第三話 朝焼けと夕焼け 3-1

 


 早朝から出た海霧が覆うように街に流れ込んで来ている中、リズは街近郊の森の中でうさぎを狩っていた。

 前日に仕掛けておいた罠には五羽程度が掛かっていたが、それでは依頼主は満足しないだろう。後、三、四羽は欲しい。それから気配を消して暫く森の中を歩くと、うさぎを何羽か見つけたのでそれを矢で仕留めた。


 そして今、中々厄介なうさぎの相手をしている。

 その穴うさぎは敵を欺くため、でたらめに走る。霧で見通しの悪い中、リズも必死にうさぎの後を追う。出来ればもう一羽だけ捕まえたい。

 一向にうさぎとの距離が縮まらないので、リズは背中から弓を出し矢をつがえた。

 それと同時に、耳をすませた。自身が森を走る音も自身の息遣いも全て消えるまで神経を集中させる。

 研ぎ澄まされた感覚の中、一点光るものがあった。


 ―――― 聴こえる。うさぎの足音、どちらに方向が逸れるかも。


 その光を信じて、リズの矢が放たれた。

 直ぐ様、キッと短く鳴く音がしてうさぎの頭が矢に貫かれる。狩りは成功し、リズはふっと息を吐いた。


 久しぶりにこの感覚を使った。

が小さい頃は嫌いだった。聴こえすぎる感覚が小さな子供の身体で受け止めるには大きすぎて、持て余してしまっていたのかもしれない。だが成長していくうち、耳の使い方にも慣れた。

 ロティオンの雑踏や喧騒も、聴こえないように意識していればリズにそこまで害を及ぼすこともなかった。

 そして何より、成長と共に耳のことを気遣い、この耳を最大限に生かせる狩りを教えてくれたのはあのヨシュアであり、それを現在のリズは自身の耳と同じように誇らしく思っていた。


 手こずらせてくれたうさぎを素早く麻袋に入れて、リズは森を出る。

 夜明けすぐに森へ向かったのだが、太陽が真上まで行かずとも、ある程度高い位置まで来ていた。それを確認するとリズは小走りで真っ直ぐ依頼主の元へ向かう。


 このうさぎ狩りを依頼したのは教会近くに住む南方ノトス人のブルーノだ。

 南方人居住区と隣接した異国人居住区の互いの関係は比較的良好であり、リズは異国人たちは勿論、南方人からもこういった頼まれごとをされることが度々あった。

 ブルーノ宅を訪ねると、壮年の男が笑顔で迎えてくれた。


「相変わらず、腕が良いね。リズ。はい、報酬」

「……ん。ありがとう」

 報酬を確認してから、うさぎ九羽をブルーノに手渡す。

 また宜しく、とブルーノは手を振りながらリズを見送る。それに対してリズは手を振り返すとそのまま住んでいる教会へと向かう。帰ってからは教会の掃き掃除が残っている。リズは表情ではあまり変わっていないが深い溜め息をする。掃除や料理は苦手だ。

 だが、こんなに天気が良いのだ。サボってもバチは当たるまい。リズはそう勝手に理由を付けると教会とは逆方向に歩き出した。


 南方人居住区から北方向にある交易区の方へ歩いてくると、いつもの通り、此処は騒がしい。

 毎日祭りのように、何かしら音楽や踊りや演劇が行われており、リズも暇な時はそれらを眺めている場合が多い。

 近くにあった石のベンチに座って一息ついていると、とある場面に出くわした。


 頭を目深いフードで覆い赤色のローブを身に付けた黒髪の女と、困ったように頭を掻く男だ。リズは少し耳を傾けてみた。

「お願いします! こちらで雇って頂けませんか……!」

「ウチはもう新しく従業員雇う余裕ないんだよ。申し訳ないけどねえ」

 頭を深く下げる女に対して困ったように笑う男が、顔を上げるように女に言う。

「そう……ですか。ありがとうございました……」

 深いフードから垣間見えるその橙色の瞳は今にも泣き出しそうに涙を湛えていた。

 リズはその様子をじっと見ていた。


 太陽が真上に昇る頃、小腹がすいたリズはその場所から移動するためにベンチを離れた。何か腹の足しになるものを買いにいこうとロティオンの雑踏の中を歩き出す。

 その瞬間、

「!」

「! 痛っ……」

 肩と肩がぶつかったようだ。相手は先ほど見かけた赤色のローブの女だった。

「ごめん。だいじょうぶ?」

「すみません、大丈夫ですから……!」

 勢いよく謝り急いで去っていく女を見て、リズは思う。

何故、あんなに目を合わせないのだろう。

何故、あんなに怯えているのだろう。


 ―――― 彼女は一体誰から逃げているのだろう。



 大噴水の広場近くの露店から干しデーツを買う。この街に来た頃、あまりの甘さに舌が吃驚した思い出がある。それを見てヨシュアは笑っていた、思い出の味だ。

 デーツを食べながら、あれからもちらほらとあの黒髪の女を見かけた。あれから何軒もの飲食店に声をかけ続けているようだが、いずれの店主も首を横に振るばかりだった。その度、女は気落ちしたように、とぼとぼとまた別の店に声を掛けに行く。その丸まった背中はとても小さく見えた。


 やがて日が暮れ、リズも教会へ帰ろうとした時、家路を急ぐ群衆に紛れて男に肩を抱かれているあの黒髪の女を見た。

 嫌な予感がし、近づいてみると、

「ねえ、ウチ来る気ない? アンタ顔は良いし身体付きも最高だし、器量も良さそうだ。上客付くと思うんだよね~~」

 下卑た言葉を隠そうともしない。彼はなのだ。小太りの男はフードで覆われた女の頭をゆっくりと撫でる。

「あたしは……そういうのは。出来たら自分の出来ることで働きたいなって」

 絞り出したように女が呟くと、品の無い笑い声が響く。

「あっま! 甘いねえお姉さん? そんな希望が叶う女ばかりロティオンに集まってたら娼館なんてないんだよ」

 鼻と鼻がくっつきそうなほどに、ぐいっと男は女に顔を寄せる。その様子はまるで人間と下品な魔物の交わりのように異様だった。


「金、稼ぎてえならそんなチンケなプライドなんか捨てて形振り構わず稼ぐんだよ」

 その身体で、と男は女の胸に触った。


「……ちょっと。その人、わたしのつれ」

「!?」

 リズは後ろから手を回し、こちら側に女の肩を引き寄せる。そして怒気を孕んだ声で相手を威圧すると、男はすぐに女から手を離して肩を竦める。

「あら。一人じゃなかったんだ。じゃボクは退散~~! 覚えておいてね、ディーネ館のヘラルドだよ~~」

 リズはそのまま真逆の方向へ彼女を連れて行った。ヘラルドは嫌らしい笑みを更に深くして大声でこちらに向けて叫ぶ。

「アンタならすぐ借金返せるよ~!」

 その声で肩を抱いた女が震えるのをリズは黙って感じていた。


 少し離れたところに着くと、黒髪の女はリズの手をはね除けた。

「余計なことしないで」

「あの男にからまれてた」

 リズがそう言うと、女の握った手が震える。

「べ、別に絡まれてなんかないわ! 話を聴いて貰ってただけよ!」

 足元にあったベンチに女が座ると、リズも座る。すると、女はリズと距離を取った。


 ゆっくりと夜が更けていくのと同じように、二人の会話が続く。


「……今日泊まるばしょあるの」

「ない、けど……」

「うち、教会だからこまってる人向けのへやあるから。使って」

「お金なんて持ってないわ。ずっと居られるほど……」

「だったら、教会のしたばたらきをすればいい。それならお金いらずに教会にいられる」

 それを聞くと、女は露骨に嫌な顔をした。


「……何か、裏でもあるの?」

「ない」

 淡々としたリズの言葉は続いた。


「あなたがだれなのかわたしにはきょうみがない。ただ、あの人とはなしてるあなたはおいつめられているように見えた」

「だから声をかけた」

 曇りの無い紫の瞳を女は見る。嘘を付いているように見えない正直な瞳。

 ささくれている今の自分の心に、飾り気も何もない、無垢な言葉がじんわりと溶け込んでいく。

 ただ真っ直ぐに純粋な思いで自分に笑いかける故郷の弟妹を思い出した。


 会って初めて、女の口角が緩く上がる。

「……そう」

 張り詰めた空気が少し和らいだのを感じると、リズは言葉を続ける。

「わたしはリズ。あなたは?」


 リズの問いに答えるように、女は赤色のローブのフードを外した。すると長い黒髪が見事な美しい女が現れた。

 浅黒い肌が露店のランプに照らされ、優しく光って見える。



「南方大陸のルンマ村から来た……フロレンシアよ」

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