存在するというのに、おだやかにそれを見守っているシーカンスの鼻梁の形を、けして交わらぬ瞳を、仁は見つめる。
──今でも、俺は兄がほしいのだろうか。
──兄とは、こういう存在をいうのだろうか。
──けれど、俺は、こうして彼を。
恋人を解剖してみたいと思っていたことを、彼には伝えている。それが自分にとっては欲情と対になっていたことも。
欲情というのはどうしてこうも言葉とは遠い感覚なのだろう、そして理解できない他者の欲情ほど陳腐に感じられるものはない。美女を讃える詩も、絵画も、歌も、仁にとっては鴉に啄まれたごみ袋につもっていく雪のように、空虚であった。
血と肉の詰まったものでなければ。
メスの刃を付け替え、下大動脈から順繰りに切断して、まだ脈打つ塊を取り出す想像をした。目には見えないから、指でなぞって冠動脈を探し、流れ出す血液が肘まで伝って床に落ちるのを惜しいと思う。銀のトレイがあれば、恭しくそこに置き、その熱が冷めるまでふれて確かめよう。
─欲情とは、性行為を介して誰かの肉体を欲することと云うのなら、ならばそこに性行為でない行為の介在があるとするのなら、それは欲情ではないのか? それとも、なにかを欲することはすべて欲情か? ならば欲情と愛とは無関係か?
肉体を切り開き、臓物に指をもぐらせる瞬間を最上とすることは、恋人の肉体と愛撫を欲することとは異なるのだろうか。
例え、それによって得られるオルガスムが、射精のそれと全き同質のものであっても?
「──愛って、よくわからない言葉だ」
内臓の形をなぞる仁の頬の横で、紫の手袋が手話の「愛」を形作った。その複雑な皺を黒い瞳で見つめながら、仁は額を胸骨らしい硬さへ押しあてた。
「人は、家族を愛していると言う。恋人を愛していると言う。でも、家族とセックスはしない」
そしてセックスと愛を同一視する考え方は未だ存在する、と続けた。
「俺は昔、恋人とセックスをしながら、殺してしまいたい、解剖したいと思っていた。
今の恋人のことは、ある欲こそ持ちながら、同時にけして失いたくないと思う。
──あなたのことは、ただ、ただ、おだやかに、解剖したいと思っている」
いったいどれが本当の、
言いかけた口を、大きな手がふさいだ。手袋の中身は熱をきちんと帯びていた。指の関節が少し擦れる振動が伝わる気がした。
手袋によって可視化される手は、皮膚を隔ててのみしか触れあえない人間同士の関わりとよく似て、似て、だからこそ、その向こうを解ってもなかったことにできる。
恋人を失いたくない、解剖してはならないという気持ちと、彼を解剖したいという望みは、シーカンスが人間と異なり、体内を晒しまさぐられてもある程度は生存が可能だからという、単純な理由からだけではないように思われた。
この「兄」を解剖したいという気持ちは、いったいどこから来るのであろうか。
精神医学も心理学もなんの役にもたたなかった。開き続けたどの脳みそも、その答えを隠してはいなかった。
「兄がほしい」
ふと洩らしたとき、頭上でシーカンスがこちらに視線を向けた気配がした。彼と視線が交わることはないが、目を見ていないときに、その温度は感じられる。
視界の隅で、ぼやけた指先が動く。けれど、意図が捉えられない。ふとこういうとき、仁は己がいかに、他者を見ていなかったかを知る。昔は、自分が認識できなかった相手の意図など、無いも同然だった。
今は、理解できないことが悲しいと思える。でも、彼のかんばせを見上げることはできなかった。
「俺の恋人も、兄がほしいと」
はっきりと口にはしない。けれど伝わってくる。その感覚を言葉にできなくて、シーカンスの服の柔らかくざらりとした生地を握り込むと、その手の甲をとんとん、と手袋越しの指が軽く叩いた。
「俺は歳が上だから、兄にならなくてはならない」
ふれているはずの指の先がやけに遠く感じて、くらくらとした。いつの間にこんなに腕が長くなってしまったのであろう。心臓と指先がこんなに遠くては、誰にふれても満たされない。
遅すぎたのだろうか。
もて余す手足を、血肉のなかに沈めてしまいたいと願う、「解剖」のさなかに。とろけた果実のなかの種のように、ひとつの楕円になってしまいたい。切り開き侵す攻撃性と裏腹の欲求は、結合双生児のように常に影のうちに存在していた。
不意にシーカンスが体を折る、屈めた彼の身のうちに差し込んだ手が内臓に圧迫される感覚に、また火のような欲望が燃え上がりかけた。その頬に、シーカンスの広い掌が添えられる。痛みがないわけではなかろうに、その指は優しい。
─満たされないからこそ
彼の唇が、額でそう動いた気がして、仁は閉じていた目を開けた。黒い着物が視界を遮り、世界はぼんやりと淡い闇に包まれていた。
さらり、と衣ずれの音が響くなか、ふと、これが「家族」の景色なのだろうか、と考えた。
抱きしめられて、盲ること。
そう思った瞬間、切り裂かれたように胸が痛んだ。
体の輪郭と一致しない魂が、血の味がする透明な泪をこぼしながら、内に外にさざめきを繰り返す。
本当はわかっている。
「兄がほしい」
こう願いながらさまよう世界は、過去でも、現在でもない、この世と交わらぬ、永遠の薄闇である。
もしも、この世に生まれなかったら、と、望まない日はなかった。
(甘納豆さん宅のシーカンスさんをお借りしました。)
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