エルピスの鐘
鯛めし
prologue
prologue. 出奔
皆、呪いを受けたのか。
点在する集落から立ち上る火柱と煙が、太古の昔から広がる森を蹂躙してゆく。
その悲惨な様子を渓谷の崖から見下ろしながら、少年と幼い少女は馬を駆る。目指すは島の裏手にある入り江。表の港は既に敵方に占拠されてしまっているだろう。
幼い少女を前に後ろから手綱を引く少年の顔は真っ青だった。同じく少女の顔も青白く、今にも倒れてしまいそうな程に憔悴しきっている。それは少年も同じでここ三、四日はまともなものを口にしていない。
「ヨシュアせんせい……。おとうさんもおかあさんものろいをうけたの」
か細い声で身体を預ける少女が少年に尋ねる。
「リズ、馬に乗ってる時は喋るな。舌を噛むぞ」
「ぜんぶわたしのせいなの。わたしがいれば……」
徐々に涙声になる声に、少年は怒気を含んだ低い声で囁く。
「リズ、喋るな」
その声を聞くと少女はそれ以上口を開くのを止めた。
代わりに目を閉じると、ひたすら山道を走る馬の荒い鼻息と鋭い蹄の音、風に乗ってやってきた木々が焼けた匂いを感じた。そして、背中に感じる温もり。
少女と少年が暫く遠出をして集落に戻ると、そこには誰もいなかった。
火に掛けられた鍋や子供たちが遊ぶ石や木の玩具、薪割り途中だった丸太に刺さったままの斧。生活感に溢れたその場所には、唯一人間だけが存在していなかった。
だが、住民たちが遺した衣服だけが、彼らがそこにいた証しのようにそれぞれの場所に存在していた。その奇妙な光景を目にした幼い少女―― リズは頭を抱えてうずくまり、快活な彼女からは聞いたことのない絶望に満ちた声で絶叫した。
呪いだ、スタグリアの呪いだ。―――― と。
もうじきに島の裏手に出る。空も橙から濃紺へと変わりつつあった。
大樹の陰から裏手の様子を伺うと、灯りや人の気配もなく少年は安堵の息を洩らす。確か、別の集落で漁をするために使っていた小舟があったはずだ。
航海の技術はない。この島に来た時には別の仲間が舵を取っていた。方角は星や太陽を見るしかない。
この頼りない小舟で大陸まで辿り着けるだろうか。しかも敵に見つからず、大きな嵐も来ず、沈没もせず無事に。
いや、無事とは言わない。命さえあれば。
自分はどうなってもいい。だが、この少女だけは無事に辿り着いて欲しい。少年は傍らで仮眠を取る少女の涙をそっとすくう。綺麗な涙の雫が、指から渇いた大地にぽとりと落ちた。
この時期は夕方から夜にかけて夜霧が出る。この霧で幾らかは敵の目をかい潜ることが出来るだろう。そして今夜は幸運なことに新月だ。
今夜をどうにか乗り切り、それからは運に賭けるしかない。
少年―― ヨシュアは止まらない冷や汗を拭う暇もなく、ずっと裏手の小さな入江を見張る。
「おとうさん……おかあさん……」
少女の微かな寝言が聞こえると勢いよく少年が少女に振り向く。そんな些細なことでも心にさざ波が立つように、少年はひどく気を張り詰めさせていた。両手は震え呼吸も浅く、少しでも緊張が途切れるとすぐさま強烈な不安感が彼を包む。
やらなければ、という彼自身の強い思いがここまでの行動を可能にしていた。少女が深く寝入っていることを確認すると、少年はまた入り江の方を注意深く観察する。
暫く身を潜めていると、湿っぽい空気が身体を包み始めた。待望の夜霧が出始めたのだ。
少年は軽く身仕度を済ませると、少女を起こそうと肩に手を伸ばす。だが、少年はすぐには起こさずにまるで救いを求めるかのように眠った少女に語りかける。
「俺のせいなんだ、リズ。……ごめんな」
その苦々しく泣けそうにも泣けない複雑な顔は、まだ若木のような瑞々しい齢十七の少年がする表情ではなかった。胸の内を外に出したことで悲鳴を挙げていた心が少し収まったのか、少年は一息つくと改めて少女を起こすために肩に手をかけた。
絶望的な旅路になろうとも。
お前の命だけは俺の全てをかけて守り抜くと誓う。
* * *
――――何処からか、歌が聞こえる。
古びた教会の屋根からその歌声は響いていた。屋根には少女が一人、海に向かって歌を紡ぎ続けている。
決して高くはないが、伸びのある少女の声。その瑞々しい歌声は風に乗って何処までも届いていきそうだった。
この街では誰一人として知らないだろう故郷の歌。彼女の声には強い望郷の念が感じられる。
あの日、故郷の島から出奔し十数日間小舟に揺られ、幸運にも大きな嵐もなく無事に大陸に着くことが出来た。それから人目から隠れつつ他国の町を転々とした。常に日の当たらない道を選ぶ逃亡の日々。そして一年が経った頃にこの街に流れ着いた。
教会の屋根から見えるベール・ロス内海の煌めく水面と多くの帆船。そして街へとなだれ込むようにやって来る大勢の人々。
世界でも随一の交易都市であるアンフィポータズ王国の王都ロティオンに少女――リズはいた。故郷の島とは違う海辺の街での暮らし。当初は戸惑うことも多々あったがどうにか仕事にもありつけ、毎日を細々と街の片隅で生きている。
此処に住んでみて分かったことだが、この街は全てを受け入れる代わりに全て自分の力で生きていかなければならない。
リズがロティオンに来てからもう十年の時が経っていた。幼かった彼女も成長し、齢十七の娘となった。男物の地味な色合いの衣服を身に着け、腰元には仕事で使う道具が巻いてある。随分と長くなった金茶色の癖が強い髪を梳きながら、リズは引き続き故郷の歌を口ずさむ。
彼女は共に逃げていた親代わりのヨシュアを待っている。いつ帰ってくるか分からない彼をずっと、だ。仮にヨシュアが帰って来ても年に二度は良い方で、滞在する期間も年々短くなっていると少女には思える。
唯一、故郷の言葉を話せる彼と話がしたい。狩りの練習をしたい。隣に座っていたい。他愛もない話で笑い合いたい。
――――昔のように。
リズは募る気持ちを抑えきれずにいる。
「早く帰って来てよ、先生。……このままだと忘れちゃうよ」
歌の合間に呟かれた故郷の言葉はリズ以外には聞こえない。
下から自身を呼ぶ声が聞こえる。リズは歌を止めてアンフィポータズ語でぎこちなく返事をすると、梯子を降りていった。
彼女は海の見える大都市で、彼を待ち続けている。
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