第三話 朝焼けと夕焼け 3-6



 約束の時間よりやや早い、早朝とも呼べる時にコラリオン食堂へ着くと、既に朝食を食べに客がちらほらと入っていた。

 緊張した面持ちでフロレンシアが唾を飲み込むと、リズの一言がフロレンシアの耳に小さく入る。

「みんな、おいしそうに食べてるね」

 その言葉にハッとなったフロレンシアは食堂中を見渡す。


 席について食事をしている人々は一様に和やかな顔をしながらカチャカチャと食器の音を響かせていた。時折笑い声も聞こえ、一日の始まりにこのような食事が出来たらどんなに幸せだろうとフロレンシアは思った。

 この二日間、自分のことだけを考えていた。試験に受かった後のことなど全く考えていなかった。

 もし受かったら、この人たちのために自分の料理の腕を奮うのだ。果たして、自分の料理でこれだけの人々を笑顔にすることは出来るだろうか。


「お姉さん! お姉さんもコラリオン食堂で朝ごはん食べに来たっすか~?」

 突然、テーブルに着いている少女に話し掛けられた。金のくるくるとした短い髪が印象的な少女は満面の笑みだ。片や、少女の向かいには銀の前髪を綺麗に切り揃え、胸元まである髪を緩く編んだ女が微笑んでいる。

 いきなり声を掛けられ、おろおろとしていると銀髪の女が助け船を出した。

「カーヤさん、二人とも戸惑っておられますわ。お二人とも席空いてますのでこちらにどうぞ」

 言葉に甘えてリズとフロレンシアは席に座らせてもらった。

「あたし、カーヤって言うんだ。ザルツミナイル東の森の湖畔の村でチーズ作ってこの食堂に卸してるんす~」

「私はヴィオレーヌ。交易区で砂糖菓子店を営んでおりますの。ここへは、うちの主力商品の菫の砂糖漬けを卸させて頂いてますわ」

「そうなんですか。私はフロレンシアで、横の子はリズです」

「よろしく」

 それぞれ四人で会釈をし合うと照れた笑い声が響く。


「お二人とも食材を卸すお仕事をされてるんですね」

 フロレンシアが言うと、ヴィオレーヌは頬を緩ませる。

「ええ、お互い食堂に卸し始めて暫く経っていたのですけれど。この前偶然カーヤさんに初めて出会って。すっかり意気投合してしまって、時々仕事終わりにここで朝食を摂りますの」

「ヴィオレーヌさんと食べるごはんは美味しいだよー! それにここの、特にベルナデッタ様の作るごはんは最高だよう~。今日の焼きたてチキンとチーズのピタパンと特製キアッケレも美味いっす! ここの朝食を食べると帰り道も元気に帰れるっす~!」

「私は鱈のバターソテーと焼きたてのくるみパンと蜂蜜クッキーを頂いております。私も、自分の店で一日頑張れそうです! そして相変わらずベルナデッタ様も麗しかったです……!」

「ベルナデッタ…………」

 思わずフロレンシアが呟くと、ヴィオレーヌは掌をぎゅっと握った。


「ベルナデッタ様は自由で美しく、そして凛々しく繊細な御方。まるでこのベール・ロス内海の背ビレを光らせ躍動して泳ぐ若いイルカのようですわ……!」


 二人はうっとりとした顔を浮かべながら食事を口へと運ぶ。相当なベルナデッタのファンらしい。フロレンシアはあははと頬を掻く。そのような中、リズが小声でフロレンシアに囁く。

「カーヤのキアッケレ、あじみできないかな」

 一度、看板コックのキアッケレを食べてみたい。ベルナデッタの作るキアッケレはどのような味なのだろうか。

「カーヤさん、ごめんなさい。キアッケレちょっと食べちゃダメですか? ……お腹すいちゃって」

「わたしも」

「いいっすよ~! どぞどぞ!」

 綺麗に型で抜かれたそれを、フロレンシアとリズの二人は手に取り、口に入れた。

 歯に軽く力を入れるだけでカリ、と生地が崩れたかと思うと、濃厚なチーズの味と荒く挽いた黒い胡椒が舌の上でぴりりとしみながら口全体に広がっていく。そして隠し味のバジルとローズマリーが何ともクセになる味で、もう一枚と手を伸ばしたくなる。病みつきになるキアッケレだ。


「他の店はキアッケレに蜂蜜や砂糖を掛けますが、ベルナデッタ様のはお食事の時にでも合うようなものにしたようですわ」

 茶で喉を潤してから、ヴィオレーヌもキアッケレをその小さな口に運ぶ。

「これは少しお土産にして、ウチの家族に持っていくっす!」

 カーヤは屈託なく笑って頬杖を付いた。


 そこに、聞き覚えのある足音が聞こえてきた。

「フロレンシアさん、おはようございます」

 ディックだ。朝でも彼の柔和な雰囲気はそのままで、勝手に座っているフロレンシア相手にも丁寧なお辞儀をする。

「ディックさん! すみません、お時間過ぎてましたか!?」

「いえいえ、まだでございますよ。只、店内に見覚えのあるお顔がありましたのでお声を掛けさせて頂きました」

「そうだったんですね。……あっ店長さん出てきましたね」

 フロレンシアとディックを見つけた彼は、厨房前の壁に寄り掛かった。二人が話し終わるのを待っているようだった。

「丁度、試験の時間になったようですね。フロレンシアさん、あまり緊張せず……その様子だと難しそうですね。ふむ……フロレンシアさんのキアッケレを作って下さいと言うのは難しいでしょうか」

……」

 おうむ返しにフロレンシアが言うと、ディックが頷いた。

「ええ。南方大陸からロティオンにお出でになって、それから様々な出来事や出会いがあったのではないでしょうか。南方大陸から来た頃とは違って、ロティオンで人に揉まれながら自然に暮らすことが出来るようになった―― フロレンシアさんのキアッケレですよ」

「…………」

 ディックの目が、温かくフロレンシアをとらえている。細められた薄緑の瞳が彼女に促す。―― ありのままの貴女を表現して、と。

 フロレンシアは、リズに一言「行ってくるね」と言った後、ディックと共に厨房へと向かって行った。

「なになに!? フロレンシアさん厨房に入って行っちゃったっす!」

「今日はフロレンシアのしけんの日。コックのさいようしけん」

「あら! それでは、受かったらフロレンシアさんは此処で働くことになるのかしら。上手くいくといいですわね」

 三人の年頃の娘たちは、フロレンシアの成功を祈った。


 厨房に入ると、男のコックが五人、調理場の前で腕を振るっていた。

 そこをフロレンシアは店長とディックの後を付いて行きながら会釈して通り、一番奥の調理場へ足を進める。先ほど、空いている調理場を使ってキアッケレを作ってもらう、と店長が厨房に入る時に言ったので、彼女もそのつもりでいた。

 しかし、空いている調理場に居たのは長い足を投げ出して座るあのコックだった。


「ベルナデッタ! お前は仕事に戻れ」

「ええ~? いいじゃないか、ボクもフロレンシアの調理姿見たいんだけどな」

 脚の長い椅子に座りながら足をぶらぶらとさせる様はまるで子供のようだ。

「店長、まあまあ。この際、ベルナデッタにも調理の様子を見ててもらいましょう。……それに見て下さい。彼女の目を」

「目?」


 さっきのキアッケレなら幾らでも食べられる味をしていた。食事の時でも食欲のない時でも食べられそうだ。食材にもこだわりがあるのだろう。きっと全て自分の舌で確かめて使っているに違いない。

 匂いも食感も味が追ってくる順番も全て計算されている、そのキアッケレが。


 ―――― あまりにも美味しくて、誰かの料理に対して初めて悔しいと思った。



「……イイね、その目。ゾクゾクする。ボクは追われるのも好きだよ」

 ベルナデッタは頬を赤らめて瞳を潤ませる。

「ディック。後でベルナデッタ叱っておいてくれ」

「はい」

「……フロレンシア、調理に取り掛かれ。始め!」

 フロレンシアは用意してあった小麦粉を勢いよく開けた。



 出来たフロレンシアのキアッケレが皿に盛られる段階になると、暇が出来たコックたちがこちらの調理場に野次馬に来るほどになっていた。

「お疲れ様です、フロレンシアさん」

 ディックが労いの言葉をフロレンシアに掛ける。汗だくのフロレンシアは袖口で汗を拭いながら笑顔を見せた。

「ベルナデッタ、お前が先に食え」

「やった!! 頂きまーす!」

 笑顔で拳を握ったベルナデッタがフロレンシアのキアッケレを摘まんで口に入れ、咀嚼する。

 その時の顔はてっきり笑顔かと思いきや、ひどく真剣な眼差しでフロレンシアも内心驚いていた。

「茶葉……紅茶を磨り潰して粉にすることで食感を良くしたんだな。それに生地に柔らかさがある。そういえば乳を入れていたね。 味はシナモンとカルダモンとジンジャー、パンチが効いててこれからの夏に良さそうだ。そしてまぶしてある粉砂糖」

 ぶつぶつと小声で早口、ましてや下を向きながら真顔で言うため、傍目からだとあまりお近づきになりたくないタイプの人間に見える。

 客に絶大な人気を誇る派手でキザなベルナデッタとは真逆の顔に、フロレンシアは好感を抱いた。彼女はこっちの顔の方が良いと素直に思った。

 はっ、とベルナデッタが顔を上げるとフロレンシアは彼女の言いたいことが分かったように、緩く微笑んだ。

「! ……フロレンシア、君の作りたかったキアッケレは」


「はい。チャイのキアッケレです」


 チャイのキアッケレ!と厨房中が沸いた。続けて店長、ディックが味見をしていく。

「……まさかチャイ味が食べられるとは。今、祭り中で何処の茶店も混み気味だからな。一息つきたい時などいいかもしれないな」

「……同じく。しかし、フロレンシアさん。何故この味を?」


「本当にはレシピを三つくらい考えていたんです。でもさっきディックさんが、私のキアッケレを作ったらどうかと言って下さって。私、ロティオンには家族を養うために出稼ぎに来ました。……実は本当は来たくなんてなかったんです。だから来た最初は誰も信じられなくて暗い顔をしていました。でも、親切な人たちが助けてくれたんです。誰とも知れない私に食事や寝床まで与えてくれた。ロティオンに来てから、私は別れと出会いの両方を経験しました。」


 脳裏に浮かぶのは背中を向けた家族と黒髪の青年。

 そしてこちらを向いているのは金茶色の髪の少女と教会で共に働く人々だ。


 ―――― ロティオンで経験したことをキアッケレに込めた。


「だから、出会いと別れを喩えたチャイの味を作ろうと決めたんです」

 真剣なフロレンシアの瞳を見てベルナデッタは目を丸くした後、心底嬉しそうに笑った。



「お客様方。失礼致します。うちの新人コックが作ったキアッケレの試食などいかがでしょうか? 出会いと別れを彷彿とさせる味でございますよ」

「もしかして、フロレンシアさんのじゃないっすか!」

「新人コック……ということは、試験に受かったのでは? それに出会いと別れとは何でしょう?」

「たべる」

 ディックが山盛りのキアッケレの大皿を中央のテーブルに置くと、それに客が群がる。リズもカーヤやヴィオレーヌと共に積まれたキアッケレを手に取り、口に放り込んだ。教会で何度も作ったあの味。フロレンシアのチャイを再現した味は、リズも気に入っていた。

「……よかった」

 リズは口角を緩く上げて食べかけのキアッケレを眺めた。


 食堂内の歓声から察するに、フロレンシアが作ったキアッケレは大成功と言って良かった。

 改めて厨房内のコックたちで味見をした上で、店長が下した結果は“採用”だった。

 それを聞いたフロレンシアは汗みずくの中、手放しで喜ぶことはせずに只、一言「良かった」と白い歯を見せた。

 その様子を見たベルナデッタは、興味深そうに彼女を見つめる。


「試験の最初、何であんな目をしたんだい?」

「……試験前にベルナデッタさんが作ったキアッケレを味見させてもらう機会があって。それからベルナデッタさんの作る料理の凄さが分かりました。でも同時に思ったんです。……負けたくないって」

 フロレンシアは両手で口元を覆うと、笑いながらも強い視線でベルナデッタを射抜く。

 その視線に気圧されたように、ベルナデッタは苦笑いを返す。

「……そう言われたのは初めてだよ。キミは常にボクの斜め上を行くようだ」

 長身の彼女は座っていた椅子から降り、フロレンシアの横の席に座り直す。


「ねえ、フロレンシア。ボクの店に来る時は従業員じゃなくて、コックとして来なよ。一緒に腕を磨き合ってコラリオンよりも良い店にするんだ!」


 ベルナデッタの薄青色の瞳がキラキラと輝いて見える。

 それに答えるように、フロレンシアの朝焼け色の瞳も生き生きとしている。

「とても楽しそうです! 私が本格的に料理を仕事にしようって思えたのはベルナデッタさんのせいですからね、責任取って下さいね」

「おやおや、情熱的な告白だ。普通のお嬢さんならお答えするんだけど、キミだからなあ……」

 大きな溜め息を吐いて、肩をわざとらしく竦めて見せるベルナデッタにフロレンシアは口に手を当ててクスクスと笑う。

「出会った時は口説いてきた癖に」

「こんな子だって思わなかったからね!」


 ベルナデッタの大きな手が差し出される。女にしては骨ばっていて、火傷や切り傷だらけの手だ。


「これからも宜しく。共に良い料理を作っていこう」

 差し出された手をフロレンシアは強く握った。さながら、負けないと気持ちを込めるように。


「こちらこそ、宜しくお願いします!」




 コラリオン食堂では早速明日から働くことになった。食堂の二階に空いている部屋がないため、ベルナデッタの店が出来るまで、引き続きフロレンシアはリズの部屋に住むことになった。

 カーヤとヴィオレーヌは、採用おめでとうと口々に祝ってくれ、フロレンシアは、はにかみながら礼を言った。

 そして今、二人と別れた後リズと二人で教会への道を歩いている。いつの間にか太陽は真上に来ていた。


「これで、やっと家族にもきちんとした仕送りが出来るわ! 良かった……」

 興奮冷めやらぬフロレンシアの頭に、静かにリズは手を置くと、そのまま優しく撫でる。

「フロレンシア。よくがんばった」

 そうリズが穏やかな声で言うと、フロレンシアの笑顔が突然くしゃりと歪み、瞳から一筋の涙が溢れた。

「……本当に夢みたい。食堂の従業員がせいぜいだって思っていたのに、コックにまでなれちゃった。リズや……教会の皆のおかげよ。私の料理を笑顔で食べて、美味しいって言い続けてくれてたから。自信が付いたのね、きっと……」

「だってほんとうにおいしかったから」

 そうリズが答えると、フロレンシアが抱きついてきた。リズもフロレンシアの背中に手を回す。お互いの体温が温かい。

 幸せを分かち合える友達が出来たことも、二人にとってとても喜ばしいことだった。


「ありがとう」

 そう言ったフロレンシアの声は歓喜に満ち溢れていた。



「かえろう。教会に。みんながまってる」

「そうね! 結果も教えなくっちゃ!」


 抱き合うのを止め、二人は教会へと歩を早めていった。

 ロティオンでの二人の“家族”が二人を待っている。

 これからもこの街、ロティオンで生きていく。どんな悲しいことがあっても乗り越えられる、そんな友達や仲間と出会った。

 いずれ、父や家族に伝えよう。この素晴らしい出会いと夢のような出来事を。



 ―――― フロレンシアの顔にもう涙の跡はない。


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