第7話 海鳥

――鮎児あゆこさまのお気持ちを思うと、翡翠である私も、ないはずの胸が痛んでまいります。

 難波津に繋がれた、春秋しゅんじゅうさまがお使いになる船には様々な人が出入りし、積まれる予定の荷が段々小山のようになっていきます。この小山の成長が止まるとき、新羅からの高貴なお客人は西に漕ぎ出し、海を越えてお帰りになるのでしょう。

 

 私はただ鮎児さまに自分から話しかけることができないのがもどかしく、その掌に乗ってその心をお慰めするほかはありません。果たして私は、女神さまのおっしゃった「見守る」お役目をきちんと果たしていると言えるのでしょうか?


 *****


「えっ……」

 素っ頓狂な声を上げる鮎児に、春秋は変わらぬ優し気なまなざしを向ける。打ち寄せる波の音が、ひときわ彼女の耳に大きく響いた。


「そうだ、ここを発つ日が来たのだ。蒼の波を蹴立てて風の神のご加護を受け、一路、新羅を目指して帰る」

「そうですか……」


 出立はいつですか、と鮎児は問うたが、我ながらか細く情けない声だと恥じた。

「明日」

 さらりと春秋は答え、海へと視線を投げる。


――この日が来ることなんて、わかっていたのに。


 淡い想いのあっけない終わり。いつもと同じ空、同じ海であるはずなのに、今日はどちらもくすんで見えた。


 鮎児は何気ない振りをしてそっと袖で眼尻を拭い、笑ってみせたがどうしても強張ってしまう。それでも彼女はとして、懐を探ると朱色の小袋を取り出し、掌(てのひら)に載せたものを差し出す。


「ご覧ください、春秋さま」

「これは……勾玉? 翡翠だな」

 それは掌から手のひらに受け渡された。


「ええ、私の故郷で採れたものです。翡翠の女神様の化身で、ずっと私を守ってくれました。いま、私から春秋さまへの餞別せんべつとして献じます。これからは、翡翠があなた様をお守りするでしょう。無事に新羅にお戻りになられますよう、そしてお国をお守りになられますよう」


「そなたの故郷というと……北の出身だそうだな。ああ、翡翠は北から来ると聞いたことがあった。我が国も昔からそなた達から翡翠を手に入れてきたから、縁が深いな。我らが女王さまの冠をそなたに見せてやりたいものだ。きらめく大樹のごとき黄金の冠に、梅のみのるとまがうほど数多の勾玉が下がっているのだよ……だが、そのどんな玉も、そなたのただ一つの翡翠にはかなうまい。色といい艶といい」


「ああ、嬉しい。お気に召しましたか?」

「うむ。だが、いいのか? そのように大切なものを」

「はい、いいのです。この勾玉が御身おんみのお側にあることを思い、そして毎日西の方角を見ながら、春秋さまのお幸せを祈ります」


 鮎児は眉を八の字にしたまま、朱色の袋も渡した。


――これで、いい。たとえ想いは叶わずとも、私の分身がずっとあなた様をお見守りいたしますゆえ。


 春秋は笑んで、袋に納めた玉を懐にしまう。鮎児はその優雅な手つきを見て、またもや涙を流しそうになった。


―――いけない。もう、このお手もこの眼差しも見ることはできない、それを考えたら悲しくなってしまう。でも。


「なぜそのような顔をする?」

「……あなた様がよくお聞かせくださった新羅の金城みやこを一目拝見したかったのです。山々に抱かれた美しくも賑やかな都を。その名の通りの、半月型をした月城。池にかかる二つの橋。壮麗な皇龍寺こうりゅうじはじめいくつもの伽藍がらん

「青々とした山並みに夕陽が落ち、また白々とした稜線から旭日が昇り……」

 采女の言葉に異国の王族が和した。そして二人は微笑みかわす。


「行ったこともない地であるのに、たなごころを指すようにそなたは我が故郷を知っている」

「どなたのせいでしょう? 耳にたこが出来るほど聞かされましたもの」

 その軽口を春秋は咎めず、そっと采女の手を取った。


「そなたらしさが戻ったな、ありがとう。いつどのような時も、どんなに遠く離れていても、一人でも心にかけてくれる人間がいるというのは嬉しく、良いものだ」

「ええ、春秋さまもどうかご無事で。新羅の月をご覧になるとき、たまさかにでも私を思い出してくださるならば」


 春秋はふわりと笑い、頬をあからめる鮎児の手を離した。そんな二人に妬いたのか、ひとりぼっちの海鳥がけたたましくきたてた。

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