第四話 金髪の魔法使い 4-6



 時は少し遡る。

 リズがフロレンシアとノルトラムの元から火を投げた者を追って南へと走り去った頃――……。

 同じ方向へ走っていく人間たちが多いせいか、比較的簡単に南側に来られたことにリズは安堵していた。走っている最中に薄緑の壁が出来ていく様に多少驚きながらも、彼女は足を止めなかった。

 そして時計塔の目の前まで来ると少女は足を止める。相も変わらず、リズの後ろを人々が次々と追い越していく。それすらも気にせず、少女は全神経を集中させ“耳”を澄ませた。市民区へ来る前から抑えてきた自分の聞こえすぎる耳。いざ、この場で“耳”を使うと荒れ狂った群衆の様々な負の声が聞こえてくることは容易に予想出来た。それによって自身の心が疲弊し最悪の場合壊れてしまうかもしれないことも、だ。

 だが、リズはこの“耳”を使うと決めた。友人たちのためか。否、この場に不幸にも居合わせてしまった全ての罪のない者たちのために。リズは意識的に抑えていたものをゆっくりと解放していった。思っていた通り、様々な声に含まれた感情の濁流に飲み込まれそうになる。苦しそうに短い息を吐きながらも、リズは聞くことを止めない。

――――負の感情の洪水から、目当てのものを見つけるまでは。



 大司教区全体を見下ろす位置にある、最も高い民家の屋根にとある青年が寝そべっていた。すぐ後ろはロティオンの内城壁である。

 鼻から口元、そして首を覆うように巻かれた藍色の布が特徴的な若者は、自身に影が落ちるのを感じた。人の気配だ。

「やっとみつけた」

 決して高くはないが女と分かる声に、若者は深海のような仄暗い青い瞳を開けた。そして起き上がり、影の主を薄い微笑みで持って迎えた。

「僕に何か御用かな。疲れているから休ませて欲しいのだけれど」

「……きこえた」

「何が?」

 純粋に意図を尋ねた者に影の主――うねった金茶色の髪の少女は、答える。


「あなたのきたないわらいごえ」


 その紫の瞳は怒りで燃えていた。

 ギラギラとした猛獣を思わせるような強い眼差しに、青年は少したじろいだ。

「……下品とは失礼だな。笑っていては駄目な理由でも?」

「こんな時にきこえるのは、ほとんどが怒っているか、こまっている声、悲しんでいる声。それかやけになってわらっている声」

「ほら、他にも笑っている者もいるじゃないか。 僕だけではないさ。ようやく、煙のない所へ来られて冷静さを取り戻せたというのに」

「でも!」

 少女は語気を強める。

「あなたのわらいごえは楽しそうだった。あのばしょでおもしろいものなんてあった?」

「…………」

 微笑むのを止めた青年に、リズは指を突きつける。


「火をなげたのはあなた」



 眼下では今もなお、人々が逃げ惑い苦しんでいる。ロティオン市民も、聖職者も、地方人や旅人たちも。そこに区別などない。そう思っていたリズに、突如笑う声が聞こえた。

 声は大きくない。だが、聞いている内に不安になってくる声だ。

 発している主は紛れもなく目の前の青年だった。


 あははははははははははははは。


 ひとしきり笑うと目尻の涙を拭いながら、青年はリズを見る。

「そうか。ついつい声に出てしまっていたのか。いやはや、悪い癖だなあ」

 青年はゆっくりと起き上がる。背はリズよりも少し高く、頭は白い布できっちりと巻かれていた。彼は腕に絡んだ布の端を無造作にはらう。

「それで僕をどうするつもりだい?」

「……きょうかいへひきわたす」

「予想通りだ。……僕が拒んだら?」

「ちからづくでも連れていく」

 一歩、リズが前に出ると同時に、青年も後ろへ一歩引き下がる。

「あはは。それは困る。そうだなあ……」

 若者の両目が三日月の形を描いた。


「君は追いかけっこは好きかい?」



 獣を追うよりもひどく頭と身体を使うものだと、リズは目の先を走る青年を見て思った。

 長い間走っているが、両者の差は中々縮まらない。近づいたと思ったら近くの屋根に飛び乗られてまた距離を離される。逆に、離れすぎたら青年は止まる。まるでリズを挑発しているかのように。

 人間の期待と予想を常に裏切り続けることで、相手の冷静さを失わせペースを乱すやり方は頭の良い証拠だ。それは確実に相手の意気を削ぐ。リズは若者のやり方に瞠目した。

「ほらほら頑張って! ……でも久々に楽しいな~。僕を追って来られるだけで君が意志が強くて身体能力が高い子だっていうのが分かる。これがこんな形じゃなかったらなあ……おっと、」

 後ろのリズを見ながら走り、屋根が途切れると洗濯物が吊るしてあるロープの上を歩き始めた。青年は軽い足取りでロープを駆け抜けるとリズに向かい合う。


「……火を投げた理由が聞きたいかい?」

 未だロープを渡っていないリズが睨みつける。

「だからあなたをおってる」

「そうだろうね。なら特別にヒントを教えてあげる。ここまで追って来られたご褒美、かな」

 青年は腰元から小さなナイフを出す。それを手の中でくるりと回し、しゃがみこんだ。


 ぶつり、ぶつり。

 ロープによって支えられていた洗濯物がふわりと宙に舞う。青年が躊躇わずにロープを切ったことに、リズは唖然とした。


「この大司教区に巣食う“怪物”の正体を暴け」


 若者の青い瞳が一層暗い色をおびたのを少女は見逃さなかった。

「ここから先は市民区だ。僕達はいつの間にか教区の外れまで来ていたんだね。君はこの先に来ない方が良い。……少々過激な純粋市民が住む地域だから」

 青年は身に付けている布を巻き直すと、リズに背を向ける。

「さようなら、勇気あるお嬢さん。真実に辿り着くのを待っているよ」

 若者は、ロープが掛かっていた屋根の上から傍に生えている大木に飛び乗り、両手で大ぶりの枝を掴んだ。そして身体を揺らすとその反動で、大司教区の高い壁を越え、瞬く間に市民区の下の方へと姿を消した。


 ――――犯人に追いつけなかった。


 リズは、ありったけの力で自分の太ももを叩いた。

 何度も、何度も。


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