第25話 瓜と血漿、そして弓 

 越国公主は相手の言を聞くとまんざらでもない表情で、懐から何かを取り出した。

「それは……」


 紐が結わえられたそれは、琥珀の細工物。劉将軍の従卒が契丹人に取り上げられてしまった大切な品である。蒼穹を映す彼女の眼は、いたずらっ気をも帯びて常よりさらに明るい。


「そなたの微笑みは危ういな。そら、欲しければ私から奪い取って見せよ。油断のならぬ漢族の色男!」

 言いざま、公主はぱっと立ち上がって駆けだす。草を踏み、風を切って軽々と、巣穴の潜ろうとする兎のように素早かった。

「ちょっと、公主さま!」

 突拍子もない貴人の振る舞いに、朝慶も慌てて後を追う。追う者と追われる者、二人の距離は次第に縮まり――。


「あっ……」

 朝慶の伸ばした手指が公主の袖にかかり、平衡を失った彼女が大地に転がり、両手をつく。

「わっ」

 男は女にぶつかりつんのめったが、かろうじて覆いかぶさるのを避けるべく、とっさに脇に転がった。正面衝突こそ避けられたが、倒れ伏した二人の顔は、指三本ほどの距離しかない。朝慶の鼻先を、公主のつけている香りがかすめた。

 一瞬、彼らは横になったまま互いを見つめていたが、身を起こしたのは李のほうが先だった。


「も、申し訳ありません! お怪我は? 公主さま」

「……」

 跪き手を差し伸べる朝慶に向かって公主は首を横に振ると、自力でよろよろ立ち上がった。

「大事ない……」

 彼女はゆっくり右手を開く。

「ほら、これは無事だ」

 そして、掌のなかのものを朝慶の手に握らせる。

「確かに返したぞ。そなたから元の持ち主に渡せ」

「は、はあ。ありがとうございます。ところで、御手を擦りむいておられますが、他に……」

「いや、何ともない」


 公主は先ほどの快活さがどこへやら、ぶっきら棒に答えると、水場の馬の方角を指してくるりと踵を返す。不意なことでごく近くに互いの身と顔を寄せてしまい、ぎくしゃくした空気が二人を包む。


 朝慶は何も言わず、水場に着くと手巾を浸して公主に渡した。本当は傷を拭ってやるべきかもしれぬが、この状態では公主がいたたまれない思いをするかもしれない――そうおもんぱかってのことである。越国公主はふうっとため息を一つついた。


「今日はもう帰ろう。そなたに返すべきものは返したし、気が済んだ」

 彼女の足元で、ぴょんと虫が飛び跳ねた。


***


 結局のところ、李朝慶は職位が変わることがなく、ただ日を決めて公主の第に参上すれば良いことになった。参上したら参上したで、公主は茶菓を傍らにたわいない世間話をせがんできたり、囲碁の相手を頼んできたりするくらいで、他に自分が指名されなければならぬ理由が見当たらない。


――まあ、姫さまのお守りと言ってもこの調子では楽なものだし、それはそれでありがたいが、公主さまはなぜ私をお側に置きたがるかな。


 郭文雅などは「なに、ただ美男子を侍らせておきたいのだろう」と事もなげに言うが、朝慶にはそれだけとは思えず、彼女の心中を推しはかりかねていた。


 とはいえ、日々の繁多な職務に取り紛れ、それ以上気にすることもなかった。そして、彼は宋と契丹とで取引されたものを前以上に入念に品定めし、契丹から支払われる代価の銀の動向に一層注意するようになった。


「……したがって、宋への支払いの高は前年より二割増しとなっております」

「二割か。年々増えておるが、今年はまた大した増え方だ」

「もっか、宋との関係が安定しているゆえ取引も盛んになっておりますし、これもこちらの国勢のなせるわざかと」


 上官の楊勉へもろもろ報告を済ませた朝慶は、一息つく暇もなく越国公主の第に足を向けた。その広い中庭では、男が遠く離れた瓜を的に弓を引いている。

――ぱん!

 壁際の高い台に置かれた瓜は破砕され、汁が台と言わず磚と言わず滴り落ちる。

――あっ。

 一瞬、朝慶は目をつむった。


 瓜を抱えた自分の母親を、契丹の兵は瓜ごと射抜いた。堂から飛び出してきた父親は、頭を打ち割られた。瓜のごとく脳漿と血が飛び散って――。

 凄惨な記憶の欠片は、だがすぐに去った。彼は目を開き、蕭紹矩に向かって拱手する。


「お呼びと伺いましたが」

 蕭は眉を上げると弓を置き、指を保護するための翡翠の輪を外した。

「うむ、私から頼みがあってな」

「公主さまではなく、あなたさまから――どのような?」

「そなたに交易や取引品に明るいと聞いたが、その力を貸して欲しいのだ。私と公主の婚姻にあたっての支度を、そなたに助けてもらいたい。降嫁の道具の支度など、そのようなことをな。適任だと思うが」


 朝慶は適任と言われても喜色を見せるどころか、かえって眉を寄せて首を傾げた。


「私でなくとも、お邸にはお支度ができる者が大勢おりましょう。何も私ごときが……」

「いや、そなたが良いのだ。これはただの婚姻にあらず、わが国の強盛を示すような品々こそ、越国公主にふさわしい。金銀に糸目はつけぬゆえ、心行くまで趣向を凝らしたものを、な」


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