第7話 ひとりで飲む、はずだった
うじうじといろいろ考えていたら、もう退勤時刻となっていた。
私はあれからずっと、駅構内を掃除して管轄外の新幹線改札口まで巡回していた。新幹線の職員にギョっとした目で見られてしまったけど、気にしない。
「はぁ......(普通に戻りたい)」
案外メンタル弱い私は、駅の事務所までどうやって帰ったのか、覚えていない。
習慣というのはときに恐ろしく、ときに素晴らしいなと思う。私は気付くと引き継ぎ書にペンを走らせ、制服を着換えて退勤カードを押していた。
「お疲れ様でした」
「えっ、森川......いたの?」
「お先に失礼します」
ただ、私の頭の上だけ分厚い雲が乗っているように、気分はどんよりしていた。
今日は何曜日だっただろうか。たぶん明日は休み。
すれ違うサラリーマンから微かにお酒の匂いがした。時計を見ると、午後七時を過ぎた所だった。
(定時が早い人って、もう飲んで帰れるんだぁ......羨ましい)
そんなことを心の中で呟いてみるけれど、私はお酒に弱い。一人飲みは危険中の危険だ。なのに今日に限っては気持ちより先に、体が勝手に動いてしまっていた。
「いらっしゃいませ!」
私は無言で一人だと人差し指を上に向けた。それを見た店員は半個室の二人席に私を通した。今や女性のおひとり様は珍しくない。むしろ歓迎されていたりするし、恥ずかしさも寂しさも感じる必要はない良い時代だ。
「生ビールお願いします」
「はい! ありがとうございます。生いっぱーいっ」
しかし、おひとり様が初めてな私は何をどれだけ注文すればいいのか分からないでいた。少しずつをいろいろと食べたいというのは女性特有のものだけど、盛り合わせとつく名のものは当然量が多い。
何を注文したらよいか悩んでいるうちに、ビールが来た。たった一杯のビール、されど一杯のアルコール。口いっぱいに含んで一気に喉の奥に流し込むと、頭の上にあった雲はいつの間にか消えていた。
その一杯のビールが想像以上に美味しくて、私はお代わりを注文した。
「おかわりお願いします!」
「はーい」
(んふふっ、もうどうにでもなれっ! はぁ、一人でも楽しい)
そんなふうに開き直ったとき、私の向かいに黒いスーツ姿の誰かが椅子を引いて座った。相席なんて聞いていない。
「あの、お席間違えていますよ」
「合ってるさ」
「え? ふ、ふ、ふ、伏見っ......さん」
「あんた今、さん無理やり付けただろ」
もうそれは悪夢なのかと思った。
(なんなんだぁ! なぜココに現れるのっ。やだぁ、取り憑かれてるのかな私)
「相変わらずだだ漏れだな。すみません、生ビール一杯追加」
彼は通りすがりの店員に自分も飲むのだと言い、ビールを注文した。
「飲む気ですか」
「悪いか」
「悪くはないですけど、この席じゃなくても」
他の席に移ってほしいと言うつもりで伏見さんの顔を見たら、真顔のまま顔を近づけてきて、「ダメか?」と囁くように返されて不覚にも心臓が跳ねた。
忘れていたけれど、彼は黙ってさえいれば誰もが振り返るほどのイケメンなのだ。
甘いマスクのではなくて、キリリとした男らしい精悍な顔立ちをした方のイケメンだ。
「だっ、ダメではないですけど」
「じゃあ決まりだな。あ、それから敬語はいらない。俺あんたより若いから」
「若いって、なんで」
「あんた三十だろ? 俺、三つ下の二十七だからさ」
「と、年下なのぉぉ!」
年下と分かった瞬間、無性に腹立たしく思った。今まで私が払った敬意と遠慮を返せと言ってやりたい。
一気に沸騰したせいか妙な脱力感と、言っても仕方がないという諦めから初めて三杯目の生ビールを頼んでしまった。
「おかわりください」
「あんた飲めないのにいいのかよ」
「ちょっと。あんたあんたって。ちゃんと名前で呼んでください、私の名前忘れたんですか?」
「森川奏だろ」
「正解! だから、あんたは禁止。ちゃあんと、名前、よんでっ、ね? あるぇ?」
ああ、お酒がまわってきた。酔っぱらっているんだなと自分でも分かっている。でも、もうコントロールできなくなっていた。
「酔ったな」
「ふふっ。伏見さんの下の名前なんて言うの?」
「おまっ、なんだよいきなり」
「いきなりじゃありません。伏見なんて言うの? ねえ、おしえて」
「どうせ言っても忘れるんだろ。亮太、伏見亮太だ」
「
「はぁ......」
「いまどきの、キラキラネームじゃなくてっ。ちゃんと男って分かる名前。それに、あなたに合ってる」
「っ!」
「ほら亮太さん。飲んで、飲んでぇ」
「なんなんだよ......まったく」
伏見さんがいかにもタジタジといった感じで言葉に詰まると、勝った気分になる。
でも本当にちゃんと見たら、彼はとても素敵な顔立ちをしている。お仕事も警察官だし、ステータスかなり高いと思う。
お酒のせいで酔っぱらいフィルターが発動したのか、伏見さんがめちゃくちゃ格好よく見えてきた。
「ヤバぁ......」
「おい、大丈夫か。帰るぞ。おい、しっかりしろ」
「やだぁ。わたし普通の人になりたいから、まだ飲む。あんな
「おいっ」
「だって、苦しい。皆の未来ちょっとだけ見えるのに、役に立たない......」
(あれ? 私何言ってるんだろう。おかしいよね)
伏見さんが私の顔を覗き込む。私が意味不明のことを言ってしまったからだ。これ以上は口を閉じないと面倒な事になりそうな予感がした。
「すみません。帰ります」
「帰ります、じゃねえよ」
「えっ」
あっという間だった。伏見さんは私の腕を掴んで睨んだ。怯んだ私はそのまま席を立ち、出口に連行される。彼はカウンターでカードで会計を済ませた。私は再び腕を掴まれて店の外へ連れ出される。瞬き位はする暇はあったと思うけれど、圧倒されていて何もできなかった。
「あのっ、お金。すみません、払います」
外の空気を吸って我にもどった私は、慌てて財布を探した。すると伏見さんは財布を探す私の手を掴んだ。
「あんたさ、抱えすぎなんじゃねえの?」
「えっ。な、何をですか」
「あんた見てるとイライラする」
「はぁ!? じゃあ見ないで下さいっ」
「あー、くそ!」
突然視界が何かに覆われて見えなくなってしまった。私の顔は何処かに押し付けている模様。そしてなぜか体全体が、温かい。何年かぶりの懐かしい感覚だった。
(待って! だ、だ、だ、抱きしめられてるんじゃ!)
「ぐる、しっ(苦しい)」
「苦しいのは、あんただけじゃない」
(どういうこと? 抱きしめる側も苦しいと言っているの? そんなわけ、ないでしょ)
「ふっ、くく。相変わらず変なヤツだな」
「あのっ、はな、じて(放して)」
「今、放していいのか? みんな見てるけど、俺達のこと」
「なっ」
その時、こめかみに強い痛みを感じた。
「いっ、っうあっ」
「おい! 大丈夫か」
(やだ、激しい)
周りの声が聞こえないほどの痛みだった。力が抜けてく、こんなことは初めてだった。
「おいっ!」
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