第三話 朝焼けと夕焼け 3-2



『リズ! ご飯出来たわよ、手を洗ってらっしゃい』

『きょうのごはんなに~?ヨシュアせんせいと、きのぼりしてたらおなかペコペコになっちゃった』

『またヨシュアくんを連れ回したのね? 本当にやんちゃな子! 今日の献立はね――……』


―――― また食べたかった。お母さんのご飯。



 リズはゆっくりと目を開けた。

 一体何の夢を見ていたのか、リズには分からない。だが、心のあたりがきゅっと痛む。きっと寂しい夢だったんだろうと彼女は思う。

 夜にフロレンシアを連れ帰り、司祭とボーナの許可を得た後でリズの自室にフロレンシアを招いた。

 寝台は一つしか無かったので、普段リズが使っている寝台を彼女に、納屋から持ってきた藁を敷いてその上からシーツを掛けた簡易的な寝台を部屋の主が使った。

 リズが寝惚け眼で寝台の方を見ると、その上にフロレンシアは居なかった。出ていってしまったのだろうか、と少々心寂しく思っていると階下からボーナや使用人の声が聞こえる。

「リズー! そろそろ起きてきなさい、朝食だよ!」

 ボーナが自分に呼び掛ける声にわかった、と返事を返すと部屋に置かれた洗面道具で軽く顔を洗ってから、階下に降りた。

 使用人の一人、アンネはリズの姿を見つけると傍で耳打ちをする。

「リズの連れてきたノトス人の子、やるじゃない」

「? フロレンシアがどうかした?」

「いいから、食卓着いてみなさいよ」

 アンネが両手でリズの背中を押す。


 食卓には、簡素ながらも良い香りを漂わせた料理が並んでいる。また普段食べる朝食よりも品数も多い上、色鮮やかに机を彩っている。

「皆、食卓に着きますよ」

 この教会の最高責任者の司祭であるイアソンがその場に居た人間たちに声を掛ける。彼の言葉で食卓に着くと、横の席にフロレンシアが居た。少し照れ臭そうに下を向いている。

「今回の朝食はリズの客人であるフロレンシア君が作ってくれました。この寂れた教会でこんな色とりどりの料理を見るのは初めてです。フロレンシア君、感謝します。それでは、皆。祈りを」

 リズ以外の食卓に付いた皆は両手を握り、頭を垂れる。



 世界中に鳴り渡る鐘の壮麗な音よ

 今日一日安寧で無事に過ごせるよう清鐘の祝福を

 歴史ある知己と平和の象徴である鐘に感謝を



 祈りを終えると、イアソンが食べましょうと声を掛ける。いただきます、と皆が口を揃えて言うと食事の時間が始まった。

 本日、フロレンシアが作ったのは干し葡萄入り黒パン、山菜とオレンジのサラダ、ひよこ豆と玉子のスープ、小魚のフリットと、オレンジと干し葡萄の盛り合わせだった。

 普段の朝食はパンとスープ程度のため、教会の人間たちは喉を鳴らす。

「フロレンシアはすごいねえ。もて余してた食材も使ってくれたからこちらとしても大助かりさ。美味しいしね」

 サラダを頬張りながらボーナがフロレンシアに話しかける。

「いえ! 家事は実家でやっていた程度なので……。そう言って頂けると腕によりを掛けた甲斐があります」

 謙遜する彼女を横目に、リズは小魚のフリットを齧る。魚特有の生臭さもなく、小魚と衣のサクサク感がまた食欲をそそる。気がついたら平らげていた。

「すげえ! リズが魚食ってる!」

「あの魚嫌いのリズが……」

 使用人たちの吃驚する声に少し赤くなりながらも、リズはスープに口を付ける。


 ――――スープの味が。


『今日の献立はね ――……』



 気がつくとぽとりと涙がこぼれ落ちていた。

 何故なのかは分からない。だが、ひどく懐かしい味がした。

 横のフロレンシアはぎょっとしてポケットからハンカチを出してリズの目を拭う。

「そんなにまずかった!? まずかったなら残して――……」

「ちがう。フロレンシア、おいしい。こんなにおいしいの初めてたべた」

 ぽつりとそう言って食事を再開するリズにフロレンシアはほっとした表情をする。


「リズがそれほど料理を気に入るのはそうそうないですよ、フロレンシア君」

 上品にスープを口に運ぶイアソンはウィンクをして彼女に教える。

「そうさ、私が作った時も残すこともあるからね。 この子は。あら、もう完食? リズ」

「……ん。ごちそうさま、フロレンシア」

 食器を空にしてリズは立ち上がる。


「ハンカチ、ありがとう。あらって返す」

「いいわよ。今日、洗濯も手伝う予定だから、次いでに洗っちゃうわ。リズの洗濯物はないの? 後で出しておいてね」

「わかった」

 朝からは狩りの依頼と導き手の仕事が入っている。洗濯物を取りに自室に戻ろうと食堂を出たリズの後ろ姿にフロレンシアは微笑む。


「……お粗末様でした」

 昨日の笑わない彼女より柔らかく微笑む彼女の方が自然だ。

 きっとこの子はこっちが本当の姿なんだろう。ボーナはパンを咀嚼しながらそう感じた。どうしてロティオンに来ることになったのか、後で洗濯の時にでも聞き出してみようか。

「あっ、ボーナさん。洗濯終わったら暫く出掛けてきていいですか?」

「いいよ」

「ありがとうございます」

 丁寧にお辞儀するフロレンシアを見て、ボーナは表情を和ませる。


 それから二週間程経っただろうか、リズが感じるのは段々と教会が綺麗になっていっていくことだった。

 仕事から帰ると教会の扉の立て付けが直っていたり、床もほこり一つない。どの部屋も淀んだ空気ではなく、窓から入った新鮮な空気が入っている。それをやっているのがフロレンシアと知ったのは、アンネから聞いた。

 教会の使用人が無能なわけではなく、使用人でも気づかない所を掃除したり直したりしているようで、アンネは「あの子、ずっとウチに居てくれないかしら」と本気で言う始末である。

 家事や雑用をこなすうちに、フロレンシアはいつの間にか教会で働く人々に自然と受け入れられていった。


 反面、リズの自室でのフロレンシアは食堂や教会内にいる時のような顔をあまりしない。出会った時のような、まだ人を信じていない表情をたまにする。

 二人だと会話も殆どないため、しばしば無言の時が流れる。

 呟くように話題を切り出したのはフロレンシアだった。


「きょ、今日の仕事はどうだった……?」

 上擦った声と自分から話題を振っているのに緊張したような彼女の表情の対比はとても面白い。だが、リズはその感情を表に出すことなく淡々と答えた。

「今日は、ガイドを三件した。あとは東方エウロス人居住区で、牛のちちしぼりのてつだい」

「上手く出来た?」

 身を乗り出すフロレンシアにリズは首を横に振る。

「わたしがにぎってもミルクでなかった……」

「きっとやり方が悪いのね。ちょっと手を貸して」

 無表情だが、しょんぼりと項垂れているリズに苦笑いをしながら彼女はリズの横に移動して手を触れ合わせる。

「まず、親指と人差し指で輪っかを作って、そう。それから、最初の輪っかに力をぐっと入れて、中指薬指小指の順で指を折り畳むように力を込めて握っていくの。そうよ、それが出来れば絞れるわよ」

 リズは教えられた通りに何回も搾る動作を繰り返す。それがまるで出来たばかりの子供のようで、目尻を下げているフロレンシアは自分の表情に気づいていないようだった。

「……ありがとう。くわしいね」

「実家では羊だったけどね」

 今度は、あははと声を出して笑うフロレンシアにリズは静かに目を細める。


「あのね、リズ。やっぱり私食堂で働きたいんだ」

「ん」

「毎日教会の仕事終わったら交易区やノトス人居住区の食堂に声かけてるんだけど、良い返事貰えなくて。……うち、借金あるから早く働いて仕送りしたいの」

「……わたしもガイドやったりてつだいしたらきいてみる。フロレンシアのしごとあいてないか」

「ほんと!? ありがとう、リズ!」

「ちちしぼり教えてくれたからおれい」

 ありがとう、とリズの手を両手で握りしめてフロレンシアがお礼を言う。


「本当にありがとう」


 二人のやり取りを月明かりだけが優しく見守っていた。




 本日の導き手の依頼人は新婚間もない、若い夫婦と聞いた。

 リズが港近くの南の大門で待っていると、こちらに近付いてくる若い二人が見えた。

「あの、リズさんですか? 導きをお願いしてた……」

「ん。……セシリオさんとエルバさん?」

「はい。宜しくお願いします」


 セシリオは黒髪で緑の瞳の優しげな花婿、エルバも茶色の緩く束ねられた髪と琥珀色の瞳が印象的な花嫁だった。

 二人は交易区とノトス人居住区と高台にあるロティオン市民区が見たいとのことだったので、リズはまず先に交易区に行くことにした。

「私のひいおばあちゃんがロティオン市民で。だから私の髪も茶色いんですよ」

「もうすぐ坂だから気を付けろよエルバ。お前いつも昔からすぐ転けるから」

「大丈夫だよ~!」

 くるりと機嫌良く一回転して見せるエルバは満面の笑みで言う。

「ロティオンって賑やかで楽しいところねっ! 新婚旅行先に選んで良かった! ひいおばあちゃんも何でうちの村みたいなところにお嫁に来たんだか~」

「さあな。色々あったんだろ」

「私もセシリオみたいな人が居たら追いかけちゃうかも~」

 よくも恥ずかしげもなく。リズは内心苦笑いで花嫁の言葉を聞き流していた。

 花嫁は本当に花婿のことが好きなようで、花婿の腕に自身の腕を絡め、身を預けて歩いている。

 交易区を抜け、高台のロティオン市民区へ案内してロティオン都内を見渡せる場所に着いた。

「わー! すっごいおっきい!! こんなに広いのね、ロティオンって!」

「本当だな。ルンマ村が幾つも入りそうだなあ」


 ぴく、とリズの動きが止まった。ルンマ村? ルンマ村はフロレンシアの来た村ではなかったか。

「……ルンマ村はどういうばしょですか」

 リズにしては珍しく、客の会話の中に入る。

「地図にも多分載っていない小さな村だよ。小高い丘の上にあって、オレンジと……」

「違うわよ、セシリオ。今のルンマ村は農業と馬の生産が有名なの! うちの父が生産した馬が南方大陸総督の目に止まった程よ。これからは南方総督府に納める馬を作るのが村の仕事になるわ!」

 先程の上機嫌とはうって変わって、強い調子でセシリオに詰め寄るエルバにリズは面食らった。第一印象がほんわかとしていたからだろうか。二面性があるのかもしれない、とリズは思った。

「もう街を見下ろすのはおしまい! 宿は交易区に取ってあるから、先にノトス人居住区に行きたいわ」

「わかった」

 リズが頷くと、エルバは先程と同じようにセシリオの腕に手を回すと歩き出した。


「……フローラ……」

 エルバにも聞こえない小さな声でセシリオが独り言を言うのを、リズの耳は聞き逃さなかった。



 一方その頃、フロレンシアはノトス人居住区で食材を買った後、教会に戻ろうとしていた。

 戻る途中に、果物を扱っているバザールを見つけた。思わず側にあった店に立ち寄ると、旬の果物がずらりと並んでいる。

「お姉さんいらっしゃい!」

 明るく店番の男が声を掛ける。

「こんにちは、……南方大陸からのオレンジってありますか?」

「南方大陸か~……。あの二月前の大嵐で取引先の南方オレンジ農家の大半が全滅だ。此処に並んでるのはロティオン東のオレンジだよ」

 男は残念そうに目を伏せると、彼女もそれに倣った。

「……そうでしたか」

 静かにオレンジを指で撫でるフロレンシアは悲しみの色を濃くした面差しをしていた。

 ―――― 全滅、か。

 二月前にあった惨事を思い出しているのか、彼女はそのまま動かない。店番の男はフロレンシアを見つめるのを止め、別の客を呼び込もうと声を掛け始めた。

 そのような中、心が繊細で過敏になっている時に土足で踏み込んでくる者がフロレンシアに近付いていた。その人物はにやりと意地の悪い笑みを一瞬すると、すぐに人好きのする仮面を被る。


「あれー? もしかしてフローラ?」


 後ろから聞こえた能天気な声に、フロレンシアは勢いよく振り返ると、ひどく驚愕した表情と共に苦々しく相手を睨みつけた。


「エルバ……!?」


「私たちね、新婚旅行でロティオンに来たの~。ノトス人居住区に行けばフローラいるんじゃないかと思ってこっち来ちゃった、ね!セシリオ」

「……」

 エルバから数歩後ろで立ち止まっているセシリオをも、フロレンシアは責めるような強い眼差しを向ける。

「…………白々しい。どうせ幸せな姿を私に見せつけたかった癖に」

「そんなことないよ! それにそんな顔してたらフローラの夕焼け色の瞳が台無しだよ~。だってほら、フローラのご家族からも手紙預かってるし」

 ひらひらと手紙を指先に挟んで動かすエルバに対して、奪い取るように手紙を受けとると、フロレンシアは下を向く。

「あの大嵐は残念だったよね。私もまさか……って思ったもん。あれからフローラの家のオレンジダメになっちゃって、フローラがロティオンに出稼ぎすることになったんだよね。だから私なりにフローラに伝えたいことあって」

 フロレンシアに近づき彼女の両手を握ると、上目遣いでエルバが微笑む。


「辛いだろうけど頑張ってね、フローラ!」


「……ふざけんじゃないわよっ!!」

 パン、と渇いた音が鳴る。フロレンシアがエルバの頬を叩く音だ。

 叩かれたエルバは頬に指を添わせるとにんまりと笑った。

「ふふっ、あはは……今の叩くところ、セシリオも見てたよ? 暴力女って思われてるんじゃない?」

 舌を出して笑うエルバは、率直に言って悪意に満ちた醜い表情をしていた。とても花婿には見せられない顔だ。

「……っ、この卑怯女。私とセシリオが付き合ってたの羨ましかった癖に」

「だって、フローラったらずるいんだもん。私が最初にセシリオ好きになったんだよ? それなのに抜け駆けしちゃってさ……ま、結婚しちゃったからいいか~!」

 エルバは暗い表情で恨みがましくフロレンシアに囁く。その琥珀色の瞳は淀んでとても見ていられない色をしていた。

 変わり果てたかつての幼馴染の姿にフロレンシアはぐっと唇を噛む。早くここから離れたい。


 ―――― 心が張り裂けそうだ。



 フロレンシアは黙ってエルバの横を通り抜けるとその後ろにいたセシリオと目が合う。セシリオの緑の瞳は明らかに困惑の色を写していた。

「ふ、フローラ……」

「あちらで花嫁さんがご乱心中よ。宥めて差し上げたら旦那様?」

 素っ気なくフロレンシアが言うと、セシリオは彼女の手を掴んだ。

「俺たちは三日程この街にいる。宿は交易区のラロス亭だ。二日後の月が真上に来た頃、交易区の大噴水の前で待ってる」

「行かないわ」

「……それでも待ってる」

「……!」

 離して、と掴まれた手を無理矢理離すとフロレンシアは走って行ってしまった。


「は~。セシリオ、フローラに叩かれちゃったあ。痛い……。早く宿に戻ろう? 何だか疲れちゃった」

「……そうだな、傷は大丈夫か。帰ろう」

 叩かれた頬を大袈裟に両手で覆うエルバに、セシリオは心配の声を掛ける。その声が淡々として聞こえるのはリズだけだろうか。

「リズさん、今日の導き代です。明日以降は自分たちで交易区見て回るんで大丈夫です」

「……わかった」

 セシリオから導き代を貰うと、リズは若い夫婦には目もくれず教会に向けて走り出した。

 その様子を見て、セシリオは空を仰ぎ見る。


 そこには、今にも泣き出しそうな空の色が目に入った。


 急いで教会へ向かい、扉を開けると、ボーナが慌てた顔でリズに近付いた。

「リズ!? フロレンシアが泣きながら中入って行ったけど……」

「いまからいく」

 自室への階段を二段飛ばしで上がって行く。

“耳”で聴こえた声とセシリオの後ろから見ただけだったが、言われた言葉もおぞましい物であったし、何よりフロレンシアは我慢の限界を超えた表情をしていた。このまま放っておくと、彼女が壊れてしまう。そう考えたリズは一目散に教会へと帰ってきた。

 きっと彼女なら静かなところで泣くと思うから。二週間と少し、フロレンシアを観察して思ったことだ。


 リズの読み通り、フロレンシアはリズの寝台に居た。


「フロレンシア」

 寝台に突っ伏したままフロレンシアは動かない。

「リズ、こんなのへっちゃらよ。落ち着いたら下に降りるから、今は放っておいて?」

 声だけは妙に明るい。リズはフロレンシアの傍に寄った。


「フローラ」


「……その名前で呼ばないでっっ!!」

 リズがその名前で呼ぶとフロレンシアは顔を勢いよく上げ、リズを睨んだ。エルバが夕焼けと称した橙色の瞳は涙で濡れてぐしゃぐしゃだった。

「……っ」

 次々に溢れてくる涙を袖口でゴシゴシと拭いながら、フロレンシアは気丈で居ようとする。だが、中々保てない。リズは、フロレンシアの傍に更に寄ると目線を同じにした。そして穏やかに彼女に聞いた。


「ルンマ村でなにがあったの」


 フロレンシアの瞳がまた揺れ、涙が零れて落ちるのをリズは黙って見ていた。

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