第8話 金仁問

 新羅の王都である金城きんじょう、王が座す月城のほど近くにある邸では、二十過ぎの青年が朝から忙しく立ち働いていた。

 彼は一室で書き付けに眼を通していたかと思うと、次の瞬間にはもう回廊に出て手を叩き、駆け寄ってきた人々に何やら指示を出している。

 青い上等の絹に包まれた父親譲りの長身痩躯、その上に載る面はすっきりと、二つの眼は杏仁きょうにん形をしていた。


「お兄さま、仁問じんもんお兄さま」

 鈴を転がすがごとき声に振り向いた兄――金仁問は、眉間にしわを寄せた。

智炤ちしょう、また馬に乗っていたな」


 筒袖の上着にくんではなくを穿き、頬を上気させた妹は、手にした乗馬用の鞭を後ろに隠した。


庾信ゆしんの伯父さまに教えていただいているのだから、かまわないでしょう? お父さまも何もおっしゃいませんのよ。ええ、私も兄上たちのように戦場に出て、新羅のために尽くしてみせますから」

「おやおや、とんだ女将軍だ。全く、伯父上にすっかり感化されて……たしかに庾信伯父上は新羅一の勇将であるが、そなたまで……」


 ことさらに渋面を作ってみせた仁問ではあったが、その実、口の端がほころぶのを止められはしなかった。彼には同母や異母ふくめ幾たりか姉妹兄弟がいるが、同母妹の智炤をとりわけ可愛がっていたのである。

 それだけに、最近は智炤が親子ほども歳の離れた金庾信きんゆしんに、「伯父さま、おじさま」とついて回っているのを、ほほえましくも少しばかり寂しげな眼差しで見ていた。


 兄妹並んで仁問の書斎に赴くと、あちこちの行李に書物がぎっしりとつまっており、納まりきれぬ巻子かんすはなお卓上や棚に積まれて、山脈のごとき様相を呈している。儒学、老荘、そして御仏みほとけの教え……持ち主の学識をうかがわせる収集ぶりではある。


「それにしても、お兄さまが行かれる唐土にはそれこそこうした書物は山のようにあるのに。何万里も離れている長安の都にわざわざ持っていらっしゃらなくても……」

 智炤は手にした鞭をぶらぶらさせながら、からかうようなそぶりを見せたが、兄は慣れたもので、それを軽く受け流した。


「そうは申しても、朝晩慣れ親しんだこれらがないと、どうも物寂しく感じそうでな……まあ、彼の地でまた買い込んでしまうだろうが」

 妹はそれを聞き、ふっと寂しげな表情をする。

「そうよ、朝晩慣れ親しんだお兄様がいなくなってしまうなんて、私……」

 仁問は困ったような顔をして手を伸ばすと、智炤のまなじりに光るものを優しく拭ってやった。



 仁問がいよいよ唐土に旅立とうとする前日、春秋は息子を連れ出し、城近くの池に舟を浮かべて乗った。この池は蓮で名高く、今も蓮たちが桃色鮮やかにその美麗さを誇っている。


――我が父ながら風格は群を抜き、才知はこの池のさざ波のごとく煌めいている。まこと、君主の輔弼ほひつにふさわしい方。


 舟中に向かい合わせになって座す父親を、仁問は眩しげに見つめた。そんな子の心を知っているのか否か春秋は微笑むと、かねて用意させていた杯を差し出した。

「さあ、取るがいい」

息子はうやうやしく杯を拝受して傍らに置き、まず父の杯に酒を注いだ。ついで、自分の杯にも。日光が杯のなかに飛び込んできらりと光る。


「明日は女王さまにお目にかかったのち、お前はこの金城を離れる。仁問、長安は遠い。慣れぬ土地、慣れぬ務めに難儀するであろう。せめて父として、そなたの無事を祈らせて欲しい」

「かたじけのうございます、父上」

 仁問は声をとぎらせ、頬を赤らめた。

「あ、いえ。今日ばかりは『父さん』と呼ばせてくださいますか。幼い時のように」

「むろんのこと」


 親子は杯を一気に飲み干す。「ああ、そうだ。忘れぬうちに――」と、父は言いさして杯を置き、たもとに手を入れて何かを引き出した。眼を丸くする息子の手を取り、それを握らせる。


「父さん、これは……」

 いつも春秋が大切に身につけていたもの。切れ長の瞳にあらん限りの慈愛をにじませ、彼は頷いた。


「かつての持ち主は、これを譲るときに私と新羅の安寧を祈ってくれた。そして、この翡翠によって祈りは天に届き、私はその恩沢を受け、無事に新羅に帰ることができたばかりか、二代の女王にお仕えし、微力ながらその御世を盛り立てることもできたと思う。仁問、今度はそなたがこの恩沢をもって唐に行き、なすべきことをなせ」

 仁問はしばらく返答せず、じっと父の愛情のかたちを眺めた。


――なすべきこと。それは私にとって一体何だろう? 新羅を守るため、それは確実だ。だが、他にも果たしてあるのだろうか。

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