第5話 異変
やっぱり今日はツイてない日だったんだ。でも、明日からはきっといつもの日常に戻るばす。
そう自分に言い聞かせて、もう一度彼と向き合うことにした。
「伏見さん、どうしてここに?」
「仕事帰りに通りかかっただけだ」
「へぇ、お仕事終わるの遅いんですね」
そう話しかけながら、この地下鉄の駅は県警本部の最寄り駅だということに気がついた。だから会ってしまったのだ。次からはこの駅は使わないでおこうと頭に記憶する。
「あんた、酒飲めないのに何やってんの」
「あの、あなたには関係ないですよね」
「確かに関係ないな。お持ち帰りされるところを、邪魔して悪かったな」
「むっ!」
明らかに悪かったという顔をしていない。口元を上げて、バカにしたようににやりと笑う。腹が立って仕方がなかったので、吐くように礼を述べた。
「ありがとうございました! 帰りますっ!」
一刻も早く伏見さんから離れたくて、駅へ続く階段を駆け下りた。しかし、何段か下りたところで、景色が激しく歪んだ。
(落ちる……!)
転げ落ちてなるものかと、なんとか手すりを掴んで一旦停止した。
バクバクと心臓が激しく音をたてはじめた。その耳に響く心音が煩くて耳を塞いだ。
(やっぱり、お酒なんて、飲むんじゃなかった)
「おいっ!」
「うっ……」
嫌味な警察官が階段を降りて近づいて来るのが分かった。また、何か言われるのは分かっているけど、今は動けない。
―― キーン!
(やっ、寄りによってまた耳鳴りっ もう、勘弁して。お願いっ)
「マジで、面倒臭えヤツだな」
「いやっ!」
彼を振り切りろうとしたところで、体が浮いて階段を降りて行く。なんと、あの嫌味な警察官伏見が痺れを切らして、私を抱えて降りているところだった。
借りを作ってしまったことが、とても悔しい。
「暫くしたら治まるって思ったんだろうけど、そのまま転げ落ちるだけだからな」
自信ありげにそう言った伏見さんは、階段を降りきったところで私は下ろした。
「じゃあな」
「あのっ」
そして伏見さんは、気怠そうに去って行った。
いつのまにか私の耳鳴りは、治まっていた。
(厄日だったんだよ。さっさと帰って寝なきゃ。明日は一歩も外に出ないんだから!)
◇
過ちを繰り返したくない私は、貴重な日曜日を家で過ごした。
理由はともかく、やっぱり家が一番落ち着くし安らぐ。ここは、私の唯一の安全地帯だ。
そしてまた、いつもの私の日常が始まる。
「おはようございます」
「あっ、森川。おまえ」
出勤してすぐに、車掌の河上さんがニヤニヤしながら私のところにやってきた。
「なんですか?」
「一昨日、ホームで男に引きずられてたの見たぞ。やっと森川にも彼氏ができたんだな! よかったなぁ、心配してたんだぞー」
「いやいや、河上さん。あの人、彼氏じゃないですから」
「え?」
「あの人は県警の人です」
「おまっ……なんかヤらかしたのか!」
「やらかしていませんよ」
心配を拭うために、仕方なく事の顛末を話すと、河上さんはお腹を抱えて笑い出した。目尻に涙まで貯める始末だ。
「こりゃ、いい酒のツマミができた」
そう言いながら、河上さんは事務所を出て行った。
ネタだなんてひどいと思いながらも、笑ってもらえるならいいかなと思った。
河上さんが、私のことを心配してくれているのは知っている。父親ほど年齢が離れているのもあってか、入社当時から可愛がってもらった。河上さんは私の恩師のような人だから。
「先輩、鉄警の人が心配していましたよ」
「え、なんか言ってた?」
入れ代わりでやってきた後輩の結城ちゃんが、鉄警の人から私の話を聞いたという。そして、その鉄警さんたちの間で私は、可哀想な人になっているらしい。
「護送されたって、聞きました」
「護送! やっぱりあれ、護送になるんだ。いや、本当にいい迷惑だったんだからね」
「お疲れ様です」
私のことは、駅員の間でちょっとしたネタとなり、面白おかしくイジられる。でも、よく考たら確かに面白い体験をしたと思う。
「森川、車椅子のお客様頼む。六番、十三時二十四分の下りで降りてくるぞ。四両目な!」
「はい!」
ホームに立たないときは、お客様の乗降車のお手伝いをすることがある。
私は車椅子のお客様が、スムーズに乗り降りできるように、ケアスロープを持ってホームに上がった。
折りたたみ式のケアスロープは、そんなに重くない。
(気をつけよう。前にこれを開くときに、指を挟んだんだよね)
電車は定刻で入り、お客様の降車を助けた。電動車椅子だったので、それ以外の手伝いは不要とのことで、いちばん近いエレベーターまで案内をした。
その時、どこかの下り坂でお客様が車椅子ごと転倒する映像が見えてしまう。
(電動なのに転倒? なぜだろう。あっ! もしかしてバッテリー!)
ふと目を落とした時に、なんとなくバッテリーが浮いているように見えた。
「お客様、車椅子のバッテリーがズレている気がします」
「えっ! あらっ危ないっ。あの、一度はずはして入れ直したいので手伝ってもらえませんか」
「はい。どのようにしたら、よろしいでしょうか」
「これを……、こうして、そうそう」
何とかバッテリーをつけ直したけれど、充電ランプが点滅してしまった。
「事務所で充電されますか?」
「ありがとう。でも、専用のものでないと無理だから手動に切り替えて帰ります。ありがとうございました。あれが途中で外れたら大変なので」
「そうですか。よかったです」
お客様は電動の装置を切り手動にした。やはり車椅子が重いのか、手でタイヤを回すのも大変そうだ。
(大丈夫かな)
―― キーンッ!
(っ―― 痛いっ。今度は。なにが起きるの⁉︎)
しかし、待てども予兆を表す映像は見えなかった。
私は腑に落ちないまま、ケアスロープを倉庫にしまい、改札に戻ったところで血相を変えた同僚が走って来た。
「何かあったんですか?」
「車椅子のお客様が転倒されて、救急車を呼ぶとことになった」
「えっ! どこで転倒したんですか」
私は嫌な予感を抑えられず地下鉄に続く連絡路を走った。そして、途中の売店の前で駅職員と横になる人影を発見した。
(あっ! やっぱり、さっきのお客様っ!)
私はショックで立ち止まり、そのお客様に近づくことができなかった。情けないことに、遠目で見守っているだけだ。
暫くして救急隊員がやってきて、ストレッチャーにお客様を乗せて行った。
(防ぎきれなかった。どうして? バッテリーのせいではなかったのかな。だとしたら、慣れない手動で何かに躓いて……。わたし、余計な事、した?)
血の気が引いていく思いがした。
「森川さん? 森川さん!」
「はいっ!」
「顔色、悪いよ。大丈夫?」
「あ、はい。今から休憩なので、大丈夫です。ありがとうございます」
私は今までにない、不安に襲われていた。
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