第三話 朝焼けと夕焼け 3-3
―――― あの時の出来事は一生忘れることなんて出来ないと思う。
しとしとと降り始めた春の雨の中、フロレンシアの父親であるクーロは毎日外套を羽織って果樹園を見に行っていた。もう二週間ほどしたらオレンジをもぐ準備をしなければならないため、彼は慎重にオレンジの様子を見ていた。
例年通りの春の雨。家族の誰もがすぐに通り過ぎるだろうと軽く考えていた。
だが、いつまで経っても雨は降り止まず、それどころか雨粒はどんどん大きくなり、桶をひっくり返したような豪雨へと変わっていった。また、風も次第に強風となってルンマ村を襲った。
このような嵐は過去の村の記録にないほど、凄まじいものであった。
村人は皆、家に閉じこもり嵐が過ぎ去るのをただ必死に耐えている他無かった。そのような悪条件の中で、木で出来た粗末な家が強すぎる風で崩壊し、家族全員が雨に投げ出され近所の家に世話になる例もしばしば見受けられた。
さらに、村の水車小屋の側の川は増水し、川の近くに住む住人は高台のある場所へ避難を余儀なくされた。フロレンシアの家も高台にあるため、避難所として村人に開放することになった。
高台にいても、土砂崩れの危険性があるため、フロレンシアや兄弟、避難してきた村人たちは日々震えていた。このような中で眠ることなど誰一人として出来なかった。
特にあの夜は時折光る稲妻と音が一層、恐怖感を煽らせていた。
「あなた! あなた何処にいるの!?」
フロレンシアの母のイルマが蝋燭の火を持って家中を探し回っていることにフロレンシアは気づいた。
「お母さん。お父さん、いないの?」
「それがいないのよ! ……もしかして」
さあっとイルマの顔が青ざめる。彼女も嫌な予感がした。
イルマとフロレンシアは目深いフードが付いたローブを被って外に出た。風でローブごと飛ばされそうになるのを堪えて壁づたいに姿勢を低くしながら歩く。
きっとクーロはあそこへ行ったのだ。片足が不自由であるにも関わらず。
「お父さあーーん!! 返事してーー!!」
「あなたーー!!」
力の限り叫んでも返事はなく、代わりに口に雨が入ってきて思わず咳き込む。今夜の雨は一際酷い。
ようやく母と彼女がオレンジの果樹園へと辿り着くと、クーロの後ろ姿が目に入った。
それと同時に、一つも枝に付いておらず全て地に落ちたオレンジたちも。
イルマは強風の中、走ってクーロにすがりつく。ずっと雨の中居たのだろう。彼の身体は熱く、酷く発熱していた。
「あなた、しっかりして! このままここにいたら死んでしまうわ」
「……僕のオレンジ達が死んでしまった」
「フロレンシア! 手伝って! お父さんを家に!」
「……うん」
フロレンシアの視界は雨と涙でほぼ見えなかった。だが見えないながらも色彩は分かった。
大きな雨粒に打たれ、形が変わり中身が出てしまった無惨なオレンジたちが辺り一面に散らばっていたこと。稲光が鳴るとその都度明るくなり、この光景が嫌でも目につくこと。そして、クーロをイルマと二人で肩で担ぐ時に見えた、感情をあまり表に出さない穏やかな彼が鼻をすすりつつ、顔中が雨ざらしになってもなお、揺れ続ける黒の瞳。
果樹園を後にしようと家に向かって歩き出したその時にドォン、と耳をつんざく音がした。
果樹園の一番遠くのオレンジの木に雷が当たったのだ。 その木が鈍い光を放ちながら燻って燃えるのをフロレンシアは失意の底にある父と母と一緒に目にした。
クーロは燃えている木を目の当たりにすると気を失ったようにだらりと母に寄り掛かる。
イルマは「あなた! しっかりして!!」とクーロの頬を叩くが、目覚める気配はない。
フロレンシアは震えが止まらない手で父の身体を掴むと、母と一緒に家まで父を担いで行った。
嵐はそれから二週間続いた。
その間、クーロの看病をし、嵐によって所々破損した家を直す作業をしていたところ、降り続いた雨が徐々に弱まり始め、ある日ようやく日差しが見えた。嵐との戦いが終わったのだ。
このような凄惨なことが起きたのはフロレンシアの家だけではなく、他の果樹園を営む家族も同様であった。彼らも生活の目処が立たないらしく頭を抱えていた。
あまりの酷さに、ルンマ村の村長自ら慰問に訪れる程で、慰問に一緒に訪れたセシリオもフロレンシアの顔を見るなり、泣きそうな顔をしていた。
「お父さん、今日もご飯食べてないの」
がっかりした様子で次女のマリセラがフロレンシアに言う。受け取った盆に載せられた食器は手付かずのままだ。
「どうしよう姉ちゃん。羊だけじゃ暮らしていけない」
長男のベルナルドがフロレンシアの両腕を掴んで揺する。弟の黒い瞳には焦りの色が見える。
「お母さん、働きすぎだよ。倒れちゃう」
羊を潰してソーセージを作っている最中のイルマにフロレンシアが言うといつもの明るい返事が返ってきた。
「こんなのへっちゃらだよ」
しかしその言葉は叶わず、元々身体の弱かった母は過労のため床に伏すことになってしまった。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
フロレンシアは食卓のテーブルに項垂れて座っていた。
クーロは未だに放心状態のまま、話し掛けても窓を見るばかりで返事をしてくれない。収入をクーロのオレンジ頼みにしていたため、飼っている羊だけでは幼い弟妹たちを養っていくだけの金が稼げない。それに頼みの綱のイルマも寝台から起き上がれない状態になっている。
そして何より壊滅状態のオレンジ果樹園の片付けや力仕事を村の男たちに手伝って貰った際に対する謝礼の金は、村の金貸し屋から借りたものだった。早く払わないと利子も刻々と膨らんでいってしまうだろう。
どうにか、どうにかしなければ。
一つ思いついたのが、セシリオのことだった。セシリオに言って、少しの間金を借りることは出来ないだろうか――……。
いや、幼馴染兼恋人だがそんなことを言い出したらセシリオは自分に失望しないだろうか。でもそんなことを言っていたらこの家を立て直すことが出来なくなってしまう。
フロレンシアは夜中もずっと考え続けた挙げ句、セシリオに打ち明ける決意をした。
朝、日が昇って暫くしてから自宅を出ると村長の家へと向かう。
嵐の爪痕は村の所々に残っており、とても痛々しくい。水位の高くなった川にのまれた村人も何人かいたらしいと避難して来ていた村人に聞いた。
嵐の時とはうって変わってぬるく緩んだ風の中を歩き、村長の家へと続く坂を上がる途中、知り合いの村人に声を掛けられた。
「フロレンシア! 無事だったかい!? 災難だったね……」
「アルビナさんも。ご無事でしたか」
思わず二人で抱き合うと、お互いに背中をさする。
「……うちは従兄が一人流されちまったよ」
「そんな……」
「畑の様子を見てくるって行って、それっきりさ」
アルビナは声を震わせて一層フロレンシアを抱き締めた。
「大事な人が生きてるならそれだけで幸せなんだよ、フロレンシア」
「はい……」
お互いにいつの間にか伝っていた涙を拭うと、アルビナはフロレンシアに笑いかけた。
「そういえば、セシリオの結婚の話」
「えっ……!?」
いきなり恋人の話題を出され、フロレンシアは焦った。いつの間に村長に話したんだろう。彼女は一瞬で赤くなった。
「も、もうそんなに話題になってるんですか」
「当たり前さ。村中、その話でもちきりだよ。村長が村が沈んでる時にあえて祭りをやろうって張り切っててさ」
「そんなに派手にやらなくても……」
「フロレンシア、こういう時に希望は必要なんだよ。辛いことを忘れさせてくれるような。それにアンタも良い話だろう?」
背中をぽんぽんと叩いてアルビナは目を細める。
「幼馴染のセシリオとエルバの結婚なんだから!」
言葉が喉に貼り付いて出てこない。息もしづらく、どうしても浅い呼吸になってしまう。
頭の中で物凄く色んな感情がごたまぜになっている。
どうして。
なんであの子が。
セシリオ。
エルバ。
どうして、私じゃないの。
思わずフロレンシアはその場で踞る。胃が捩じ切れそうに痛い。脂汗が彼女の額から滲み出た。
いきなり倒れこんだフロレンシアを心配して、アルビナが人を呼ぶ。薄れ行く意識の中でフロレンシアは愛しい人の背中を思い浮かべた。
目を覚ますとそこは村長の家だった。倒れた場所が近かったこともあり、今フロレンシアは客間の清潔な寝台に寝かせられている。
フロレンシアが天井をぼんやりと見ていると、カツカツと誰かが近付いてくる音が聞こえた。
靴の音はこの部屋の前で止まり、コンコンとノックする音が聞こえる。
「フローラ? 具合大丈夫?」
エルバだ。
フロレンシアは一気に血の気が引く感じがした。一体どんな顔をして会えばいいのだろう。
「……起きてるよ」
「じゃ、入るね~」
エルバは相変わらず柔らかい笑みを浮かべながら、冷たい水を盆に載せて持ってきた。エルバが持ってきた水をフロレンシアが受け取る。飲むと少しだけ気持ちが落ち着いた。
「そういえば、フローラも聞いた? 結婚の話」
びくっとフロレンシアの肩が跳ねた。
「……うん」
「そっか~。突然驚かせてごめんね? うちの父さんがどうしても私を嫁がせたかったらしくて」
「…………」
「もう少し休んでいってね。身体心配だから」
ドアを閉める瞬間、エルバが琥珀色の瞳を光らせてフロレンシアを見る。
―――― まるで猛禽類のように。
「でも嬉しいなあ。私もずーーっとセシリオのこと大好きだったから。私、幸せだよお」
呑気な声色から発せられた言葉は深くフロレンシアの心を抉った。鋭い鉤爪で傷つけられたように、一瞬息が詰まる。
『フローラ、私自分のことみたいに嬉しい。だって、親友のフローラと幼馴染のセシリオが結婚なんて、こんなに嬉しいってことない!』
『おめでとう! フローラ!』
あの言葉は嘘だったの?
あの笑顔は嘘だったの?
教えてエルバ。
その問いは閉められたドアによって聞くことが叶わなくなった。
同時に、この家に来た意味もなくなってしまった。最早、エルバがもうこの家に居る以上、セシリオに金の無心など出来ない。
早く出ていかなくては、と寝台を降りる。胃の痛みはまだあるが、家の裏に生えている薬草を煎じて暫く飲めば大丈夫だろう。
帰る際に使用人にお礼を言ってから、家を出る。すると、坂から上ってきたセシリオと出くわした。
「フローラ!」
「結婚おめでとう、セシリオ」
感情が一切こもっていない声でフロレンシアは祝福の声を掛けた。
「違うんだ、聞いてくれフローラ」
すがるように見てくるセシリオを彼女はうっとおしく感じた。
「ごめんなさい、私も家に帰らなきゃ。片付けがまだ残ってるの」
振り切るようにフロレンシアは早足で彼の横をすり抜けようとする。
「だったら、俺も……!」
セシリオが彼女の手を掴んだ時だった。
「もういいわよ!!」
フロレンシアは声を荒げ、強くセシリオの手を振り払う。彼女は怒りよりも悲しさが勝った顔をしていた。
「……そんなことより、婚約者のこと気にかけてあげたらいいじゃない」
絞り出すように出したか細い声は、セシリオの表情をも暗くした。
「じゃあね、セシリオ」
フロレンシアはセシリオの前から去った。
家に帰ると、フロレンシアは一つの決心をした。
“ロティオンに出稼ぎに行こう”
近くの村で働いても得られる賃金はたかが知れている。だが、世界有数の大都市で働けるなら、手っ取り早く家を立て直せるくらいの金は稼げるかもしれない。
フロレンシアは覚悟を決め、密かに旅支度を整えると、明日には出て行くと決めた。
夜が明けると、真っ先に出稼ぎに行く旨をイルマに話した。母は床に伏せたまま涙を拭いながら「ごめんね、フロレンシア。ごめんね……」とか細い声ですすり泣く。
「大丈夫よ。頑張って稼いで、また村に帰ってくるから!」
イルマの額の濡れた布を交換しながら、フロレンシアは明るく言う。
「いつもアンタにばっかり面倒ごと押し付けちゃって。母親として恥ずかしい。……暫くアンタの朝焼け色の目が見られないのが恋しいね」
母の額を優しく撫でながらフロレンシアは笑いかける。
母は自分の瞳のことを朝焼け色と呼ぶ。
自分も早朝の太陽が昇る時が好きだから、そう言われるのはとても嬉しかった。
「お母さんはもう充分働いたわ。だから暫くはしっかり休むのよ。……私もお母さんの顔、暫く見られないの寂しいわ」
「う、うわ! 押すなって!!」
フロレンシアが母に言うと同時にドアからなだれ込んで来たのは弟妹たちだった。
「姉ちゃん、どっか行っちまうのかよ!」
「姉ちゃん行かないで」
「おねえちゃん……」
それぞれしゃくり上げながらフロレンシアに抱きついてくる。弟妹たちの頭を一人ずつ丁寧に撫でると、フロレンシアはとびきりの笑顔で言う。
「ベルナルド、マリセラ。家のことは頼んだわよ。頼れるのはもうアンタ達しかいないんだから」
「……分かった。家のことはオレたちが守る」
「こっちのことは心配しないで。フロレンシア姉さんも身体大事にね……」
最後に弟妹たちをまとめてぎゅっと抱き締めると、フロレンシアは荷物を取りに自身の寝室へと向かった。そしてそのまま荷物を背負って、クーロの元へ向かう。
相変わらずクーロは虚ろな目をしたまま言葉を返してくれない。しかしフロレンシアが出稼ぎに行く旨を伝えると、振り向いてじっと顔を見つめてきた。
それに答えるように、笑顔でフロレンシアは父の手を握る。
「頑張って来るね」
そう言って、フロレンシアは自宅を、ルンマ村を出た。
それからは日銭を稼ぐため、小さな町で住み込みの食堂や宿屋で働いたり、食材屋の売り子などをした。出来るだけ自分の生活費は切り詰めて、余った分は家族のへの仕送りに回す。
そしてある程度まとまった金が手に入ると、よりロティオンに近い町へと移る。その繰り返しを一ヶ月程続け、ロバ車や荷馬車の隅に乗せてもらいながらロティオンを目指した。
その上紆余曲折あり、ようやくロティオン行きの連絡船が出ている街、コーマへと辿り着いた。 コーマでも食堂で働き、ロティオンでも少しは生活出来る分の金を汗水垂らしてどうにか貯めた。
だが、そのコーマの食堂では働いてもそれ相応の賃金は貰えず、ひたすら働きっぱなしの状態だった。何故か働いた分は知らぬ間に天引きされ、少ない額しかフロレンシアの手元に残らなかった。
正直、コーマの食堂の店主に不信感を覚えていたが、辞める決心がつかなかった。
コーマでは一度宿屋で働いたのだが、宿泊客に自身が呼んだ商売女と間違われ、ちょっとした騒動になった。その一件があったためそこを辞めたのだが、他の食堂は人が充分足りていたようでフロレンシアが働きたくても片っ端から断られる日々が続いた。
コーマ中を探し回ってようやく最後に採用が決まったのがこの店だったのだ。
金銭面に不満を持ちながらも、フロレンシアは朝から夜まで働いた。その分、体力も心もすり減っていく気がした。
過酷な仕事が終わり、寝台に横になると決まって両手のひらが震えた。眠りも浅くなり、悪夢にもうなされるようにもなった。
だが、この旅は続けなくてはならない。何よりも家族の命運が懸かっている。
早鐘を打つ自分の心臓に震える手を置いて、フロレンシアは眠った。
―――― またあの嵐の日の夢を見るんだと思いながら。
あの大嵐の日から数えてほぼ二ヶ月後、フロレンシアはついにロティオン行きの連絡船チケットを手に入れることが出来た。彼女は寝不足と疲労でふらふらになりながら、乗船した。
周りの乗客は新天地に向けてわくわくしながら乗り込んだことだろう。
だが、フロレンシアは不安と重責に押し潰されそうになりながらの船出となった。
ロティオンに着いた未来の姿が全く描けない。
一体私はどうなってしまうの?
仕事は見つかるの?
私が働かないと家族が総崩れになってしまう。
重い責任がフロレンシアの背中に強くのし掛かる。
船が出航しても、フロレンシアはほぼ甲板に出ることはせず、狭い船室の固い寝台の上でロティオンに着くのをひたすら待っていることを選んだ。
極力、誰とも接したくなかった。
もう人に裏切られたくなかった。
私はロティオンに、稼ぎに行くだけなんだから。
そしていつか、あの時みたいに家族と笑って食卓を囲みたい。
フロレンシアはそう夢想しながら、故郷のある大陸を離れていった。
―――― それが、リズに出会うまでのお話。
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