第20話 開龍寺にて

 翌日の勤務が終わると、李朝慶は開龍寺かいりゅうじに足を向けた。平素は寺詣でなどせぬ性分なのだが、ふと亡き韓徳譲かんとくじょうが記憶に蘇ったため、生前の彼がよく訪れていたこの仏前に額づこうと思い立ったのである。


 韓徳譲は契丹の勢力伸長を導いた功臣で、太后(承天太后しょうてんたいこう)と結びついてその息子である今上(聖宗)の擁立を成功させ、宋との戦いでも有利な条件で盟約を結んで朝廷に重きをなした人物である。太后とは政治の相談相手であるばかりではなく情人でもあったが、それは周知のこととして、太后も徳譲も堂々とふるまっていた。


 父の友人でもあり、何かと自分を気にかけてくれていた韓を朝慶は尊敬していたが、ただ漢族でありながら契丹族の隆盛に力を惜しまなかった政治家として、そして女性権力者の情人として、一面、複雑な思いで仰ぎ見ていたものである。

 

 朝慶は、おそらくは宋渡りの高価な香が立ち込める本堂で、本尊を見上げながら故人をしのび、懇ろな礼拝を済ませたが、戸外に人の話し声を聞いて振り返った。


――女性たちか?


 その通り、逆光のなか浮かび上がった声の主たちはどちらも女性で、一人はすらりと背が高く、一人はやや低い。彼女たちは軽く一礼してから堂に入り、すぐに先客に目をやった。


「ああ、失礼を」

 徳譲が仏前を退いてやると、女性たちも進み出て頭を下げた。


 背の高い女性は二十歳前後で色が白く目もとは涼やか、琥珀と水晶の首飾りも華やかに、契丹族の筒袖の上着を羽織っているが、その布地は目の覚めるような青い絹で、一目で貴人と知られた。もう一人の背の低い女性はそれよりも二、三歳下に見え、身ごしらえからしておそらく侍女であろう。丸顔で細い目と薄い唇を持ち、頬は赤かった。


 だが、不思議なことに彼女たちはそこで視線を交わすとくすくす笑い出し、いっかな跪こうとはしない。


――ご本尊の前で、何だ。契丹人のくせに。


 李が眉をひそめてこの無礼な参拝客を見やると、侍女と思しき方が唇を開いた。

「そなた、先日、梅香ばいこうの門前をうろうろしていた、好色そうな漢族の片割れではないか?」

「なっ……」

 朝慶は思いもかけぬ言葉に返事もできなかったが、貴人と侍女は我慢できなくなったのか声を立てた。


――なぜあのことを知っている?

 

 男の驚愕と疑問をよそに、女たちはいかにも楽し気である。

「そうか、そなたはいま勤務の帰りなのだな、官服を着込んで。さっきまできりっとした顔の男前であったのに、今は驚いた鳩のように間の抜けた表情になっておる。まるであの時とそっくりだ」


 そう宣う高貴な女性は丹も鮮やかな唇をほころばせ、いかにもおかしそうである。


「ぶ、無礼な!そなた達が何者か知らんが、大遼の官をからかってただで済むと思うな。契丹族といっても、容赦はしないぞ。だいたい、貴様たちは何だ、あのことを知っているとは……!」


 ようやく己を取り戻し、頭から湯気を立て目を怒らせた朝慶にも動じず、今度は侍女が口を聞いた。

「貴様呼ばわりとは聞き捨てならぬ。さて、容赦しないのは結構だが、このお方の御名を耳にしても、果たしてその強気が持つであろうかの。このお方は……」

「やめよ、はしたない」


 侍女の尊大さをたしなめたのは貴婦人である。彼女は朝慶に向き直り、一転して穏やかな、親切げな目つきになった。そして仏前の壇より線香を取り上げた。


「仏前でつまらぬ口論を続け、御心を騒がせ奉るのは私の本意ではない。出来心でそなたの心を騒がせたのも、な。ではこうしよう。三日後、そなたに我が宅より使いを遣わす。これは必ず受けよ。いや、そなたは来るべきなのだ。例の事件の『真相』も、そのとき語ってやろうほどに。さあ、今は香を灯し御仏に身を投げ出して……」

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