第四話 金髪の魔法使い 4-1



 フロレンシアがロティオンに出稼ぎに来てから季節は移り変わり、生温かい潮風と強く照りつける日差しに街の人々が慣れてきた頃、一軒の店の前で女二人は男の作業を見守っていた。


「よっ、と。こんな感じですかね!」

「ブノワさんもうちょっと左です、……うん、そこでピッタリです!」

 男が脚立に登り建物の壁に立て掛けたのは、鮮やかな――檸檬レモン色の看板だった。それには、“キトロン料理店”と達筆な字で彫られている。

「……やっと、出来たね。ボクらの店」

「はい! 本当に物件探すの大変でしたけど、良い場所に開店出来て良かった」

 満足そうに看板を見るベルナデッタと、開店にこぎつけるまでのことをしみじみと思うフロレンシア。

 仕事が終わった看板屋の男に金を渡し、彼女たちは礼をして見送る。それからベルナデッタが一息つくと、フロレンシアに向き直った。


「さて、店開こうか。……幸いにも待って下さるお客さんも居ることだし」

 ベルナデッタが店の前に並んでいる客に向かって軽く手を振ると黄色い歓声が起きた。

「……殆どの女性客、ベルナデッタさんに付いて来ちゃいましたね」

 苦笑いでフロレンシアが返すと、眉目秀麗な彼女は悩ましげにため息をつく。

「てんちょーには悪いけど、まあ退職金代わりってことで。それに、ボクだけじゃなくてキミの料理のファンも来てるね」

「あっいつも指名で頼んで下さる方並んでくれてる! ……嬉しいな~」

「この二ヶ月半、キミもコラリオンに良く馴染んだ。男だらけの厨房で汗水垂らして働く姿は雑草の中の一輪の花の如く。美しかったよ」

「もうそういうのいいですから……。ほらほら、開店準備始めましょうねー」

 ベルナデッタの背を押しながら、店内へと入っていく。店内も真新しい調度品で揃え、それもフロレンシアの気持ちを落ち着かなくさせた。

 ベルナデッタとの共同経営とはいえ、初めての自分の店だ。


 ――――私、料理人になって王都にお店まであるのよ。


 故郷の家族に話したら一体どんな顔をされるだろう。先日、異国人教会のシスターであるオリヴィエラに代筆してもらった家族への手紙には、無事にロティオンに着いて食堂で働けるようになったと書いてもらった。それとコラリオン食堂で働いた仕送りと共に飛脚へと渡したが、返りの便りはまだ来ない。

 きっとそのうち来るだろうとフロレンシアは前向きに考えている。

「あ、ベルナデッタさん。午後の昼過ぎ、少しだけ抜けていいですか?」

「おや。何かあったかな? ……ああ、もしかして」

時計搭の竣工式、見に行ってもいいですか?」

「いいよ、その頃だと客足も少なくなっているだろうし。接客係のカイもいるし大丈夫。行っておいで」

「ありがとうございます!」


 カイ、とはキトロン料理店で働くことになった若い男の名だ。一見無愛想だが、細かいところによく気が付き、客への当たりも柔らかく丁寧なため、古巣のコラリオン食堂で行われた新店舗の採用面接及び試用期間を経て、ベルナデッタとフロレンシアは彼をキトロン料理店に迎え入れることに決めた。

 そのカイは、本日は昼過ぎからの出勤で、この場にはいないが立派に務めを果たしてくれるだろう。

「さーて、頑張りますかー!」

「ああ、腕がなるね」


 開店との言葉と共に、キトロン料理店には客が列をなして入って来た。

 キトロン料理店の忙しい日々がこれから始まる。



 その頃、リズはまだ寝台で夢の中にいた。

 二ヶ月の間、フロレンシアが使っていたリズの寝台は、彼女の新しい店兼自宅が見つかったことにより部屋の主へと返され、リズもそれからいつもの寝台で眠ることが出来ていた。

 だが昨夜、安心感のある寝台で見た夢は、大きな鐘が何処か暗い場所に置いてあり、黒い鈍い光を放ってガタガタと細かく震えている光景だった。

 あれは何の鐘なんだろう。エルピスの鐘だとしたら、交易区の大きな搭にあるはずだ。

 リズは近づいて手を伸ばそうとするが、四肢が重くて言うことを利かない。

 そしてみるみるうちに鐘の震えが大きくなっていく。


 あの鐘は一体何――――……?


 リズはゆっくりと目を開け、上体だけ起き上がると首筋のじっとりとした汗を拭った。

 思わず身が震えるような、嫌な汗のかき方だった。

 未だに頭がはっきりしない。暫く額に手を当てて、頭が冴えるのを待つ。


「……そういえば、約束してたんだっけ」

 故郷の言葉で呟くと、彼女は全身を起こして洗面器が置かれた棚へと向かった。未だにぼんやりしたまま水差しを持ち、器に注ぎ入れる。続いて顔を洗うと、温めの水の感覚に意識が浮上するように幾らか頭が明確になってきた。

 今日は、ロティオン市民区にある大聖堂に新たに建てられた時計搭を、フロレンシアと見に行くのだったと彼女は顔を洗いながら今日の予定を整理する。

 この国には日時計など、大まかな午前と午後を分ける時計はあったが、今回取り付けられる時計盤は一日を十二に分け、長い針と短い針で時を刻むそうだ。今後はロティオンの時計技師たちによって管理されるらしい。

 こういった大時計は世界でも、ロティオンとザルツミナイル公都のデュンケリヒト、リエルグランテ大王都ロジエブランシュでしか見ないと、導き手をしていた際に客から聞いた。

 今回は時計技術の最先端を行くザルツミナイル公国から技師たちを招いて造らせた非常に大きい時計盤だという。ゆくゆくは、交易区にも小さな時計搭を造るらしいと、これも客から聞いた。

 夏用のゆったりした服に着替え、リズは階下へ降りて行く。朝食の時間は寝過ごしたので、厨房で何か摘まむために食堂を素通りして目的の場所へ向かった。


 少し時間が空いてから、リズは黒パンを口に咥えそして少しばかりのチーズを片手に教会を出た。フロレンシアとの約束は昼過ぎに彼女の店に顔を出して一緒に行くことになっている。

 あっという間にパンを食べ終えるとチーズを噛りながら、とりあえず暇潰しに交易区へと向かう。

 リズは交易区の大通りより、何本か横に入った小さな通りが好きだった。

 そこは交易区特有の喧騒も少しは薄れ、のんびりとした時間が流れている場所だった。喫茶店の店先のテーブルでコーヒーを飲みながら世間話をする老夫婦、ランプ屋の入口で欠伸をして寝ている白い猫、布屋でせっせと衣の入れ換えを行っている若い男。

 それを横目にリズは、更に奥へと足を伸ばす。十年もロティオンで過ごしているリズにも、まだ知らない店や道が存在する。これらを彼女はのため、道を探し出し記憶する。客からこういった小さな店が連なった通りを見てみたいと要望が来ることもあるため、休日はなるべく歩くようにしている。


 ―――― これも全部、のため。


 午前中でも太陽は容赦なくリズを焦がすように照りつける。流れ出る汗は、かいてもすぐに蒸発するを繰り返す。ゆらゆらとした陽炎の先に、彼女は路地の終わりを見る。それを確認すると、身体を反転させて今来た道を引き返す。

 暫く歩いていると、先程通ったランプ屋から白い猫が何かを咥えてリズがこれから向かう方向に走って行った。それから間もなく年配の女の叫び声が聞こえた。

「誰かあの猫捕まえてーーっ!! 大事な店の鍵を持ってっちゃったの!」

「つかまえたら何かくれる?」

「勿論! だから早く捕まえて!」

 リズは年配の女の言葉を聞くと、口の端を少し吊り上げた。

 そして一瞬にして女の前から少女はいなくなっていた。

「あら、ま……」

 舞い上がる砂埃が少女の走る速さを物語っていた。


 白い猫を視界に捕らえるとリズは大きな足音も立てずに全速力で向かう。猫はこちらをちらりと見るや否や怯えたように目を見開き、更に走る速度を上げた。恐らくは何が何でも捕まえるというリズの殺気めいた雰囲気のせいだろう。

 チッ、と舌打ちをして少女は猫と同じく速度を上げ、通りを駆ける。リズを撒くために猫がわざと入り組んだ道に入ろうが、彼女には通用しない。

 猫が塀を登ればリズも登り、草藪に入ればリズも入る。海水が入り込んだ水路の中も濡れるのを気にせずにひたすらに追いかけた。

 少女の長い金茶色の髪は小枝や葉が入り込んで、それはまるで森に棲む毛むくじゃらの架空の動物を彷彿とさせた。その姿を目にしたすれ違う人々にぎょっとされるが、リズは気にしない。

 そしてようやく、高い塀に囲まれた場所に猫を追い詰めた。リズは肩で息をしながら、白い猫を見つめる。

 猫は鍵束を咥えたままカタカタと震えていた――が、そこで予想外の行動に出た。


 到底登れないと踏んでいた塀を登り、飛び乗ったのだ。


 それには、リズもヒュッと息を呑んだ。幾ら自分でもあそこには登れない。

 少女が追いかけて来ないと思うや、猫は足取り軽く塀の上を歩き始めた。

 リズは拳を固く握り混み、俯くしかなかった。

 だが、ほんの瞬きの間に再びリズは息を呑む出来事を体験する。


 自分の横を何か暖かいものが通り過ぎたと思うと、猫の足元の近くへとそれは飛んで行った。猫は足元の近くに落ちたそれに身体を飛び上がらせ、口から鍵束を落とし、一目散に逃げて行った。

 猫がいなくなった後も、屏の焦げた臭いが漂ってリズの鼻に届いた。


 ――――それは正しく火の玉だった。


「あれを追っていたんだろう?」

 後ろから若い男の声がする。

 リズが振り返ると、一時少女の菫色の瞳は見開かれた。


 今までこんなに美しい顔は見たことがなかった。

 手入れがしっかりとされた長い艶めく金髪に、長い睫毛に縁取られ、憂いを帯びた切れ長の鳶色の瞳。鼻筋も高く整っており、決して大きくはない。薄く色づいた唇は形も綺麗だった。あの唇が弧を描くと美しさのあまり倒れる女たちが何人か居そうだ。男にしてはとても華奢だが、姿勢の良い佇まいが更に彼の美貌を際立たせている。

 それに特に目立つのは両耳に付けられた赤く燃えるように光り続けるピアス。

 恐らく庶民ではない。少女には、もっと高貴な人間のように思えた。


 リズはすぐに青年の全体から視線を外すと、彼の鳶色の瞳を見て、礼を言った。

「ありがとう、あなたのおかげでかぎとれた」

「別に大したことじゃない。それより、オレの魔法、中々すごいだろう?」

「まほう? ひがでてたやつ?」

 少女は小首を傾げると、青年は呆れた顔で言う。

「……まさか魔法を知らないのか!?  ……庶民はあまり魔法に馴染みがなく、街の魔法使いに大金を払い、頼みに行くしかない――……あいつの言っていた通りか」

 呟き始める青年を横目に、猫が落とした鍵束を取りに行く。取りに行く時も青年は着いてきたので、リズは不思議に思った。

「その鍵束、お前のか?」

「ちがう。ランプ屋さんの。かぎを返したらおれいがもらえる」

「……それ、オレも礼の対象に含まれてるよな。オレの火で猫が吃驚して鍵束を落としたしな」

「……!」

 リズは驚愕の表情で暫し固まった。確かに猫を追い詰めたのは自分だが、鍵束を手に入れたのは彼だ。分け前も二人分に分けられてしまう。

 少女は髪の毛に突き刺さった枝を抜きつつ、消沈した面持ちで青年を見る。

「……わかった。あなたをランプ屋につれていく。わたしはリズ。あなたは?」

 青年はリズの名前を聞くなり、ぴしりと身体を強張らせた。続いて彼から発せられた言葉はリズの青年に対する印象をかなり悪いものにさせた。

「お前、女だったのか!?  ……すまない、男物の服を着ているからてっきり……」

 リズの眉間の皺が益々深くなる。青年は、ごほんとわざとらしい咳をして、改めて頭を下げてリズに謝る。

「改めてすまなかった、リズ。オレの名前は、エー……いや、ノルトラムだ。ロティオンに来たのは初めてだ。それにしても、お前面白いな。猫と互角の速さで走る女なんて初めて見たぞ」

「あやまってくれたならそれでいい。……よろしくノル」

「ノルトラムだ」

「よびにくい」

 バッサリと切り捨てるようにリズが言うと、ノルトラムは頭をガリガリと掻いて困ったように苦い顔をする。

「何とでも呼べ。……そうだった、“静まれ”」

 青年がその言葉を言うと、強く放っていたピアスの光が徐々に弱くなり、遂には消えた。


「それより、ランプ屋に行くぞ」

 リズの前をノルトラムが歩く。

 その足取りは非常に軽く、色んなものに対して興味ありげに立ち止まったりじっくりと観察したりするため、本当にロティオンに来たのは初めてのようだ。

 むしろ、街自体を歩き慣れていない―― リズは後ろでそう感じた。

 好奇心のままに歩き回るノルトラムを、時に制しながらリズはランプ屋への道を歩き出した。


 ―――― 変な同行者が出来てしまった。

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