第9話 決別

 金城でまだ勤務を残す父親と別れ、仁問が邸に戻ると、彼を待っている人物がいた。同母兄の宝敏ほうびんである。太い眉と強情そうな口元が人目を惹く面立ちで、乗馬の鞭を手にした兄は、顎をうまやにしゃくって見せた。「遠乗りに付き合え」との合図である。

 言い出したら聞かない、直情的な宝敏の性格を熟知していた仁問は無言で頷き、ともに厩に足を向けた。


 くつわを並べた兄弟は、都を出て東を目指す。

 田畑に腰をかがめる農夫たちをぽつりぽつりと見かけるくらいで、規則正しい蹄の音が辺りに響き渡るだけである。

 兄と弟は特別に濃密な仲というわけではなかったが、国家の重鎮たる父を息子である自分たちの力で支えたいとの願いは共通しており、わずかな会話のうちにも兄の心情を感じ取れるくらいの親しみは、母を同じくする弟として持っていた。


 やがて、前方の景色が開け、水平線が広がっているのが見えた。浜には穏やかな波、低い岩の塊が二つほど見えるほかは、何ということもない。まだ夕暮れには大分早く、辺りはしらじらと午後の光が満ちているだけである。

 だが、兄弟ともにこの穏やかな景色を気に入っていり、たまにはこうして遠乗りしてくるのである。


「……そなたは明日、西に――唐土に向かって立つ。この光景を見るのは、次はいつになるかわからぬゆえ」

「ええ、兄上」

 馬を降り、浜に向かって宝敏は歩いていき、仁問もそれに続いた。


「あちらには倭国がある。左にずっと――北に行けば高句麗、背後の西に行けば百済だ。そなたは西よりさらに先、唐土にて新羅を守る。私は東を向いて新羅を守ろう。長安には海もあるまいから、この景色を餞別代りにそなたに贈る」

「兄上……」

 宝敏は微笑んだが、そのふとした表情が父親そっくりに見えて、思わず仁問も笑み崩れる。

「どうした、何がおかしい」

「いえ」

弟は首を振る。


「兄上さえ父上のお側にいれば、私は安心して唐土に参れます。どうか私の代わりに父上を」

「わかっている、わが命を賭しても。それにしても、長安は遠いな……」


――次にまた生きて会えるかはわからない。


 仁問はその言葉を飲みこみ、ただ兄の傍らで寄せ来る波を眺めていた。


 *****


 翌日、仁問は春秋とともに月城に参内し、女王の御前にまかり出た。女王は先代の善徳女王に続き二人目の女王として擁立され、金春秋や金庾信らの補佐を得ながら、親唐政策を取りつつ国内の制度を改革している。


 いま若き女王は香炉のくゆりのごとき微笑みを浮かべて玉座におさまり、薄桃と薄緑の衣装の取り合わせも美しく、金と銀のきらきらしい宝飾に身を飾られながら、自分に額づく臣下を見下ろしていた。


「長安までの道のりは遠いが、無事に行き着くことを願っている。重責を担わせるが、そなたの働き次第で、この新羅の行方も定まるゆえ……」

「はい、女王さま。自らの責務、一日も忘れずに勤めますゆえ、金城にあってどうか吉報をお待ちくださいませ」


 伏目になって答えた仁問は、新羅女王から大唐皇帝に向けた函入りの国書を受け取った。

「仁問、目を上げよ」

 命じられた通りにすると、女王はすっと立ち上がった。彼女の動きに合わせて黄金の耳飾りが揺れる。


「私の前で別れを言った者、ある者は戦場に散り、ある者は帰って来た。役目を果たしたら、必ずやここに戻ってきなさい。そなたは私の大切な臣下である前に、我が愛すべき親族なのだから」


 相手に気づかれたか否か、仁問は返答に詰まり、それを取り繕うために目を見開いた。


「大切な臣下にして愛すべき親族……お言葉、かたじけのうございます」


――女王さまは主君にして、親族。それに変わりはないが。


 すらりとした容姿、温顔。花を置いたかのような頬、優しげな笑みを絶やさぬ口元。たおやかさと決して折れぬ気丈さとを兼ね備えた女性。ああ、この方の頭上に、王たる印である黄金の冠が輝いていなければ。彼女の腰に、新羅の君主の証である黄金の帯が光を放っていなければ。女王でさえなければ、私も……。いや、よそう。叶わぬことを考えていても仕方がない。


 むろんのこと、目の前にいる憧れの人は、自分の言葉が相手の胸にちくりと刺さったことなど知る由もないだろう。

 仁問は新たな旅立ちのため、最も重い敬礼を行って別れを告げ、同時の自分の秘めた思いとも決別した。

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